終章灯りを消したあとで
三月の最後の金曜日、百舎には、引き取り手のなかった机がまだ一つあった。
阿部がその上へ、小さな鉢を置いていた。家で増えすぎたのだという。理恵が、土をこぼさないならいい、と言った。
会社の借金は、なくなっていなかった。元金は五百万円。三百万円の分は来月から元金も返し始める。理恵が作った表には、利息と、顧客への補償の残りと、毎月の給与が別々の行にあった。
今月の給与と支払いは済み、翌月分も口座に残っていた。既存の保守に加えて、小口の仕事が三つ動いていた。全国展開を受けた場合の売上には、遠く届かない。
工具屋の次の相談は、黒崎を通さずに届いた。その小さな契約が続けば、返済に充てられる分が少し増える。黒崎の二割を買い取るための金はまだない。創業時の書類を、理恵は来年も使う棚へ戻した。
航は、その紙の上へ、湯呑みの領収書を重ねなかった。返す金と、返せば済むわけではないものを、同じ封筒には入れられなかった。
岡野は春の間も残ることにした。改善の時間が約束どおり取れたからで、航への恩ではないと言った。
「分かってるよ」
航が答えると、岡野は、念のためです、と言った。
理恵が笑った。
航も笑った。
二月の照合で見つかった小さな設定の違いは、岡野から直接、発注元へ報告されていた。航は費用と日程の相談を引き受け、原因の報告を途中で止めなかった。三月の月次確認では、現場の記録と百舎の変更が一致した。
補償の支払いも、決めた期日で進んでいた。相手へ報告を届け、費用を払い、約束した時間に仕事をする。年明けに言ったことは、三月にも別々の人が確かめられる行為になっていた。
夕方、全員で翌週の予定を確かめた。
月曜の現場には小池と阿部が行く。航は別の見積りを持って客先へ行く。岡野は保守の問い合わせを確認してから、自分の作業を進める。理恵は水曜に早く帰る。
特別な予定ではなかった。
ひとりずつ鞄を持ち、階段を下りていった。
航は最後の湯呑みを洗った。薄い青だった。濃い青のものは、もうここにはない。
机へ戻ると、画面に翌月の売上の見込みが出ていた。
手元に翌月の支払い分があることと、これから先も必要な売上を作れることは、別だった。受注の目標に足りないところはある。相談すれば取れるかもしれない仕事もある。今日のうちに一通送っておこうかと、手が動いた。
真帆と夕飯を食べることになっていた。
航は時計を見た。
間に合う。
それでも、少しだけ座っていた。
誰かから呼ばれれば、帰らずに済む。
そんな気持ちがまだ残っていることを、もう驚かなかった。
画面を閉じ、椅子を戻した。
月曜に使う資料が、机の端に積んであった。
灯りを消した。
道路を渡って、窓を見上げた。
四年前、あの窓が明るいことが嬉しかった。
今夜は暗かった。

航は鍵を鞄へ入れ、駅へ向かった。
途中で、修司から写真が届いた。
訓練所の作業台に、修司の工具箱が載っていた。目つきの悪い猫のステッカーが見えた。その横に、青い湯呑みが置いてある。
今日、一人で最後まで組めた人がいた。
短い文だった。
航は立ち止まって見た。
おめでとう、と打った。
それから、よかったな、と打ち直した。
少し迷って、二つとも送った。
返事は、うん、だけだった。
それで充分な気がした。
スーパーで豆腐と葱を買った。
真帆から、卵も、と連絡が来た。かごへ入れたあと、前にも卵で失敗したなと思い出した。
家へ帰ると、真帆は食卓で紙を広げていた。
航が荷物を置くと、彼女は紙を箱へしまった。
「ただいま」
「おかえり。卵あった?」
「あった」
航は冷蔵庫へ入れ、葱を洗った。
真帆は来月も向こうの工房へ行く。二人の暦には空白がある。一緒に行けなかった海は、そのまま残っている。
今夜は二人で食べる。
鍋が煮えるまで、航は島で聞いた音の話をした。真帆は、あの場所なら冬は寒かっただろうねと言った。
「澪ちゃん、楽しそうだった?」
「うん。難しいって、ずっと言ってた」
真帆は笑った。
卵を割ると、小さな殻が器へ落ちた。
航が箸で取ろうとして、何度も逃がした。真帆が器を受け取り、割った殻の端ですくった。
「こっちのほうが取れるんだ」
「そうなの」
教えてもらって、器を返してもらった。
食べ始めて少ししたとき、携帯電話が鳴った。
取引先の名前だった。
画面には、そのあとすぐ、来週の相談です、というメッセージが届いた。
航は、月曜の午前にお電話します、と短く返した。
少し迷い、それから携帯電話を伏せた。
真帆は食事を続けていた。感心も、拍手も、しなかった。
「豆腐、もうひとつ食べる?」
航は、食べる、と答えた。
鍋の底で、葱が柔らかくなっていた。
誰かにとって特別な日だったのかもしれない。誰かが仕事を終え、誰かが始め、誰かはまだ帰れずにいた。
航には、その全部は分からなかった。
目の前で真帆が、熱い、と言って笑った。

食器を洗い終わると、台所の小窓が少し曇っていた。
航は、明日の分の米を研いだ。
