灯りを消したあとで17 / 17

終章灯りを消したあとで

三月の最後の金曜日、百舎には、引き取り手のなかった机がまだ一つあった。

阿部がその上へ、小さな鉢を置いていた。家で増えすぎたのだという。理恵が、土をこぼさないならいい、と言った。

会社の借金は、なくなっていなかった。元金は五百万円。三百万円の分は来月から元金も返し始める。理恵が作った表には、利息と、顧客への補償の残りと、毎月の給与が別々の行にあった。

今月の給与と支払いは済み、翌月分も口座に残っていた。既存の保守に加えて、小口の仕事が三つ動いていた。全国展開を受けた場合の売上には、遠く届かない。

工具屋の次の相談は、黒崎を通さずに届いた。その小さな契約が続けば、返済に充てられる分が少し増える。黒崎の二割を買い取るための金はまだない。創業時の書類を、理恵は来年も使う棚へ戻した。

航は、その紙の上へ、湯呑みの領収書を重ねなかった。返す金と、返せば済むわけではないものを、同じ封筒には入れられなかった。

岡野は春の間も残ることにした。改善の時間が約束どおり取れたからで、航への恩ではないと言った。

「分かってるよ」

航が答えると、岡野は、念のためです、と言った。

理恵が笑った。

航も笑った。

二月の照合で見つかった小さな設定の違いは、岡野から直接、発注元へ報告されていた。航は費用と日程の相談を引き受け、原因の報告を途中で止めなかった。三月の月次確認では、現場の記録と百舎の変更が一致した。

補償の支払いも、決めた期日で進んでいた。相手へ報告を届け、費用を払い、約束した時間に仕事をする。年明けに言ったことは、三月にも別々の人が確かめられる行為になっていた。

夕方、全員で翌週の予定を確かめた。

月曜の現場には小池と阿部が行く。航は別の見積りを持って客先へ行く。岡野は保守の問い合わせを確認してから、自分の作業を進める。理恵は水曜に早く帰る。

特別な予定ではなかった。

ひとりずつ鞄を持ち、階段を下りていった。

航は最後の湯呑みを洗った。薄い青だった。濃い青のものは、もうここにはない。

机へ戻ると、画面に翌月の売上の見込みが出ていた。

手元に翌月の支払い分があることと、これから先も必要な売上を作れることは、別だった。受注の目標に足りないところはある。相談すれば取れるかもしれない仕事もある。今日のうちに一通送っておこうかと、手が動いた。

真帆と夕飯を食べることになっていた。

航は時計を見た。

間に合う。

それでも、少しだけ座っていた。

誰かから呼ばれれば、帰らずに済む。

そんな気持ちがまだ残っていることを、もう驚かなかった。

画面を閉じ、椅子を戻した。

月曜に使う資料が、机の端に積んであった。

灯りを消した。

道路を渡って、窓を見上げた。

四年前、あの窓が明るいことが嬉しかった。

今夜は暗かった。

仕事を終えて灯りを消した百舎の二階の窓を、航が道路の向こうから見上げる。
窓が暗くても、帰る場所はある。

航は鍵を鞄へ入れ、駅へ向かった。

途中で、修司から写真が届いた。

訓練所の作業台に、修司の工具箱が載っていた。目つきの悪い猫のステッカーが見えた。その横に、青い湯呑みが置いてある。

今日、一人で最後まで組めた人がいた。

短い文だった。

航は立ち止まって見た。

おめでとう、と打った。

それから、よかったな、と打ち直した。

少し迷って、二つとも送った。

返事は、うん、だけだった。

それで充分な気がした。

スーパーで豆腐と葱を買った。

真帆から、卵も、と連絡が来た。かごへ入れたあと、前にも卵で失敗したなと思い出した。

家へ帰ると、真帆は食卓で紙を広げていた。

航が荷物を置くと、彼女は紙を箱へしまった。

「ただいま」

「おかえり。卵あった?」

「あった」

航は冷蔵庫へ入れ、葱を洗った。

真帆は来月も向こうの工房へ行く。二人の暦には空白がある。一緒に行けなかった海は、そのまま残っている。

今夜は二人で食べる。

鍋が煮えるまで、航は島で聞いた音の話をした。真帆は、あの場所なら冬は寒かっただろうねと言った。

「澪ちゃん、楽しそうだった?」

「うん。難しいって、ずっと言ってた」

真帆は笑った。

卵を割ると、小さな殻が器へ落ちた。

航が箸で取ろうとして、何度も逃がした。真帆が器を受け取り、割った殻の端ですくった。

「こっちのほうが取れるんだ」

「そうなの」

教えてもらって、器を返してもらった。

食べ始めて少ししたとき、携帯電話が鳴った。

取引先の名前だった。

画面には、そのあとすぐ、来週の相談です、というメッセージが届いた。

航は、月曜の午前にお電話します、と短く返した。

少し迷い、それから携帯電話を伏せた。

真帆は食事を続けていた。感心も、拍手も、しなかった。

「豆腐、もうひとつ食べる?」

航は、食べる、と答えた。

鍋の底で、葱が柔らかくなっていた。

誰かにとって特別な日だったのかもしれない。誰かが仕事を終え、誰かが始め、誰かはまだ帰れずにいた。

航には、その全部は分からなかった。

目の前で真帆が、熱い、と言って笑った。

夜の食卓で、航と真帆が豆腐と葱の鍋を食べる。携帯電話は伏せられ、真帆は熱い料理に笑っている。
今夜は二人で食べる。

食器を洗い終わると、台所の小窓が少し曇っていた。

航は、明日の分の米を研いだ。

夜の自宅の台所で航が明日の米を研ぐ。食後の小窓が少し曇り、普通の器と流し。会社からの称賛も誰かへの謝罪もなく、翌日の暮らしを作る一人の手。
明日の分を、今夜つくる。
この章の感想を残す

心が動いたところ、立ち止まったところ。自由に書き留められます。メモはこのブラウザにだけ保存されます。

入力すると自動保存されます。

草稿へのご感想はメモを書き出してお渡しください。この画面からの送信はありません。

目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
この物語の表紙へ

表示設定

文字の大きさ
背景色

設定と読書位置は、このブラウザに保存されます。