第一章折って持ち帰れる地図
四年目の四月、百舎でいちばん大きな仕事が終わった。航は三十六歳、修司は三十八歳になっていた。
午後六時二十分だった。
画面と手順表の設計を担当する社員、成瀬澪は、客先から届いた納品確認のメールをまだ開いていた。二十六歳の彼女にとって、初めて現地調査から納品まで担当した仕事だった。「受領しました」の文字が画面に出ている。髪を耳にかけ、また戻し、隣の修司に何か言いかけてやめた。
「分かったって。まだ言ってないけど分かった」
修司が言うと、澪は笑い出した。
「使ってくれたんです。紙のほうも」
納めたのは食品卸の倉庫で使う受注と出荷の仕組みだった。店から来た注文を入力すると、倉庫でそろえる品物と数量を確かめられ、出した荷物を記録できる。修司が処理を組み、澪は作業員が迷わず使えるよう、画面の配置と操作の手順を作った。
画面の仕事なのに、澪はいちばん最後まで、作業員がポケットへ入れる折り畳みの手順表を気にしていた。
初めて現場へ行った日、作業台には、文字がにじんだ古い表が貼られていた。手袋をした指が同じ場所を押さえるので、そこだけ読めなくなっていた。澪は帰ってから、押さえる場所の横へ余白を作った。手順の番号も大きくした。
それだけの変更を、向こうの主任は電話で褒めた。
「成瀬さんのやつ、みんな持って帰ったよ。明日忘れるなって言ったんだけど」
その電話があったあと、澪はしばらく席を立たなかった。
入社したころの彼女は、自分の作ったものを送るたび、申し訳ありません、とメールに書いていた。必要のないところまで書くので、航が一度、何について謝っているのか聞いた。
澪は答えられなかった。
その日、航は彼女の文章から謝罪を一つずつ消した。代わりに、変更したところを三つ書かせた。相手に何を見てもらいたいのか。その話だけをした。

今は、紙を使ってもらえたことが嬉しくて、同じ話を三度している。
航は経理と日々の運営を担当する社員、高瀬理恵に、弁当を少し奮発していいか尋ねた。四十四歳の理恵は、支払いの予定と勤務時間を同じ手帳に書いていた。
「税込みで一人千円まで。社長の奮発も、その中に入れてください」
理恵はいつも、金額を言う前に眼鏡を上げた。近くが見づらいのだという。航はその動作を、会社が大丈夫である印のように思っていた。
机を寄せ、弁当を広げた。修司が湯呑みを持ってきた。創業の日から使っている濃い青。底に傷が入り、机に置くと少しかすれた音がする。
澪は、冬に完成させた小さな立体地図を鞄から出した。休みの日に、私費で買った紙を重ねて作った海辺の町だった。会社の注文でも、客へ納める見本でもない。指で坂をたどれた。
「駅を出た人が、海がどっちか分かるようにしたくて」
航も触ってみた。坂を下ると、急に道がなくなる。
「ここは?」
「階段です。もっと分かるようにしないと」
修司が、空いた箸袋を小さな舟の形に折った。地図は弁当から少し離した机の中央にあり、彼は舟を、青く塗られた港の上に置いた。
「出港します」
指先で舟を押したが、紙を重ねた岸の縁に船首が引っかかった。

「そこ、陸です」
澪が言った。修司は舟を持ち上げて、青いところへ戻した。
「船長を替えてくれ」
理恵が笑い、澪も笑った。航は笑いながら、もう一度、指で駅から港までをたどった。
八時前には片付いた。
航は真帆へ連絡した。来月の連休は、予定どおり行けそうだ、と。
二人で海を見に行く約束をしていた。真帆が修復した航海日誌を、小さな資料館へ返す用事がある。仕事の用事だから旅行にはならないかと彼女は言ったが、航はそれでも構わなかった。仕事の終わった彼女と、見知らぬ町を歩きたかった。
今度は行ける。
送ったあと、航は来月の入金予定を開いた。
数字を確かめ、閉じた。
その夜は、もう一度確かめる必要がなかった。
翌朝九時十一分、あの食品卸の営業担当から電話が来た。百舎への注文と、昨日の納品の連絡を取り次いできた人だった。

話し始めるまでの呼吸が長かった。
「昨日は、本当にありがとうございました」
航は立ち上がった。
礼を言う声なのに、その先に、良い知らせが一つもないことが分かった。