第二章届かないもの
電話で告げられたのは、食品卸が事業を止めるということだった。昨日納めた仕組みの代金を、来月の支払日に払えない。どれほど払えるかも、いつになるかも、担当者には答えられなかった。
納めたものに不具合があるから、支払いを待つという話ではなかった。受領の連絡は昨日来ていた。その代金が入るつもりで、百舎はこの仕事にかかった人件費や、現場へ通う費用を先に負担していた。
航は電話を切り、納品後の動作を確認する画面を開いた。倉庫で使う仕組みは、昨日と同じように動いていた。出荷を記録する欄も、澪が大きくした手順の番号も、消えていなかった。
それが妙だった。
あんなに働いて作ったものが、会社を守る代金にはならない。画面ごと消えてしまえば、何を失ったのか、少しは分かりやすくなる気がした。
理恵は、その入金の欄をいったん空白にした。
給与、家賃、外へ頼んだ仕事の支払いは残った。ほかの小さな仕事から入る代金と口座の残高を合わせても、これまでどおり払っていけるのは、一か月と少しだった。
「来週の給料は払えます。次をどうするかです」
理恵はそう言って、航へ表を向けた。いつもと同じ動作で眼鏡を上げたが、航は安心しなかった。

澪は自分の賞与をなくしてもいいと言った。航は、それは別の話だ、と答えた。修司は何も言わず、支払日が近い順に請求書を並べ直した。航が相談の電話をかけるためだった。
航が電話をかける相手を探していると、階下の印刷所が機械を止めた。
急に静かになった。
午前中、失うものを考えた。午後は、それを失うところを皆に見られることを考えた。
二つの違いを、航は認めたくなかった。
黒崎が来たのは、その翌日だった。
励ましは言わなかった。椅子を引き、理恵の作った表を読み、まだ支払猶予の相談をしていない相手を確認した。
それから、別の取引先が進めている、地方の配送拠点をつなぐ仕事の話をした。事業を止める食品卸とは別の会社からの依頼だった。
案件名は「環」。発注元の会社で使っている配送拠点のうち、まず三か所の仕事をつなぐ計画だった。各拠点では、荷物を受け取り、行き先ごとにまとめ、次の便へ渡している。同じ会社の荷物でも、使う一覧表や、書き込む順番が場所ごとに違っていた。
黒崎は、持ってきた三枚の配送表を机に並べた。
一つ目の拠点で入力した行き先と箱の数を、荷物を受ける次の拠点では、自分たちの表へ打ち直している。変更があれば電話で知らせ、電話を受けた人が紙へ赤字を入れる。夕方には事務員が画面と紙を突き合わせ、翌日の配送表を作る。同じ荷物の情報を、別の人が何度も書いていた。
百舎が作るのは、その情報を三か所で引き継いで使える仕組みだった。受け取った情報を共通の形で見られる画面と、各現場で必要な配送表を出せるようにする。変更がどこへ届いているかも確かめる。荷物の仕分けや配送は先方の仕事で、百舎は、それを指示し確認するための情報を扱う。
作って送るだけでは終わらない。現場の使い方に合わせて直し、操作を説明し、実際の荷物の行き先と数量を、新しい画面と配送表で確かめられるところまで持っていく。三か所それぞれの担当者が、通常の出荷に使えると確認することが、今回の導入の区切りになる。
黒崎はこの仕事の紹介と、受注までの条件の調整をする。使う側の要望と導入の確認は発注元が出し、それに対して何を作り、いくらの仕事として引き受けるかは百舎が答える。黒崎から話が来たというだけで、代金や日程まで決まっているわけではなかった。
これができれば、夜遅くまで同じ情報を写し直している事務員を、早く帰せる。
百舎がいままで引き受けたどの仕事より大きかった。
「この先、ほかの拠点まで一度にと言われても、無理です」
修司が先に言った。
黒崎は頷いた。
「だから、あの会社の拠点を全部一度に受けるんじゃない。最初はこの三つだ。そこで使えると分かれば、先方も次の予算を考えられる」
理恵は入金の時期を聞いた。航は、見込める代金と、完成までに必要な費用を見比べた。三拠点の仕事を終えられれば、百舎が支払いを続ける見通しは立つ。ただし、代金を全部受け取るまでには何か月もある。その間の給与と家賃を払う金が要った。
黒崎に発注元との間をつないでもらい、三日かけて条件を詰めた。着手金、現地調査と確認を終えた工程の代金、三拠点を動かした時の残金。その順に支払う案だった。頼まれていない機能は、途中で無料追加しない。現地での説明や確認にかかる仕事も含めて、百舎が引き受ける範囲を確かめた。
三日目の夕方、黒崎は調査工程の欄を指した。
「これを今月にできれば、借りなくて済む」
まだ三つの現場へは行っていなかった。届いた配送表を見て、担当者に電話で質問しただけだった。
「終わったことにするんですか」
「書類を先に出す。実際の調査は追いつけばいい」
黒崎の声は、入金日を相談していたときと同じだった。発注元の担当者は、百舎が完了と報告すれば、その工程の代金を払う手続きへ進められるという。
航は、今日も一時間近く待った融資相談の電話を思い出した。黒崎から借りれば早い。だが株式だけでなく金まで握られれば、次の話を断るとき、またこの顔を見ることになる。
理恵が、調査のために空けた日程を机へ置いた。
「この日は何をしに行くと、先方へ伝えますか」
航は答えられなかった。
未完了だと説明すれば、今月の工程代金は入らない。借りずに済ませる計算は、そこで崩れる。完了だと言えば、修司は調べていない現場へ、調べた担当者として行く。その日に初めて知る条件があっても、最初の説明を守るために、誰かがもう一度嘘をつかなければならない。
航は三枚の配送表を揃えた。正規の着手金をもう少し増やせないか、先方へ頼む案も尋ねた。今の条件で取れる分は、既に相談してあった。黒崎は、すぐに増やせる見込みはないと答えた。
「先に完了で出すほうを断っても、貸していただけるんですか」
「返せる計画なら、貸す。その二つは別だ」
航は口座の表へ戻った。借入の欄に三百万と書けば、今年だけでなく来年の自分にも支払いが残る。会社を守れなければ、借りた金の説明も自分がする。借りなければ、と考えた途端、完了の紙がずいぶん軽く見えた。

「現場を見て、間に合わないところがあったら」
修司が言った。
「そのとき、終わってないと言えるようにしといてくれ」
終わっていないときに、終わっていないと言う。それだけのことを、紙一枚で取り上げるところだった。
修司が資料の端を折りかけ、やめた。まだ調べていないことを、調べた人間として説明するのは彼だった。
「完了とは書きません。足りない分は、貸してください」
声にしたあとも、航の胸は軽くならなかった。黒崎が紙を動かす前なら、今月だけは先に出したいと言い直せた。航は完了報告を自分の手で脇へよけ、調査の日程を表に置いた。

黒崎は書類を引っ込めた。怒りはしなかった。
「三百万。まず、それで支払いをつなごう」

別の日、会社として借りる契約を理恵と読んだ。年六%の利息を毎月払い、元金は入金から一年据え置き、その後三年に分けて返す。追加の相談は合計六百万円までできるが、返す見込みがなければ貸せない。妻の貯金や保証を、会社の返済の裏付けに入れる契約ではなかった。
黒崎は、その上限を示す指を止めた。
「君らには返せる仕事があるから貸す。私の二割も、会社がなくなれば紙になる」
貸付の紙と、四年前の出資の紙は、別の封筒に入れた。航はその二通が、いつか一緒に片付くもののように並べた。理恵は、借金を返しても株は残りますよ、と言った。
契約の最後の頁には、百舎の代表として署名する欄があった。社員の給与を減らせば借りる額を小さくできるか、と一瞬考えた。澪が賞与をなくしてよいと言った声が浮かび、その案を口にはしなかった。自分が借金を恐れる分を、いちばん先に申し出た人へ渡すことになる。

航は契約へ署名した。理恵の資金表には、三百万円の行が残った。彼女は残高を増やす欄だけでなく、翌年の返済予定にも同じ借入を書き入れた。航は最後まで見ていた。
その晩、署名した自分の名前が、いつもの字より大きく見えた。

修司は、残業をすれば何とかなるとは言わなかった。同じ人が、会社で画面を作りながら別の拠点へ説明に行くことはできない。現地へ行く日の分だけ、製作に使える日が減る。その日程を示しながら、現地で使い方を説明する回数や、稼働前に立ち会う時間を航と詰めた。引き受ける範囲は最初の案より少し広がった。
二人とも、どの仕事を増やしたかを覚えていた。
金曜日の夜、航は全員に条件を説明した。
「ここまでなら受けたい。俺はそう思ってる」
沈黙があった。
理恵が、稼働までの入出金予定を印刷した。
着手時の入金だけでは、稼働までの費用は足りない。黒崎からの三百万円でつなぎ、支払いが難しい取引先には期日の相談をする。正しく工程を終えて受け取る代金で、給与と仕入先への支払い、借入の利息を払う。来年始まる元金の返済分も用意しなければならない。売上の額だけでなく、金が入る日まで持ちこたえられるかを、皆で確かめた。
「受けるなら、支払いの相談は私も行きます。社長だけだと、最後にいい顔をするので」
修司は笑わなかったが、頷いた。
澪は、現場へ連れていってほしいと言った。
契約の翌週、給与の振込が終わった。この分は、まだ残っていた口座の金で払った。新しい契約がなければ、そのあとに続く給与や家賃をどうするか、答えのないまま残高だけが減るところだった。
理恵は終業前に、息子の学校へ提出する支払いの案内を鞄へ入れた。来月になっても、学校は百舎の入金を待ってくれない。彼女が給与の予定を確かめたかった理由は、航を安心させるためではなかった。

澪は昼休みに、自宅の家賃の振込予約をした。画面を閉じ、来週の現地調査の持ち物へ戻った。二人とも航へ礼を言うために、その生活を見せたわけではない。予定の日に支払えることが分かり、自分の仕事へ戻れた。
航は銀行の画面を閉じて、しばらく手を膝へ置いていた。自分の肩があれほど上がっていたことを、そのとき初めて知った。
給与を振り込んだ日の夕方、真帆へ電話をした。
連休の予定を変えてほしかった。
真帆は黙ったあと、宿の予約番号を尋ねた。
「私の分だけ残せるか聞いてみる」
「一人で行くの?」
「日誌を返さないと。もう展示の日が決まってるから」
もちろんそうだった。
航は、秋には、と言いかけた。
「今は決めないでいいよ」
真帆は穏やかに言った。
その穏やかさに救われ、航は、何かを一つ済ませた気になった。
*
連休、真帆は一人で港の町へ行った。
修復した日誌は、雨が入らないよう二重に包んだ。航が持つつもりだった鞄を自分で下げ、駅で乗換えの階段を上った。両手を空けられる袋へ替えておけばよかったと思った。荷物を置けるところへ着いてから、ようやく旅の景色が見えた。

資料館の人は、修復した頁を、指で押さえずに開いた。返す日まで待っていた帳面だった。真帆は、湿気の多い季節にどこへ置くかを話し、継いだ紙の境目を見てもらった。
航にもそこを見せるつもりでいた。工房で働く妻という言葉だけではなく、自分が何を判断し、何を残しているかを。
その夜、二人で予約した宿の一人分の夕飯を食べた。部屋を一人用へ替える手数料も、自分で払った。航の会社が困っていることは分かっていた。分かれば楽しみにしていた時間がなくなるわけではなかった。

携帯電話には、無事に着いたかという連絡があった。日誌を返せた、と写真を添えて送った。よかった、と返ってきたあと、こちらから説明を足そうか迷った。
いま航に長い話をすれば、困っているときに自分の話をする人間になる気がした。その感じ方まで、好きにはなれなかった。
写真を一枚だけ、日誌を無事に返した日の記録として残した。帰ってから印刷し、自分の手帳へ貼るつもりだった。
翌朝は予定の道を歩いた。航が秋の話を始めても、この一日を秋へ移すことはできない。一人で気に入った店を見つけ、歩いた道を駅まで戻った。