第六章ここでなくても
澪が相談を持ちかけたのは、秋分の日の前だった。
二人で隣室へ入った。机が四つ並び、二つは小池と阿部が使い始めていた。二人はそのとき元の部屋で作業を教わっていたので、隣室には航と澪だけだった。新しい合板の匂いがした。
澪は手帳を開いた。
「十二月から、島の資料館で働きたいと思っています」
航は、研修の相談だと思った。
「週に何日?」
「向こうへ移ります。二年の契約です」
窓の外で、配達の車がバックしていた。短い警告音が、規則正しく繰り返された。
航は、机の下で両手を組んだ。

「住田さんのところ?」
「はい」
「いつから話してたの」
「夏に募集の話を聞いて。先月、面接を受けました」
先月。
隣室を借り、澪の机の位置を考えていたころだ。
「どうして、そのとき言わなかった」
「決まるか分からなかったので」
それは普通の答えだった。
普通であることが、航にはいちばん耐えがたかった。
澪は、今より給料が下がることも、二年後の仕事が決まっていないことも承知していた。家賃の安い部屋を住田が紹介してくれた。春の公開に間に合うよう展示を作り、そのあとも、来館者の話を聞いて直していく。地図を納めたところで終わらず、使われる場所で働ける仕事だった。
航は、危ないと思った。
そして、その危なさを見つけられた自分に、少し救われた。
「こっちでもできるよ」
まだ売上の見込みもない展示事業の案を話した。澪を責任者にする。外の人とも組める。給料は下げない。

澪は最後まで聞いた。
「ありがとうございます。でも、向こうでやりたいんです」
「ここじゃ駄目なのか」
言ってから、航は、自分が何を聞いたか分かった。
澪は手帳を閉じた。
「ここへ来る前は、面接に申し込むところまでできませんでした」
声は震えていなかった。
「ここで働けたから、今度は自分で選んでみたいと思えたんです」
航は頷いた。頷くべきだと分かっていた。
澪が帰ったあと、彼は一人で、新しい部屋に残った。
彼女が前の会社で受け取った、赤い修正だらけの紙を覚えている。自分のせいで皆の仕事が遅れたと言い、何度も頭を下げた。あの日、航は机を空け、慌てなくていいと言った。
嘘ではなかった。
今でも、そうしてよかったと思っている。
それなのに、あの日の澪なら、こんなことは言わなかった、と思ってしまった。
その考えを、航は誰にも言えなかった。
翌日、退職までの相談をした。
航は十一月末という日付を聞いて、まず引継ぎを洗い出そうと言った。「環」の顧客窓口と説明の担当を変える。澪が覚えている操作上の注意を残す。年末まで続く九拠点の移行は、途中から別の人が説明できるようにしなければならない。
それとは別に、澪は「環」で作った画面や手順表を、自分の実績として資料館の人たちに見せたいと言った。採用は既に決まっている。これから一緒に展示を作る人へ、何をしてきたか伝えるためだった。顧客の業務に使っているものなので、どこまで社外へ見せてよいか、先に顧客へ確かめる必要があった。
必要な仕事だった。
航は必要な仕事を、一つずつ増やした。
どれが終われば出ていけるのかを、言わなかった。
澪は翌週、同じ表を持ってきた。
「十一月三十日で、引継ぎは終えたいです。十二月の最初の週は、向こうで展示の準備を始めます」
もう引っ越す日を決めなければ、船と搬送の手配ができない。家賃が安い部屋でも、最初に払う金は必要だった。給料の下がる仕事へ移るため、使える額を計算していた。
航は、現場からの質問が残るかもしれないと言った。
「残る質問を、誰に引き継ぐか決めたいんです」
「そこまで簡単じゃない。君が今までやってきたことだから」
澪は表を見た。航は、彼女が責任を分かってくれたと思いかけた。
「私が出ていくと、できなくなるようにしておきたくないです。小池さんに教える時間をください」
航はその案を持ち帰った。今ここで担当と終了日を書き入れれば、退職までに渡すべき仕事が決まる。後から出てくる質問は、会社が受ける仕事になる。

「全体を見てから返す」
彼は自分の手元に表を置いた。彼女の最後の日に線を引く権限を、まだ手放したくなかった。
*
その夜、澪は自宅で引越しの見積りを見た。

申込みの期限と、百舎から返ってこない引継ぎの表を並べた。二つは別の予定なのに、仕事が終わらなければ私事を決めてはいけないように感じていた。
住田へ、着任は予定どおりで、準備できた仕事の紹介から先に送ります、と書いた。採用を取り消すという話はない。それでも、新しい仲間に最初から遅れる人間として見られたくなかった。
勤める場所が変わる。好きな展示を作れる。嬉しいことを話す文の中に、百舎の確認が済んでいないという説明ばかり増えた。
澪は送る前に、後半を消した。自分で作った地図なら、自分で何を見せるか決められる。待たないで進める部分から進めようと考えた。

部屋の床には、私物を詰める箱があった。地図もそこへ戻したかった。引継ぎの手順書を作る夜には、会社の台で自分のものを作ることが、もう落ち着かなくなっていた。
航が貸してくれたときは嬉しかった。便利な場所と、そこで考えた自分の仕事まで嫌いになるのは違うと思った。地図を持ち帰るのは、その時間を自分で続けるためだった。
*
十月に入って、澪は机の立体地図を家へ持って帰った。

航はそれに気づいた。尋ねなかった。
その日の午後、黒崎が来た。隣室の大きな台を見て、あの地図はどうした、と聞いた。航が島の仕事のことを話すと、黒崎は、百舎の展示商品として売る話を作れると言った。
「会社で使っていた台だろう。ここで育てた人の仕事でもある」
航は一瞬、その言い方に乗りかけた。会社の事業になれば、澪は辞めずに済む。借金を返す売上にもなる。彼女を引き留めるための新しい理由が、まともな仕事の顔で現れた。
しかし地図の材料を買ったのは澪だった。机を貸すとき、会社の仕事とは別だと、自分で確かめた。
「本人に依頼して、条件を聞く話になります」
「それで断られたら」
航は台の傷を見た。
「会社の商品にはできません」
答えられたことに、ほっとした。それなのに引継ぎの期限を決めない自分のほうは、そのままにしていた。
黒崎が帰ると、澪へ、地図を売るという提案には応じなかった、と伝えた。澪は、自分に依頼するかどうかは自分へ聞いてほしいと答えた。
「そうだな。会社のものではないと言ったよ」
「はい。それで、引継ぎの日は決まりましたか」
二つの返事は別だった。航は守ってやれた話をしたかった。澪が欲しいのは、自分の次の一日を決めるための返事だった。
まだ調整中だと言うと、澪は表へ日付を入れた。今日聞いたことが、前回と同じ答えだったと自分で残した。航の前で、その手を隠さなかった。
