灯りを消したあとで07 / 17

第六章ここでなくても

澪が相談を持ちかけたのは、秋分の日の前だった。

二人で隣室へ入った。机が四つ並び、二つは小池と阿部が使い始めていた。二人はそのとき元の部屋で作業を教わっていたので、隣室には航と澪だけだった。新しい合板の匂いがした。

澪は手帳を開いた。

「十二月から、島の資料館で働きたいと思っています」

航は、研修の相談だと思った。

「週に何日?」

「向こうへ移ります。二年の契約です」

窓の外で、配達の車がバックしていた。短い警告音が、規則正しく繰り返された。

航は、机の下で両手を組んだ。

新しい机のある隣室で、澪が開いた手帳を前に島の資料館へ移る意思を話し、航が机の下で手を組んで聞く。
ここで働いたからこそ、次の場所を選ぶ。

「住田さんのところ?」

「はい」

「いつから話してたの」

「夏に募集の話を聞いて。先月、面接を受けました」

先月。

隣室を借り、澪の机の位置を考えていたころだ。

「どうして、そのとき言わなかった」

「決まるか分からなかったので」

それは普通の答えだった。

普通であることが、航にはいちばん耐えがたかった。

澪は、今より給料が下がることも、二年後の仕事が決まっていないことも承知していた。家賃の安い部屋を住田が紹介してくれた。春の公開に間に合うよう展示を作り、そのあとも、来館者の話を聞いて直していく。地図を納めたところで終わらず、使われる場所で働ける仕事だった。

航は、危ないと思った。

そして、その危なさを見つけられた自分に、少し救われた。

「こっちでもできるよ」

まだ売上の見込みもない展示事業の案を話した。澪を責任者にする。外の人とも組める。給料は下げない。

百舎の隣室で航が展示事業の案を示し、澪が自分の地図を私物の袋にしまったまま聞く。
会社の中に道を作っても、彼女の行き先は変わらない。

澪は最後まで聞いた。

「ありがとうございます。でも、向こうでやりたいんです」

「ここじゃ駄目なのか」

言ってから、航は、自分が何を聞いたか分かった。

澪は手帳を閉じた。

「ここへ来る前は、面接に申し込むところまでできませんでした」

声は震えていなかった。

「ここで働けたから、今度は自分で選んでみたいと思えたんです」

航は頷いた。頷くべきだと分かっていた。

澪が帰ったあと、彼は一人で、新しい部屋に残った。

彼女が前の会社で受け取った、赤い修正だらけの紙を覚えている。自分のせいで皆の仕事が遅れたと言い、何度も頭を下げた。あの日、航は机を空け、慌てなくていいと言った。

嘘ではなかった。

今でも、そうしてよかったと思っている。

それなのに、あの日の澪なら、こんなことは言わなかった、と思ってしまった。

その考えを、航は誰にも言えなかった。

翌日、退職までの相談をした。

航は十一月末という日付を聞いて、まず引継ぎを洗い出そうと言った。「環」の顧客窓口と説明の担当を変える。澪が覚えている操作上の注意を残す。年末まで続く九拠点の移行は、途中から別の人が説明できるようにしなければならない。

それとは別に、澪は「環」で作った画面や手順表を、自分の実績として資料館の人たちに見せたいと言った。採用は既に決まっている。これから一緒に展示を作る人へ、何をしてきたか伝えるためだった。顧客の業務に使っているものなので、どこまで社外へ見せてよいか、先に顧客へ確かめる必要があった。

必要な仕事だった。

航は必要な仕事を、一つずつ増やした。

どれが終われば出ていけるのかを、言わなかった。

澪は翌週、同じ表を持ってきた。

「十一月三十日で、引継ぎは終えたいです。十二月の最初の週は、向こうで展示の準備を始めます」

もう引っ越す日を決めなければ、船と搬送の手配ができない。家賃が安い部屋でも、最初に払う金は必要だった。給料の下がる仕事へ移るため、使える額を計算していた。

航は、現場からの質問が残るかもしれないと言った。

「残る質問を、誰に引き継ぐか決めたいんです」

「そこまで簡単じゃない。君が今までやってきたことだから」

澪は表を見た。航は、彼女が責任を分かってくれたと思いかけた。

「私が出ていくと、できなくなるようにしておきたくないです。小池さんに教える時間をください」

航はその案を持ち帰った。今ここで担当と終了日を書き入れれば、退職までに渡すべき仕事が決まる。後から出てくる質問は、会社が受ける仕事になる。

隣室で澪が引継ぎ表を差し出す。航は終了日と受取担当を書けるペンを持ちながら、表を自分の側へ戻す。澪は返事を待ち、勝手な引継ぎ延長の最後の一歩が見える。
日付を書ける手が、表を戻した。

「全体を見てから返す」

彼は自分の手元に表を置いた。彼女の最後の日に線を引く権限を、まだ手放したくなかった。

*

その夜、澪は自宅で引越しの見積りを見た。

夜の澪の部屋。引越しの見積りと、返事のない引継ぎ表を机に並べる。床には私物の箱、低い台には本人の立体地図。自分の次の生活を組む一人。
二つの予定を並べた夜。

申込みの期限と、百舎から返ってこない引継ぎの表を並べた。二つは別の予定なのに、仕事が終わらなければ私事を決めてはいけないように感じていた。

住田へ、着任は予定どおりで、準備できた仕事の紹介から先に送ります、と書いた。採用を取り消すという話はない。それでも、新しい仲間に最初から遅れる人間として見られたくなかった。

勤める場所が変わる。好きな展示を作れる。嬉しいことを話す文の中に、百舎の確認が済んでいないという説明ばかり増えた。

澪は送る前に、後半を消した。自分で作った地図なら、自分で何を見せるか決められる。待たないで進める部分から進めようと考えた。

澪が自宅で住田へ送る紹介文の下書きを直し、自分の地図の写真を横へ置く。紙や道具は私物。画面は抽象的な行だけで、確認を待たず進む準備を描く。
自分で見せられる仕事へ。

部屋の床には、私物を詰める箱があった。地図もそこへ戻したかった。引継ぎの手順書を作る夜には、会社の台で自分のものを作ることが、もう落ち着かなくなっていた。

航が貸してくれたときは嬉しかった。便利な場所と、そこで考えた自分の仕事まで嫌いになるのは違うと思った。地図を持ち帰るのは、その時間を自分で続けるためだった。

*

十月に入って、澪は机の立体地図を家へ持って帰った。

退勤後の澪が、自分の立体地図を私物の袋へ丁寧に入れて会社を出る。空いた大きな台が後ろにある。盗難や会社資産の持ち出しに見せない。
地図は、本人の暮らしへ戻る。

航はそれに気づいた。尋ねなかった。

その日の午後、黒崎が来た。隣室の大きな台を見て、あの地図はどうした、と聞いた。航が島の仕事のことを話すと、黒崎は、百舎の展示商品として売る話を作れると言った。

「会社で使っていた台だろう。ここで育てた人の仕事でもある」

航は一瞬、その言い方に乗りかけた。会社の事業になれば、澪は辞めずに済む。借金を返す売上にもなる。彼女を引き留めるための新しい理由が、まともな仕事の顔で現れた。

しかし地図の材料を買ったのは澪だった。机を貸すとき、会社の仕事とは別だと、自分で確かめた。

「本人に依頼して、条件を聞く話になります」

「それで断られたら」

航は台の傷を見た。

「会社の商品にはできません」

答えられたことに、ほっとした。それなのに引継ぎの期限を決めない自分のほうは、そのままにしていた。

黒崎が帰ると、澪へ、地図を売るという提案には応じなかった、と伝えた。澪は、自分に依頼するかどうかは自分へ聞いてほしいと答えた。

「そうだな。会社のものではないと言ったよ」

「はい。それで、引継ぎの日は決まりましたか」

二つの返事は別だった。航は守ってやれた話をしたかった。澪が欲しいのは、自分の次の一日を決めるための返事だった。

まだ調整中だと言うと、澪は表へ日付を入れた。今日聞いたことが、前回と同じ答えだったと自分で残した。航の前で、その手を隠さなかった。

澪が引継ぎ表の余白へ今日聞いた日付を自分で記録する。向かいの航は返事を出さず、二人の間には仕事の資料がある。地図はもう台にない。
同じ返事を、記録して残す。
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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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