第八章十一月三十日
十一月に入ったとき、澪の引継ぎ表には、項目が二十三あった。最終出勤日は十一月三十日のつもりで、澪は準備を進めていた。
同じころ、川沿いの配送拠点で事務の主任をしている西尾から、先月分の確認を求める連絡が来た。十月に一度、配送先へ渡した箱が足りず、別の便を出していた。担当者が数字を写し間違えたとして、本人に経緯を書かせたという。ところが画面には、担当者が直した数が残っていた。
「その方が、二度数えたと言うんです。表のほうを見てもらえますか」
航は、確認します、と答えた。
電話のあとで、岡野の報告書を開いた。起こる条件が一致していた。直ったのだから、もう被害は増えない。それと、既に誰かへ被せてしまった間違いの話は別だった。

西尾から、担当者の書いた経緯書と、その日に出した配送表が届いた。担当者の名は佐伯だった。今後は確認を徹底しますという最後の行を、航は二度読んだ。
佐伯が確認しなかったからではない。それを説明する技術の記録は、すぐ取り出せた。
航は返信へ、数量の更新が表に反映されない不具合がありました、と書いた。書くと、自分が知っていた日も入れなければならなくなる。十一月に見つけた話ではなかった。十月に知らせず、現場の確認だけを求めたことまで伝わる。
西尾へ電話するなら、今だった。名前も番号も、画面に出ている。訂正が遅れても、佐伯が書かされたものを残したままにするよりよかった。
航は書いた原因の一行を消した。

航は西尾へ、該当する記録を調べています、と返した。調べるためのファイルは、もう目の前にあった。
翌日、西尾から、調べる日数の目安だけでも教えてほしいと返ってきた。佐伯の説明を聞きながら、主任としてどう扱うか決められずにいるという。
航は今週中という文字を打ち、消した。期限ができれば、その日に返さなければならない。確認したら連絡します、と送った。
返事を一つ出したことで、受信箱の未処理は減った。先方が待つ日は、増えた。
岡野に報告はどうなったかと聞かれ、先方と話している、と答えた。問い合わせの返事をしたというだけの事実で、問題を説明しているように聞こえる言葉を作った。岡野には、西尾からの経緯書の相談まで転送していなかった。
出すべき報告と、澪に返すべき確認。その二つを、忙しいという同じ欄へ入れた。
翌週、二十七になった。
作業を終えれば、新しい質問が出る。新しい質問に答えれば、別の資料が要る。会社の仕事は終わらないのだから、引継ぎも終わらなかった。
澪は机で昼食を取るようになった。地図を作っていた大きな台には、手順書が積まれた。
小池へ説明をする時間を確保すると、その分、島の引越し業者へ電話する時間がなくなった。昼休みに電話をかけ、切ってから残りの弁当を食べた。夕方には、会社の手順を書き終えてから、展示の仲間へ自分の地図の説明を送った。

同じ一日を、二つの仕事に分ければよいと思っていた。航から返ってくるはずの確認を待つ時間だけは、どちらに入れればいいか分からなかった。
修司は引継ぎ表を一度全部読み、十五の項目に自分の名前を書いた。
航は書類を戻した。
「お前も忙しいだろ」
「本人しかできないことは、もうそんなにない」
「顧客から、あの人にいてほしかったと言われたら?」
「そう言われるくらい、いい仕事したってことだろう」
航は修司を見た。
修司は、どこか苛立っているようだった。そのことに航も苛立った。会社を残すために、二人でどれだけの相談をしたか。辞めたあとのことを考えるのも、いまは自分たちの仕事なのだ。
「澪には、ちゃんと分かって出ていってほしいんだ」
「何を」
航は答えるまでに時間がかかった。
「ここにいた意味だよ」
修司は、手順書から顔を上げなかった。
「それは、引継ぎ表には書けない」
その晩、澪が改めて書面を持ってきた。
十一月三十日を最終出勤日とする。担当を移す日は顧客と相談する。残る確認については、個別に引受人を決める。
最後に、会社への感謝が二行あった。
航はその二行を、いちばん長く見た。
「修司に相談した?」
澪は頷いた。
「先に俺に言えばいいのに」
「最初に、社長に言いました」
静かな声だった。
航は、彼女の手帳を思い出した。新しい合板の匂い。窓の外の警告音。
一か月以上前だった。
「……そうだったな」
書面を受け取った。
受け取っても、気持ちは従わなかった。
澪が実績として見せたいと言っていた、「環」の倉庫で使う手順表。社外に見せてよい範囲について、顧客から許可の返事は来ていた。あとは澪の用意した見本がその範囲に収まっているか、航が確認して本人へ返す段取りだった。航の受信箱の中で、その確認欄だけが空白だった。
彼はそのメールを開いた。
忙しいから、明日にする。
そう思った瞬間、自分が忙しくなくても明日にしただろうと分かった。
指が動かなかった。

初めて、誰かを待たせている時間に、力があることを知った。
次の朝、澪は、資料館へ渡す仕事の紹介には、倉庫の手順表を載せないことにしました、と言った。
「住田さん、あの日の展示を見てくださっていたので」
代わりに、夏に自分で作った地図と、そこで試したことを話すという。待っていた確認が来なくても、着任の準備は進められた。
その夜、澪は帰宅してから紹介文を作り直した。会社で作った手順表の代わりに、地図の写真を撮り直し、どこで人が迷い、どこを変えたか書いた。百舎の仕事で身につけたことがなくなったのではない。それを自分の経歴として見せるための返事を、求めた日に受け取れなかった。

翌朝、澪は送付済みの紹介文を航へ見せた。

「確認が来たら、別に残しておきます。でも今回の準備には、もう使いません」
何も許可されなくても働けることを、言い返すためだけに示したのではなかった。十一月三十日までに荷物を運び、十二月から働くために、自分で決めた。
航が持っていると思っていた鍵は、もう使われなかった。
それが悔しかった。
悔しいことのほうが、恥ずかしかった。