第十一章何も起きない夜
十二月の残りの日々で、修司は「環」の引継ぎを終えた。プログラムと不具合の調べ方は岡野へ、拠点ごとの設定と現場での確認は阿部へ渡した。小池は問い合わせを受け、説明だけで済むものと、技術担当へ回すものを整理する。客と作業の範囲や日程を決める役目は、航が持つ。
分担表に名前を書いただけで、同じ速さでできるようになるわけではなかった。修司が受けていた連絡を、残る人が実際に受けてみる期間を設けた。航が修司に相談せず約束しかけた来年の研修も、退職することを先方へ伝え、百舎でできる内容と日程を相談し直した。
十二月二十七日、仕事納めの日に、修司は湯呑みを新聞紙で包んだ。
航はそれを見ないように、机の書類をそろえた。
小池と阿部が、一緒に何か贈りたいと言った。修司は、工具箱に貼る変なステッカーがいいと答えた。二人は本当に探してきた。目つきの悪い猫が、工具を持っている絵だった。
修司はその場で貼った。

彼の次の暮らしに、百舎で働いた人が贈ったものが一つ加わった。
航は、見送りの挨拶をした。
用意した言葉は最後まで言えた。
本当に言わなければならないことは、一つも入っていなかった。
皆が帰ってから、航は修司の机を開けた。会社の工具を確認するためだった。引出しは空で、底に消しゴムのかすが残っていた。
机の横の棚に、修司が戻した古い帳面があった。創業したころ、買った備品と立て替えた金を二人で書き留めていたものだった。航は手に取り、表紙を開いた。
四年前の領収書が挟まっていた。
百円の湯呑みが三つ。
航の字で、立替、と書いてあった。その横に、修司が、お祝いだから、と小さく書き足していた。

航は紙を置いた。
四年間に払った給料も、受け取った仕事も、ここには書いていない。まだ何も始まっていないころの、ただの祝いだった。
航は、修司を助けた話を何度もしてきた。人を採るとき、取引先に会社を説明するとき。前の会社で疲れ切った仲間と、新しい場所を作りました、と。
その話の中で、修司はいつもベンチに座っていた。
百円の湯呑みを買い、帰りに寄った店で割り箸を一本余計にもらい、航の肩から重い鞄を取ってくれた人のことを、航は話していなかった。
携帯電話を取った。
言い過ぎた。お前が必要なんだ。戻ってきてほしい。
そこまで打った。
読み返すと、今度は言葉を柔らかくして、同じことを頼もうとしていた。
航は全部消した。

その下の受信箱には、西尾へ送っていない返事があった。修司へは消した言葉を、顧客へは出していない言葉を、自分の都合で使っていた。相手が待っている間だけ、自分は決める側にいられた。
航は岡野の元の報告書を印刷し、年明けの予定表に挟んだ。印刷しただけでは、まだ何も相手に届いていなかった。

航は年明けに返す相手を、西尾と書いた。全国の打ち合わせを先に入れ、その合間へ差し込もうとしてやめた。問題が残っていないという紙へ、署名する前に渡さなければならない。

表紙に、原因、自分が知った日、出さなかった報告、と三つ書いた。途中で、説明が足りなかった、と直しそうになった。足りなかったのではなく、届かないようにした。元の語を残し、鞄へ入れた。
年末の休みに、彼は何度も会社へ行った。
誰もいないと、仕事は不思議なくらい進まなかった。問い合わせはほとんど来なかった。顧客も休んでいた。確認のための画面を開いても、動く数字がない。
一度だけ通知が来た。
小池からだった。
胸が軽くなった。助けが要るのだと思った。
写真が添えられていた。帰省先の店で、百舎が作ったものに似た画面を見つけたらしい。自分たちのほうが分かりやすい、と書いてあった。
航は椅子にもたれた。
良い休暇を、と返した。
それで会話は終わった。
自分が少しがっかりしたことを、今度はごまかせなかった。
夕方、印刷所の主人が二階へ上がってきた。
「まだやる?」
航は、何を、と聞き返しそうになった。
「下、電気落とすから。階段のほうだけ残しとく」
「いえ、帰ります」
主人はそれで下りていった。
帰りますと言ったのに、航は十五分動けなかった。
帰った先に、自分を待っている仕事はない。
真帆は講習先の友人と年越しをする。航にも前から伝えていた。彼はその予定を、今回は手帳に書いていた。
誰も困っていない。
それを確かめるために、もう一度受信箱を開きかけた。
開かずに、机の上の帳面を閉じた。
電気を消した。

階段の途中で戻りたくなったが、下りた。
外は、自分がいなくても年末だった。自転車に餅の箱を積んだ人が通り、歩道で子どもが手袋を片方落とした。
航は拾って渡した。

子どもは礼を言い、すぐに走っていった。
それだけだった。