灯りを消したあとで12 / 17

第十一章何も起きない夜

十二月の残りの日々で、修司は「環」の引継ぎを終えた。プログラムと不具合の調べ方は岡野へ、拠点ごとの設定と現場での確認は阿部へ渡した。小池は問い合わせを受け、説明だけで済むものと、技術担当へ回すものを整理する。客と作業の範囲や日程を決める役目は、航が持つ。

分担表に名前を書いただけで、同じ速さでできるようになるわけではなかった。修司が受けていた連絡を、残る人が実際に受けてみる期間を設けた。航が修司に相談せず約束しかけた来年の研修も、退職することを先方へ伝え、百舎でできる内容と日程を相談し直した。

十二月二十七日、仕事納めの日に、修司は湯呑みを新聞紙で包んだ。

航はそれを見ないように、机の書類をそろえた。

小池と阿部が、一緒に何か贈りたいと言った。修司は、工具箱に貼る変なステッカーがいいと答えた。二人は本当に探してきた。目つきの悪い猫が、工具を持っている絵だった。

修司はその場で貼った。

退職の日、修司が小池と阿部からもらった猫のシールを自分の工具箱へ貼る。
工具箱の猫は、次の職場へついていく。

彼の次の暮らしに、百舎で働いた人が贈ったものが一つ加わった。

航は、見送りの挨拶をした。

用意した言葉は最後まで言えた。

本当に言わなければならないことは、一つも入っていなかった。

皆が帰ってから、航は修司の机を開けた。会社の工具を確認するためだった。引出しは空で、底に消しゴムのかすが残っていた。

机の横の棚に、修司が戻した古い帳面があった。創業したころ、買った備品と立て替えた金を二人で書き留めていたものだった。航は手に取り、表紙を開いた。

四年前の領収書が挟まっていた。

百円の湯呑みが三つ。

航の字で、立替、と書いてあった。その横に、修司が、お祝いだから、と小さく書き足していた。

仕事納めのあと、航が修司の空いた机のそばで古い帳面を開く。頁には創業の日の小さな領収書が挟まっている。
古い帳面に、創業の日の領収書が残っていた。

航は紙を置いた。

四年間に払った給料も、受け取った仕事も、ここには書いていない。まだ何も始まっていないころの、ただの祝いだった。

航は、修司を助けた話を何度もしてきた。人を採るとき、取引先に会社を説明するとき。前の会社で疲れ切った仲間と、新しい場所を作りました、と。

その話の中で、修司はいつもベンチに座っていた。

百円の湯呑みを買い、帰りに寄った店で割り箸を一本余計にもらい、航の肩から重い鞄を取ってくれた人のことを、航は話していなかった。

携帯電話を取った。

言い過ぎた。お前が必要なんだ。戻ってきてほしい。

そこまで打った。

読み返すと、今度は言葉を柔らかくして、同じことを頼もうとしていた。

航は全部消した。

仕事納め後の静かな会社で航が、修司を戻したい謝罪文を携帯から消す。古い帳面は机にあるが主役は顔と自分で消す手。画面の文章は読めない。
柔らかい言葉で、同じことを頼みかけた。

その下の受信箱には、西尾へ送っていない返事があった。修司へは消した言葉を、顧客へは出していない言葉を、自分の都合で使っていた。相手が待っている間だけ、自分は決める側にいられた。

航は岡野の元の報告書を印刷し、年明けの予定表に挟んだ。印刷しただけでは、まだ何も相手に届いていなかった。

西尾からの問い合わせ後、航が岡野の不具合報告書を開き、返していない電話のそばで立ち止まる。
直った画面と、直していない記録。

航は年明けに返す相手を、西尾と書いた。全国の打ち合わせを先に入れ、その合間へ差し込もうとしてやめた。問題が残っていないという紙へ、署名する前に渡さなければならない。

航が年明けの予定表へ西尾への報告を先に入れる。元の技術報告を鞄へ用意し、全国の予定とは分ける。決めただけではまだ相手へ届いていない静かな机。
渡す相手を、先に書いた。

表紙に、原因、自分が知った日、出さなかった報告、と三つ書いた。途中で、説明が足りなかった、と直しそうになった。足りなかったのではなく、届かないようにした。元の語を残し、鞄へ入れた。

年末の休みに、彼は何度も会社へ行った。

誰もいないと、仕事は不思議なくらい進まなかった。問い合わせはほとんど来なかった。顧客も休んでいた。確認のための画面を開いても、動く数字がない。

一度だけ通知が来た。

小池からだった。

胸が軽くなった。助けが要るのだと思った。

写真が添えられていた。帰省先の店で、百舎が作ったものに似た画面を見つけたらしい。自分たちのほうが分かりやすい、と書いてあった。

航は椅子にもたれた。

良い休暇を、と返した。

それで会話は終わった。

自分が少しがっかりしたことを、今度はごまかせなかった。

夕方、印刷所の主人が二階へ上がってきた。

「まだやる?」

航は、何を、と聞き返しそうになった。

「下、電気落とすから。階段のほうだけ残しとく」

「いえ、帰ります」

主人はそれで下りていった。

帰りますと言ったのに、航は十五分動けなかった。

帰った先に、自分を待っている仕事はない。

真帆は講習先の友人と年越しをする。航にも前から伝えていた。彼はその予定を、今回は手帳に書いていた。

誰も困っていない。

それを確かめるために、もう一度受信箱を開きかけた。

開かずに、机の上の帳面を閉じた。

電気を消した。

仕事を終えて灯りを消した百舎の二階の窓を、航が道路の向こうから見上げる。
窓が暗くても、帰る場所はある。

階段の途中で戻りたくなったが、下りた。

外は、自分がいなくても年末だった。自転車に餅の箱を積んだ人が通り、歩道で子どもが手袋を片方落とした。

航は拾って渡した。

年末の外の歩道で航が子どもの落とした手袋を拾い、本人へ渡す。小さな普通の親切、会社も取引もなく、子どもは受け取って走り出す。
それだけで終わる親切。

子どもは礼を言い、すぐに走っていった。

それだけだった。

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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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