灯りを消したあとで05 / 17

第四章知らない人の名前

七月の最後の日曜、航は真帆と資料館へ行った。

連休に行くはずだった場所とは違う。港の外れの、公民館の一部を借りた展示室だった。海の近くなのに、窓は道路へ向いていた。

澪の作った地図が、低い机に置かれていた。

見本の一つとして、一日だけ来場者に使ってもらう。そのために、学芸員の住田と地元の木工職人が、机の脚を短くしていた。

澪は航たちに気づいて、手を振った。すぐ横から呼ばれ、そちらへ戻った。

それでよかったはずだった。

航は展示の隅に立って、彼女が働くところを見た。

地図に触れた老いた女性が、坂の線をたどった。同行していた友人が何か説明しようとすると、女性は、ちょっと待って、と言った。

澪は説明をやめた。

航なら、正しい道へ指を誘導していたと思う。

女性は行き止まりを二度たどり、笑った。

「ここ、昔は抜けられたのよ」

住田が椅子を寄せた。いつごろですか、と聞いた。木工職人が鉛筆を探した。

地図の前に、人が増えた。間違いを直す会話が、昔そこにあった駄菓子屋の話になった。

港近くの展示室で、年配の来館者が低い台の立体地図を指でたどる。澪が話を聞き、住田が椅子を寄せ、木工職人が鉛筆を探す。
地図を確かめる話が、昔の町の話へ変わる。

航の知らない話だった。

澪は聞きながら、紙に小さな家を描いた。仕事で作る図より線が柔らかかった。

昼を過ぎ、会場の外でおにぎりを食べた。

「住田さん、島のほうの資料館も担当されてるんです」

澪は、沖に見える小さな島を指した。島の資料館には古い漁具と、潮位を記した帳面がある。住田はそこで展示を作り直す準備も進めていた。まず来年の春に一部を公開する。その仕事に関わりたいのだという。

港で澪が沖の島を指し、隣の航と真帆が彼女の次の仕事の場所を見つめる。
指の先には、会社の外に続く島があった。

「夏と冬で、同じ場所の音が違うんですって。まだ冬の音は聞いたことがないんですけど」

「音なんて、送ってもらえばいいんじゃないか」

航は悪気なく言った。

澪はおにぎりを飲み込んだ。

「そうなんですけど。何を録るかを、一緒に考えたいんです」

「ああ」

返事が少し遅れた。

真帆は横で、缶のお茶についた水滴を親指で拭っていた。話しているあいだも、港からは波が岸壁をたたく音が聞こえた。航は食べ終えたおにぎりの包みを畳み、しばらく海のほうを見た。

帰りの電車で、航は澪の話をした。百舎でもああいう仕事ができればいい。収益になる道を探して、新しい部門にする。彼女のやりたいことを、会社の仕事として続けさせられる。

「澪ちゃん、それを頼んだの?」

真帆に聞かれ、航は首を振った。

「これから話す」

「そっか」

真帆は窓へ顔を向けた。川を渡っていた。光の中に、鳥が一羽、止まっているように飛んでいた。

航はその横顔を見て、何か言い足したほうがいいと思った。しかし、良いことを考えているのに、何を説明すればいいのか分からなかった。

夏の帰りの電車。真帆が窓へ顔を向け、隣の航が言い足そうとして黙っている。窓外は川と光、二人の間にある静かな距離。
彼女が頼んだ仕事ではなかった。

翌週、澪は住田から届いた写真を皆に見せた。

写真の中で、彼女は航の知らない人たちと笑っていた。

航は拡大して、地図の隅を見た。そこで自分の教えた工夫が使われているのを見つけ、ようやく安心した。

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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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