灯りを消したあとで01 / 17

序章百円の領収書

会社の最初の買い物は、湯呑み三つだった。

レジ袋から出すと、青い釉薬の濃さが少しずつ違った。相良航がいちばん濃いものを取ろうとしたところで、倉田修司がそれを先にさらった。

「選ぶの遅い」

「社長だぞ、こっちは」

「じゃあ明日から社長用のを買え。三百円くらいの」

二人で笑った。机は中古だったが、笑い声を遮るものは何もなかった。二階の窓を開けると、階下の印刷所から油の匂いが上がってきた。夜七時を過ぎても、工場の機械は動いていた。

修司は茶葉を買い忘れていた。三つの湯呑みに水道水を注ぎ、ひとつを窓際へ置いた。航の妻の真帆が、本の修復をする工房の仕事を終えてから来ることになっていた。彼女は百舎の社員ではない。今日のために、自分の職場で少し早く帰れるよう相談してくれていた。

会社の名前は、株式会社百舎に決めたばかりだった。印刷所から借りているのは二階の部屋だけで、階下の機械は百舎の設備ではなかった。

客の会社へ行って仕事の流れを調べ、使いにくい入力画面や帳票、手順を作り直す。そういう仕事を請け負う会社だった。客との相談と営業は主に航が、仕組みを作って現場へ入れる仕事は主に修司が担う。当面は二人で、引き受けたものを最後まで納めるつもりだった。

代表は航で、修司は最初の社員だった。修司には株式も、会社の借金を返す約束もない。それでも、窓を開ける向きから最初の客への説明まで、二人で決めた。この部屋を作ったのは自分たちだと、どちらも思っていた。

階下の印刷所の主人が、百まで仕事をしたら、あとは数えなくていいんじゃないかと言った。修司がそれを面白がり、航が登記の書類に書いた。立派な由来ではない。だが前の勤め先では、そういう決め方をしたものは一つもなかった。

航は、領収書を机の端で伸ばした。三つの湯呑みの代金。会社から修司へ返すはずの立替金だった。

「それはいいよ。お祝い」

修司に言われ、航は経費の封筒に入れかけた紙を止めた。

修司が前の会社を辞めた夜、彼は駅のホームのベンチで眠ってしまった。航は同じ会社で働いていたが、まだ辞めると伝えていなかった。疲れ切った修司を起こせずにいる間に、電車が一本行き、もう一本行った。その間に、修司の携帯電話は三度鳴った。最後の着信を切ってから、航は自分も会社を辞めると決めた。

二人でなら、何かできると思った。

何かをしていなければ、またベンチの前に立つだけになる気がした。

入口で足音がした。真帆ではなかった。

黒崎征一が、胡蝶蘭の代わりに延長コードを持って立っていた。物流の会社へ機器や仕事の仕組みを紹介し、導入を手伝う会社の社長だった。独立前から航に仕事を回してくれた人で、百舎を始めるために個人で二百万円を出してくれた人でもあった。

「花は水をやらなきゃならん。こっちのほうが要るだろう」

実際、要った。修司がすぐに包装を剝がした。

黒崎は契約書を置き、机が二つしかない部屋を見渡した。最初の仕事は、小さな倉庫の出荷表を作り直す仕事だった。まとまった額ではない。だが、これで最初の家賃が払える。

その下には、創業前に取り交わした出資の書類の控えがあった。株式は航が八割、黒崎が二割。二百万円は借金ではなく、返す日もない。黒崎は会社が育てば利益の分配を受け、失敗すれば出した金を失う。

「毎日の仕事は君が決める。誰を採るかもだ。ただ、新しく株を出すときと、会社を売るときは、私にも話を通してくれ」

航は頷いた。誰にも頼らず始めることはできなかった。だが、前の会社と同じように、断れない上司を連れてきたつもりもなかった。

綴じた紙の後ろに、黒崎の二割を航が買い取る場合の取り決めがあった。出資額に会社の利益に応じた額を加え、総額は四百万円を超えない。条件を満たせば黒崎は持分を渡す。航が出口について聞いたとき、黒崎は嫌な顔をしなかった。

「そこまで育つなら、私は損をせん」

今は、遠い話に聞こえた。航は出口のある紙を閉じ、目の前の家賃を払える契約を上へ置いた。

航が頭を下げると、黒崎は少し笑った。

「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」

冗談を言う声だった。修司はコードの先を机の裏へ通していて、聞いていなかった。

「社長の苦労は、社員に割って配れない。君が引き受けるんだ。それができれば、ここは君の思う場所になる」

自分の思う場所。

航には、その言葉のほうが強く残った。

ここなら、修司を帰せる。誰かが意見を言ったとき、鼻で笑う人間はいない。失敗した人が、翌朝どの顔で出勤すればいいか考えなくて済む。

修司が、延長コードを机の裏へ留めようとしていた。手前へ引くたび、軽い机も少し動いた。床から声を上げた。

「航、机押さえて。こっち来る」

航はしゃがみ、机の脚を押さえた。

四年前の創業の夜。航が床へしゃがんで中古の机の脚を押さえ、修司が机裏へ延長コードを留める。低い画角で二人の共同作業を描く。
二人で押さえた机。

黒崎が帰り、真帆が来た。三人で水を飲み、駅前で買った焼きそばを分けた。真帆は本の修復を覚え始めたところで、指の関節に乾いた糊が残っていた。割り箸を取る前に、その糊を爪で剝がしていた。

創業したばかりの百舎で、航、修司、真帆の三人が中古の机を囲み、濃さの違う青い湯呑みを手にしている。机の端には小さな領収書がある。
中古の机と、三つの青い湯呑み。百舎が始まった夜。

「会社って、こうやって始まるんだね」

「もっとかっこよく始まる予定だった」

「充分かっこいいよ。水道も出るし」

帰るとき、真帆が最後の明かりを消そうとした。航は、少しだけ待ってくれと言った。

階段を下りて、道路の向こう側へ渡った。

二階の窓が明るかった。

創業の夜、航が道路の向こうから印刷所二階に借りた百舎の明るい窓を見上げる。
向こう側から見ると、二階の窓はまだ明るい。

自分がいなければ、ここにこの灯りはなかった。

その事実が、航には、抱えきれないほど嬉しかった。

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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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