序章百円の領収書
会社の最初の買い物は、湯呑み三つだった。
レジ袋から出すと、青い釉薬の濃さが少しずつ違った。相良航がいちばん濃いものを取ろうとしたところで、倉田修司がそれを先にさらった。
「選ぶの遅い」
「社長だぞ、こっちは」
「じゃあ明日から社長用のを買え。三百円くらいの」
二人で笑った。机は中古だったが、笑い声を遮るものは何もなかった。二階の窓を開けると、階下の印刷所から油の匂いが上がってきた。夜七時を過ぎても、工場の機械は動いていた。
修司は茶葉を買い忘れていた。三つの湯呑みに水道水を注ぎ、ひとつを窓際へ置いた。航の妻の真帆が、本の修復をする工房の仕事を終えてから来ることになっていた。彼女は百舎の社員ではない。今日のために、自分の職場で少し早く帰れるよう相談してくれていた。
会社の名前は、株式会社百舎に決めたばかりだった。印刷所から借りているのは二階の部屋だけで、階下の機械は百舎の設備ではなかった。
客の会社へ行って仕事の流れを調べ、使いにくい入力画面や帳票、手順を作り直す。そういう仕事を請け負う会社だった。客との相談と営業は主に航が、仕組みを作って現場へ入れる仕事は主に修司が担う。当面は二人で、引き受けたものを最後まで納めるつもりだった。
代表は航で、修司は最初の社員だった。修司には株式も、会社の借金を返す約束もない。それでも、窓を開ける向きから最初の客への説明まで、二人で決めた。この部屋を作ったのは自分たちだと、どちらも思っていた。
階下の印刷所の主人が、百まで仕事をしたら、あとは数えなくていいんじゃないかと言った。修司がそれを面白がり、航が登記の書類に書いた。立派な由来ではない。だが前の勤め先では、そういう決め方をしたものは一つもなかった。
航は、領収書を机の端で伸ばした。三つの湯呑みの代金。会社から修司へ返すはずの立替金だった。
「それはいいよ。お祝い」
修司に言われ、航は経費の封筒に入れかけた紙を止めた。
修司が前の会社を辞めた夜、彼は駅のホームのベンチで眠ってしまった。航は同じ会社で働いていたが、まだ辞めると伝えていなかった。疲れ切った修司を起こせずにいる間に、電車が一本行き、もう一本行った。その間に、修司の携帯電話は三度鳴った。最後の着信を切ってから、航は自分も会社を辞めると決めた。
二人でなら、何かできると思った。
何かをしていなければ、またベンチの前に立つだけになる気がした。
入口で足音がした。真帆ではなかった。
黒崎征一が、胡蝶蘭の代わりに延長コードを持って立っていた。物流の会社へ機器や仕事の仕組みを紹介し、導入を手伝う会社の社長だった。独立前から航に仕事を回してくれた人で、百舎を始めるために個人で二百万円を出してくれた人でもあった。
「花は水をやらなきゃならん。こっちのほうが要るだろう」
実際、要った。修司がすぐに包装を剝がした。
黒崎は契約書を置き、机が二つしかない部屋を見渡した。最初の仕事は、小さな倉庫の出荷表を作り直す仕事だった。まとまった額ではない。だが、これで最初の家賃が払える。
その下には、創業前に取り交わした出資の書類の控えがあった。株式は航が八割、黒崎が二割。二百万円は借金ではなく、返す日もない。黒崎は会社が育てば利益の分配を受け、失敗すれば出した金を失う。
「毎日の仕事は君が決める。誰を採るかもだ。ただ、新しく株を出すときと、会社を売るときは、私にも話を通してくれ」
航は頷いた。誰にも頼らず始めることはできなかった。だが、前の会社と同じように、断れない上司を連れてきたつもりもなかった。
綴じた紙の後ろに、黒崎の二割を航が買い取る場合の取り決めがあった。出資額に会社の利益に応じた額を加え、総額は四百万円を超えない。条件を満たせば黒崎は持分を渡す。航が出口について聞いたとき、黒崎は嫌な顔をしなかった。
「そこまで育つなら、私は損をせん」
今は、遠い話に聞こえた。航は出口のある紙を閉じ、目の前の家賃を払える契約を上へ置いた。
航が頭を下げると、黒崎は少し笑った。
「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」
冗談を言う声だった。修司はコードの先を机の裏へ通していて、聞いていなかった。
「社長の苦労は、社員に割って配れない。君が引き受けるんだ。それができれば、ここは君の思う場所になる」
自分の思う場所。
航には、その言葉のほうが強く残った。
ここなら、修司を帰せる。誰かが意見を言ったとき、鼻で笑う人間はいない。失敗した人が、翌朝どの顔で出勤すればいいか考えなくて済む。
修司が、延長コードを机の裏へ留めようとしていた。手前へ引くたび、軽い机も少し動いた。床から声を上げた。
「航、机押さえて。こっち来る」
航はしゃがみ、机の脚を押さえた。

黒崎が帰り、真帆が来た。三人で水を飲み、駅前で買った焼きそばを分けた。真帆は本の修復を覚え始めたところで、指の関節に乾いた糊が残っていた。割り箸を取る前に、その糊を爪で剝がしていた。

「会社って、こうやって始まるんだね」
「もっとかっこよく始まる予定だった」
「充分かっこいいよ。水道も出るし」
帰るとき、真帆が最後の明かりを消そうとした。航は、少しだけ待ってくれと言った。
階段を下りて、道路の向こう側へ渡った。
二階の窓が明るかった。

自分がいなければ、ここにこの灯りはなかった。
その事実が、航には、抱えきれないほど嬉しかった。