第七章待っている人
十月、追加九拠点の移行は、一か所ずつ進んでいた。これから入れる場所を修司たちが見に行く一方で、切り替えを済ませた拠点からは、使い方の問い合わせが届く。ある晩、新たに動かした二か所からの連絡が重なった。
岡野は、次の便を出す前に確かめなければならないものを優先し、翌朝で済むものを分けていた。修司と交代で連絡を見て、実際に止まっている仕事があるかを確認した。
航は帰宅してからその一覧を開いた。「明日の配送表に、今日直した数量が反映されますか」という質問が残っていた。岡野が朝に返すつもりで分けていたものへ、航はその夜のうちに返事をした。
朝、岡野が言った。
「社長が夜に返すと、次も夜に来ます」
「困ってるんだから、今だけは仕方ないだろう」
「今だけの終わりを、先方は知らないです」
航は、言い方が強いと思った。
その朝、岡野は画面の表示を直した。更新した時刻が見つけにくく、変更が保存されたかを使う人が判断できなかったのだ。新しい表示を説明し、配送表に反映されるところを先方と確かめた。出荷が始まる前に済む確認で、航が返した一件は、朝まで待てたものだった。
十月の第二週、その数量の確認から、別の不具合が見つかった。二つの拠点が同じ荷物を続けて修正すると、後から直した数量が配送表へ渡らないことがあった。画面には新しい数があるのに、印刷すると古い数へ戻る。毎回起こるわけではなく、七月の試用では見つけられなかった。
岡野は再現する手順と修正案を用意し、航へ見せた。まず顧客に伝え、直すまで該当する荷物を元の伝票と照合してもらう必要があった。人が確認すれば避けられるが、その人に理由を知らせなければならない。

「いま切り替えを止めると、今月の検収はどうなる」
航が尋ねると、岡野は、そこは先方と相談です、と答えた。
追加九拠点のうち、その月に切り替える分の入金を、隣室の費用と二人の給与に充てる予定だった。延期になれば、黒崎にまた金を借りる話が近づく。
岡野は、暫定の照合を続けたまま検収できるか、先方に聞くことはできると言った。できると約束はしなかった。直す期間と、その間に先方が使う人手を見て決めることだった。
航は受注時の支払い表へ、入金が一週間遅れる場合を書いた。そこに金を移すと、来月初めに足りない欄ができた。黒崎へ相談すれば、給与を払える道は残る。四月と同じで、自分が借りる金と、知らされない人の確認を比べていた。

現場へ原因を伝える報告の下書きには、修正されるまで元伝票との照合が必要、と書かれていた。自分が出せば、誰かが手を止めて二つを比べる。面倒でも、間違いの出る仕組みをそのまま信じるよりよかった。
航はその欄を読んだ。いま気づいて直せる。それは顧客にとって良い知らせのはずだった。悪い知らせにするのは、出荷を任せられると言った自分の顔のほうだった。
航は黒崎へ電話した。技術的な直し方ではなく、顧客への報告の仕方を相談した。
「直せるなら、定期の更新で直せばいい。現場には入力後の確認を徹底してくれと伝える。わざわざ事故の名前を付ける必要があるか」
「入力は、間違っていないんです」
「だったら、次から間違った結果が出ないようにすればいい」
翌朝、岡野が持ってきた報告の表題は、不具合の発生と暫定対応について、だった。航はそのファイルを閉じ、自分の文面を開いた。運用開始時の確認のお願い。仕組みの欠陥には触れていなかった。
岡野は読み終わっても立たなかった。
「これでは、向こうが使い方を間違えたみたいです」
「今週中に直す。先に大きな話にすると、現場も混乱する」
修司は別の拠点に出ていた。もう一度相談すれば、あいつは止めるだろうと思った。そのことまで分かったうえで、航は自分の名前を文末へ入れた。
送る直前、岡野が、原因の欄だけでも戻してください、と言った。
航は元の報告をもう一度開いた。原因を戻せば、確認依頼は短くても、誰が間違った結果を出したのかが伝わる。借入の話も、補償の話も、避けられるとは限らない。

「今回は、この文で出す」
修正済みと書くのはまだ早いと岡野が言い、航はその語だけ外した。正しく直せた小さな箇所で、これなら送れると思った。
二つの画面は、送信の直前にも並んでいた。原因を残す報告には送信先を入れなかった。航は確認のお願いを選び、自分の名で送った。

修正は翌日の夜に終わった。岡野は試験を終え、現場には更新の時刻と確認方法を説明した。原因と既に起きた影響については航から別に報告する、と航が先方にも岡野にも伝えていた。技術の変更記録には原因を残したが、航はその報告を出さなかった。入金も予定どおりだった。
出張から戻った修司にも、不具合と修正の内容は伝えた。顧客への報告はこちらで進めている、と航は付け加えた。修司は、対外的な説明を航が引き受け、技術は自分たちが確かめるいつもの分担だと受け取った。
通帳の数字を見て、航は初めて、春には選ばなかった方法で今月を越えたのだと知った。
四月と違って、守りたいものが増えていた。
その説明を、自分だけには何度もした。
*
更新が入る前、川沿いの拠点で、一つの配送先へ渡した箱が足りなくなった。
配送事務員の佐伯は、自分が入力した数を画面で確かめた。正しい数が残っていた。印刷した表だけが違っていた。もう一度数えたことも、変更した時刻も覚えていた。

「保存したつもりになっていたんじゃないか」
最初に聞かれたのは、その言葉だった。佐伯は違うと答えた。だが航から届いた確認のお願いには、入力後の確認を徹底してほしいとある。仕組みが、正しく入れた数を古い数へ戻すことは書かれていなかった。
足りない箱を運ぶ別便の準備に入り、佐伯も通常の仕事を続けた。出荷を遅らせた事情を書いてから帰るように言われたのは、夕方だった。
その夜は、友人と夕飯を食べる約束があった。店の予約を遅くしてもらえないか電話し、間に合わないと分かってから断った。友人は次にしようと言った。次の約束を決めるための気持ちは、そのとき残っていなかった。

経緯書の最初の文へ、数量は二度確認した、と書いた。表へ残った数が違う以上、確認が足りなかったのだと返された。
佐伯は画面をもう一度見せた。これだけでは、いつどの操作をしたか全部は分からない。会社へ調査を頼むとしても、今日は今日の経緯を出してほしいと言われた。
今後は確認を徹底します。
最後の欄へそう書くと、提出できた。確認したことを説明するために残った夜が、確認しなかった人の反省に変わった。

家では、遅い食事を温める間も、その一文を思い出した。自分の説明に自信があったはずなのに、何を見たか、どこで間違えたかをもう一度頭の中で並べた。仕事の外でも同じ確認をしていることが嫌だった。

翌日も、佐伯は同じ席へ来た。配送表を出す前に、隣の人へ数字を見てもらうようになった。必要なことならする。けれど、次に自分が合っていると言っても、一人の判断としては聞いてもらえないのかと思った。
佐伯は主任の西尾へ、経緯書だけで終わらせず、画面と表の違いを会社に聞いてほしいと頼んだ。
「私が二度数えたことまで、なかったことにしないでください」
西尾は印刷した表を取っておくと答えた。翌日の更新では数字が一致した。その一致が、前の日の佐伯の確認を証明するわけではなかった。
*
航が通帳を見ていた週、佐伯は同じ仕事を続けていた。航の手元には、入金と、翌晩に終えた技術修正の記録があった。客先で別便を出した人が経緯書まで書いたことは、まだ知らなかった。
その週、真帆の講習が始まった。
土曜の朝、航は駅まで送ると約束した。金曜の夜に会社へ泊まり、気づいたときには彼女の電車は出ていた。
前夜、真帆は紙の包みと着替えを別々の袋へ入れた。駅へ送ってもらえるなら、雨に濡らしたくない箱も持っていけた。航から帰ると連絡が来ないので、寝る前に電話をした。留守番電話へ、出る時間をもう一度残した。
朝、自分でタクシーを呼ぶか、箱を置いていくか選んだ。講習へ持っていきたかった試料は写真だけにした。会社で必要なことがあるのだろうと思った。その理由が分かることと、自分の準備が変わることは別だった。
駅への道を一人で歩いた。先に出るね、と送り、電車へ乗った。今ここで怒りを長く書けば、講習が始まるまで携帯電話を見続けることになる。初めて習う仕事のほうを、今日の自分の予定に残したかった。

*
土曜、会社で目を覚ました航の携帯電話には、先に出るね、という短い連絡だけがあった。
日曜の夕方、航は早く帰った。
何か作ろうと思い、冷蔵庫を開けた。知らない保存容器が二つあった。日付と、真帆の名前が書いてあった。
「それ、火曜日のお昼」
真帆が洗濯物を取り込みながら言った。
航は蓋を閉じた。
「今日、飯どうする?」
「向こうで食べてきた。講習の人と」
「そうか」
台所には、航の分がなかった。
いつからそうなったのか、考えても分からなかった。自分が帰らない日が多かったのだから当然だった。だが、当然というだけでは片付かない気持ちがあった。
「言ってくれれば」
真帆は、畳んでいたシャツを置いた。
「水曜日に言ったよ。日曜は夕飯いらないって」
航は覚えていなかった。
真帆は鞄から包みを出した。古い紙を漉き直して作った、試験用の小さな紙片だった。光へ透かすと、細い繊維が見えた。
「これ、できたんだ」
航は、きれいだと言った。
真帆はもう少し説明しようとした。その途中で航の電話が鳴った。
彼は画面を見た。
見るだけだった。それでも真帆は話をやめた。
「出れば」
「いや、大丈夫」
「出たほうが、落ち着くんでしょう」
そのとおりだった。
航は、今月が終われば少し余裕ができると言った。
真帆は頷かなかった。
「来月の私も、今月の私と同じところで待ってると思ってる?」
「終われば、一緒にできることが増える」
航は言った。
「そのために、今は」
真帆は紙の包みの端を揃えた。
「昨日の電車は、もう出たよ。今、できた紙を見せてるんだよ」
声が詰まり、彼女はしばらく下を向いた。航は初めて、自分が話している来月の中には、昨日の彼女も、今夜の紙も入っていないと気づいた。

携帯電話は鳴りやんだ。
航は、もう一度紙を見せてもらおうとした。真帆は包み直しているところだった。

「今日は疲れたから。またにする」
また、という言葉が残った。
自分はその言葉を、いくらでも使ってきた。
翌週、真帆は講習先で知り合った人から、工房の空いた机を半年借りる提案を受けた。月の半分を向こうで過ごす。いまの仕事を続けながら、古文書の修復を一件任せてもらえる。
彼女は、自分で条件を確かめ、自分で返事をした。
航には、決まってから知らせた。
怒る資格がないと思った。
そのあと、資格がなければ寂しがることもできないのかと考えた。
だが真帆に言えたのは、向こうの家賃はいくらなのか、ということだけだった。
真帆は、修復の仕事から少しずつ残した金で払うと答えた。三十五歳になって、ようやく自分で使い方を決められる机ができるのだという。
航は、会社へ少し回してもらえれば、と考えた。返せる日をまだ言えないことは、黙っていてもよい気がした。
真帆が家賃を書いた紙を畳んだ。百舎の表では見たことのない支払先が並んでいた。
航は、よかったな、と言った。金の話は頼まなかった。ただ、その金を自分の会社の都合で数えたことは、彼女に言わないまま残った。