第九章あの夜を消す
修司の退職の話は、その一週間後に出た。
澪と申し合わせたわけではなかった。
十二拠点の移行が済む十二月末まで働く。年明けからは職業訓練所の実習を、週の半分担当する。残りは近所の工場の保守を請ける。収入は減るが、ここで取っている役割からは離れたい。
航は紙を見た。
修司が自分の人生を表にしたのを、初めて見た。

「休めばいい。二週間でも、一か月でも」
「休みたいだけじゃない」
「じゃあ、何が気に入らない」
修司は、長く息を吐いた。
その日の夕方、航は顧客との打ち合わせで、修司が翌年度の各拠点の研修も担当すると話していた。正式な約束ではない。だが、向こうは予定を取り始めていた。
「俺が受けるか、聞かなかったな」
「できると思ったからだよ」
「できるよ」
修司はすぐに答えた。
「できるけど、引き受けるかどうかは、俺にも決めさせてくれ」
二人の間で、濃い青の湯呑みから湯気が上がっていた。
航は、修司の言いたいことが分かった。分かったので、別のことを言った。
「十二拠点を取ろうって言ったのは、お前もだろ」
「そうだよ。だから年末までやる。そのために二人採った。教えてる。途中で投げる話じゃない」
「この先のために採ったんだ」
「この先も、俺がずっといる前提だったんだな」
航は立ち上がった。
隣室を借りたときも、採用したときも、全部ここにいる人たちのためだった。自分だけのものを欲しがったわけではない。そう説明しようとした。
けれど修司はもう、その説明を知っている顔をしていた。
「お前まで出ていったら、俺は何のためにここを作ったんだよ」
修司は顔を上げた。
「俺は、ここで四年働いた」
「知ってる」
「知ってるなら、これから行く場所があることくらい」
「分かったよ」
航は遮った。
その先を聞けば、自分は頷かなければならないと思った。
前の会社から、と言おうとして、航は一度息を吸った。そこでやめられた。俺は寂しいと言うだけなら、修司がここで働いた四年間を取り上げずに済んだ。現場へ行った日も、自分が客へ出ている間に問い合わせへ答えた日も、二人で決めた会社の名前も、航は知っていた。

知っていることを脇へ置き、修司の目を見た。
「お前は、あの会社から逃げたかっただけなんだな。俺とここを作りたかったわけじゃなかった」
言葉が、机の上へ落ちた。
修司は湯呑みを持ち上げた。飲まずに置いた。

航は、もっと怒ると思っていた。椅子を蹴るか、声を上げるか。そうしてくれれば、言い過ぎた、と言えた。
修司は領収書を探すように、机の端を一度見た。
そこには、何もなかった。
「……そういうことに、できるのか」
そこまで言って、一度黙った。
修司はもう一度何か言いかけ、口を閉じた。湯呑みの横へ手を置いたが、指が落ち着かなかった。

「俺が教えたことも、作ったものも、分かってるだろ。給料をもらって、役割を持って、ここで働いたんだよ」
航は、そんな意味ではないと言った。
「そういう意味で言ったんだろ」
声が強くなり、修司は隣室へ目を向けた。まだ阿部と小池がいる。聞かせたい話ではなかった。
「戻りたくない会社だった。でも、それだけなら、ここで四年も作らない。俺がここでやったことまで、お前の言うとおりにしないと認めてもらえないのか」
航は答えられなかった。自分がどれだけ助けたかを数えれば、修司が働いた時間をまた小さくする。
修司は次の仕事の表を折った。
「引継ぎはする。年末までの仕事もする。その話と、今言われたことは、一緒にしないでくれ」
その夜、修司は引継ぎの資料を持って帰った。廊下から戻ってきて、忘れていた上着を取った。
二度目に出ていくときも、航は止めなかった。
*
帰宅した修司は、鞄から引継ぎの資料を出した。
訓練所で使う実習の見本と、工場の保守へ持っていく道具の一覧が、その下にあった。どちらも百舎の仕事を投げるために決めたものではない。週の半分を教える仕事に使い、残りの日で必要な収入を作る。それなら、夕方に終わる日を自分で決められる。

前の会社を逃げたかっただけだと言われても、その予定が間違いになるわけではなかった。
修司は来年の収入を計算し直した。百舎の給与より減る。買い足すつもりだった工具を、一つ後へ回した。自分で選んだ費用だった。だからといって、創業の仕事をなかったことにされて平気なわけではない。
最初の客のために二人で組んだ画面を思い出した。航が説明し、自分が横で直した。階下の機械が止まったあと、ここは静かだなと二人で言った夜もあった。
一度だけ、航へ電話しかけた。今言ったことは本当なのかと、もう一度聞きたかった。
画面を閉じた。会社の仕事を終えて帰ったあとも、自分がここを作りたかった人間だと証明しに行くのは、今日したいことではなかった。
引継ぎの資料へ、阿部が迷っていた設定を一つ書き足した。阿部が一人で困ることと、航へ何も言いたくないことは別だった。
食事を温め直し、次の実習の準備をした。新しい仕事の楽しみまで、今夜の言葉へ渡したくなかった。
*
翌朝、修司はいつもの時間に来た。

九月に入った阿部が、次の拠点に合わせて画面を直していた。修司はそれを見て、ひとつ質問をした。阿部が答えると、よく考えたな、と言った。
航には、仕事の話しかしなかった。
その週、澪が最後の手順書を渡した。航は実績掲載の確認も返した。遅くなった、と付け加えた。
確認済みという一語だけで済ませず、顧客が許可した範囲と、澪の用意した見本がその範囲に入っていることを書いた。返事の送付日も残した。まだ善いことをしたつもりになりたかったが、彼女が必要な日に返さなかった事実は、同じ文書の日付に残った。
澪は受け取り、ありがとうございました、と言った。
その言葉は丁寧だった。
昔よりも丁寧だった。
澪は小池に、説明する順番と、現場でよく聞かれる質問を書いた手順書を渡した。阿部とは画面の直し方を確かめた。二人だけではまだ判断できない部分は、修司が十二月の移行と一緒に引き受ける。澪がその翌月も同じ席にいなければ回らない、という状態にはせずに、最後の日を迎えた。

十一月三十日、澪は皆と写真を撮った。
岡野がタイマーを設定し、間に合わずに半分だけ写った。撮り直すと、今度は理恵が目をつぶっていた。三枚目で、ようやく全員が入った。
航も笑った。
澪は階段の下で振り向き、もう一度お辞儀をした。
新しい町の住所を、会社の連絡先一覧に残していった。
私用の欄だった。
航はそこを、しばらく開けなかった。