灯りを消したあとで10 / 17

第九章あの夜を消す

修司の退職の話は、その一週間後に出た。

澪と申し合わせたわけではなかった。

十二拠点の移行が済む十二月末まで働く。年明けからは職業訓練所の実習を、週の半分担当する。残りは近所の工場の保守を請ける。収入は減るが、ここで取っている役割からは離れたい。

航は紙を見た。

修司が自分の人生を表にしたのを、初めて見た。

修司が訓練所へ向かう自分の予定表を広げ、航が初めてその日付を見つめる。
修司の予定には、百舎の外の時間があった。

「休めばいい。二週間でも、一か月でも」

「休みたいだけじゃない」

「じゃあ、何が気に入らない」

修司は、長く息を吐いた。

その日の夕方、航は顧客との打ち合わせで、修司が翌年度の各拠点の研修も担当すると話していた。正式な約束ではない。だが、向こうは予定を取り始めていた。

「俺が受けるか、聞かなかったな」

「できると思ったからだよ」

「できるよ」

修司はすぐに答えた。

「できるけど、引き受けるかどうかは、俺にも決めさせてくれ」

二人の間で、濃い青の湯呑みから湯気が上がっていた。

航は、修司の言いたいことが分かった。分かったので、別のことを言った。

「十二拠点を取ろうって言ったのは、お前もだろ」

「そうだよ。だから年末までやる。そのために二人採った。教えてる。途中で投げる話じゃない」

「この先のために採ったんだ」

「この先も、俺がずっといる前提だったんだな」

航は立ち上がった。

隣室を借りたときも、採用したときも、全部ここにいる人たちのためだった。自分だけのものを欲しがったわけではない。そう説明しようとした。

けれど修司はもう、その説明を知っている顔をしていた。

「お前まで出ていったら、俺は何のためにここを作ったんだよ」

修司は顔を上げた。

「俺は、ここで四年働いた」

「知ってる」

「知ってるなら、これから行く場所があることくらい」

「分かったよ」

航は遮った。

その先を聞けば、自分は頷かなければならないと思った。

前の会社から、と言おうとして、航は一度息を吸った。そこでやめられた。俺は寂しいと言うだけなら、修司がここで働いた四年間を取り上げずに済んだ。現場へ行った日も、自分が客へ出ている間に問い合わせへ答えた日も、二人で決めた会社の名前も、航は知っていた。

夜の会社で航が修司と向かい合い、言葉を出す直前に止まる。修司の退職と引継ぎの紙、濃い青の湯呑み。正しい寂しさを言う道がまだ残る瞬間。
まだ、その言い方を選べた。

知っていることを脇へ置き、修司の目を見た。

「お前は、あの会社から逃げたかっただけなんだな。俺とここを作りたかったわけじゃなかった」

言葉が、机の上へ落ちた。

修司は湯呑みを持ち上げた。飲まずに置いた。

夜の百舎で、立ち上がった航と、濃い青の湯呑みを机へ戻す修司が向かい合う。二人の間には、退職と引継ぎの資料がある。
言葉のあと、修司は飲まずに湯呑みを戻した。

航は、もっと怒ると思っていた。椅子を蹴るか、声を上げるか。そうしてくれれば、言い過ぎた、と言えた。

修司は領収書を探すように、机の端を一度見た。

そこには、何もなかった。

「……そういうことに、できるのか」

そこまで言って、一度黙った。

修司はもう一度何か言いかけ、口を閉じた。湯呑みの横へ手を置いたが、指が落ち着かなかった。

創業を否定された修司が、湯呑みの横で落ち着かない指を止め、言い返そうとして口を閉じる。航は机の向こうにいる。握手や和解はなく、二人だけ。
言い返す前に、言葉が詰まった。

「俺が教えたことも、作ったものも、分かってるだろ。給料をもらって、役割を持って、ここで働いたんだよ」

航は、そんな意味ではないと言った。

「そういう意味で言ったんだろ」

声が強くなり、修司は隣室へ目を向けた。まだ阿部と小池がいる。聞かせたい話ではなかった。

「戻りたくない会社だった。でも、それだけなら、ここで四年も作らない。俺がここでやったことまで、お前の言うとおりにしないと認めてもらえないのか」

航は答えられなかった。自分がどれだけ助けたかを数えれば、修司が働いた時間をまた小さくする。

修司は次の仕事の表を折った。

「引継ぎはする。年末までの仕事もする。その話と、今言われたことは、一緒にしないでくれ」

その夜、修司は引継ぎの資料を持って帰った。廊下から戻ってきて、忘れていた上着を取った。

二度目に出ていくときも、航は止めなかった。

*

帰宅した修司は、鞄から引継ぎの資料を出した。

訓練所で使う実習の見本と、工場の保守へ持っていく道具の一覧が、その下にあった。どちらも百舎の仕事を投げるために決めたものではない。週の半分を教える仕事に使い、残りの日で必要な収入を作る。それなら、夕方に終わる日を自分で決められる。

帰宅した修司が、下がる収入の表と訓練所の実習見本、工場へ持つ工具の一覧を机に並べる。自分で選んだ仕事と会社で傷ついた夜が同じ暮らしにある。妻子は描かない。
次の仕事の表は、残っていた。

前の会社を逃げたかっただけだと言われても、その予定が間違いになるわけではなかった。

修司は来年の収入を計算し直した。百舎の給与より減る。買い足すつもりだった工具を、一つ後へ回した。自分で選んだ費用だった。だからといって、創業の仕事をなかったことにされて平気なわけではない。

最初の客のために二人で組んだ画面を思い出した。航が説明し、自分が横で直した。階下の機械が止まったあと、ここは静かだなと二人で言った夜もあった。

一度だけ、航へ電話しかけた。今言ったことは本当なのかと、もう一度聞きたかった。

画面を閉じた。会社の仕事を終えて帰ったあとも、自分がここを作りたかった人間だと証明しに行くのは、今日したいことではなかった。

引継ぎの資料へ、阿部が迷っていた設定を一つ書き足した。阿部が一人で困ることと、航へ何も言いたくないことは別だった。

食事を温め直し、次の実習の準備をした。新しい仕事の楽しみまで、今夜の言葉へ渡したくなかった。

*

翌朝、修司はいつもの時間に来た。

翌朝の百舎で修司が阿部へ設定の確かめ方を教える。怒りが消えた笑顔にはせず、相手の仕事を守る普通の指導。航との和解を含めない。
引き継ぐ相手の仕事は守る。

九月に入った阿部が、次の拠点に合わせて画面を直していた。修司はそれを見て、ひとつ質問をした。阿部が答えると、よく考えたな、と言った。

航には、仕事の話しかしなかった。

その週、澪が最後の手順書を渡した。航は実績掲載の確認も返した。遅くなった、と付け加えた。

確認済みという一語だけで済ませず、顧客が許可した範囲と、澪の用意した見本がその範囲に入っていることを書いた。返事の送付日も残した。まだ善いことをしたつもりになりたかったが、彼女が必要な日に返さなかった事実は、同じ文書の日付に残った。

澪は受け取り、ありがとうございました、と言った。

その言葉は丁寧だった。

昔よりも丁寧だった。

澪は小池に、説明する順番と、現場でよく聞かれる質問を書いた手順書を渡した。阿部とは画面の直し方を確かめた。二人だけではまだ判断できない部分は、修司が十二月の移行と一緒に引き受ける。澪がその翌月も同じ席にいなければ回らない、という状態にはせずに、最後の日を迎えた。

最終出勤前、澪が小池へ自分でまとめた説明手順書を渡す。小池は受け取り、迷う箇所を一緒に確かめる。私物の地図の権利譲渡ではない。
最後まで、渡す仕事を選んだ。

十一月三十日、澪は皆と写真を撮った。

岡野がタイマーを設定し、間に合わずに半分だけ写った。撮り直すと、今度は理恵が目をつぶっていた。三枚目で、ようやく全員が入った。

航も笑った。

澪は階段の下で振り向き、もう一度お辞儀をした。

新しい町の住所を、会社の連絡先一覧に残していった。

私用の欄だった。

航はそこを、しばらく開けなかった。

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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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