第十三章返さなくていいもの
修司に会う約束は、二月の土曜日にした。
約束をする前に、航は水原へ、顧客への訂正がどこまで届いたか確かめていた。修司が十二拠点で説明した仕組みの原因報告を、航が止めたと知らせるためだった。担当した人の確認不足という話へ変わらないよう、報告を止めた代表の名を残した。
西尾から、経緯書と現場で共有した説明の訂正を照合したと返事が来た。月次の確認で新しく分かったことは、岡野からも直接知らせる。その決め方を、航は修司にも送った。会って許してもらうことを、顧客へ伝える条件にはしなかった。
航は会社へ来てほしいと言わなかった。修司が指定した駅の、改札の外で待った。
先に来た修司は、小さな紙袋を持っていた。
「工具、一本混ざってた」
会社の刻印のあるドライバーだった。
航は受け取り、すぐには鞄へ入れなかった。
喫茶店は混んでいた。向かい合わせではなく、窓に沿った席へ並んで座った。
修司はコーヒーに砂糖を入れた。前は入れなかった。
航はそれだけのことで、この二か月を知らないのだと思った。
「あのとき言ったことを、謝りたい」
修司はカップから手を離した。
「辞めるって言われて、お前がここでしたことまで、なかったことにした。俺が困る終わり方を選んだから」
言葉は、家で何度も考えてきたものだった。
途中で、用意した順番が分からなくなった。
「お前は、ここを作りたかった。俺、知ってたんだ」
窓の外で、バスが止まった。
修司は何も言わなかった。
「知ってて、言った。ごめん」
続けて、十月の不具合を隠した件を話した。修司は年明けに岡野から経緯を聞いていた。移行を急ぎたい気持ちは自分にもあったが、顧客へ何を隠すかを航と決めた覚えはない、と言った。
「俺が現場へ行って、あの仕組みで大丈夫ですって言ったんだぞ」
航は頷いた。
「年明けに原因を聞いたとき、俺が説明した人の顔、順番に思い出したよ。辞めたから知らないで済む話じゃない。でも、知らされてないことを、知ってたようには言えない」
修司は紙袋の端を指で折り、また伸ばした。
工場の保守を始めたばかりだった。新しい客へ、今まで何をしてきたか説明した。百舎の十二拠点も、その実績だった。隠した事情を聞いたあと、自分が正しく説明できる部分と、自分が知らないまま話した部分を分けて考え直したという。
「俺が作ったものは、役に立ったと思ってる。お前が報告を出さなかったことを、その仕事の成果に混ぜないでくれ」
「混ぜない。訂正にも、俺が止めたと書いた」
航は送った文書の写しを出した。提出日と、現場で訂正を確認した日があった。修司は技術の原因より、誰がいつ報告を止めたかを読んだ。

「これを渡したから、あのとき俺が言った大丈夫ですまで、正しくなるわけじゃないからな」
航は頷いた。
修司は紙を自分の鞄へ入れた。次に説明を求められたとき、自分の推測ではなく日付のある文書を示せる。そのために持っていくものだった。
「報告を止めたことは、俺にも言わなかったんだな」
「止められると思った」
修司は返されたドライバーの袋を見た。
「止めるよ。そういうときは」
ようやくそこまで言えた。
修司は長く黙っていた。冷め始めたコーヒーをひと口飲んだ。
「俺も、途中で何回か、言えばよかったと思ってる」
「いや、お前は」
「俺の話だから、聞けよ」
航は口を閉じた。
「十二拠点、面白かったんだ。大変でも、航とならやれると思った。澪にも頼んだし、岡野にも無茶させた。あとから全部お前のせいにはできない」
修司は、指で紙のコースターを少し回した。
「でも、出ていったら、あの四年まで嘘になるとは思わなかった」
航は頷いた。
謝罪が届いたか、聞きたかった。
聞けば、修司に返事をさせることになるので、聞かなかった。
「一緒には、もう働かない」

「訓練所と、工場の仕事が始まってる。百舎の空いたところを埋めるために、そこを空けたくない」
修司は言った。
航は戻ってもらう条件を、一つも出さなかった。役職を変えれば、給与を守れば、週に一度でも来てもらえれば。用意していた案はあった。出せば修司は、今の仕事を選んだ理由をもう一度説明しなければならない。

「分かった」
航はその返事をしてから、しばらく顔を上げられなかった。
航はもう一度、頷いた。
体の中で何かが、小さく沈んだ。
分かっていたつもりでも、つもりでしかなかった。
沈黙のあと、航は訓練所の仕事を尋ねた。

修司は、難しい、と答えた。
何度教えても間違える人がいる。自分がやれば五分で終わる作業を、四十分待つ。待ったからといって、その日にできるようになるとは限らない。
「腹、立たないのか」
「立つよ。立つから、外で水飲んでくる」
修司は少し笑った。
航も笑った。
「前は帰っても、明日の客のことばっかり考えてた。今は、今日できなかった人が次にどうするか考える。考えるのは同じなんだけど、夜に呼ばれる前提じゃなくなった」
修司は来週の実習の話をした。仕事を減らしたから楽なだけではない。収入に合わせて買わないものを決め、工場へ行く日を自分で調整する。それでも、自分が引き受けた仕事で一週間を作れることが気に入っている、と言った。

昔のような笑い方ではなかった。笑ったあとに、何を話していいか迷う時間があった。
帰り際、航は湯呑みのことを思い出した。
「あれ、まだ使ってる?」
「青いの? 使ってる。向こうで」
「そうか」
「縁が欠けたから、そこに口が当たらないように回して」
航は、新しいものを買えばいい、と言いそうになった。
言わなかった。
修司の電車が先だった。改札の向こうで、紙袋を持っていた手を一度上げた。
航は見送った。

戻ってくる人を見るのとは違う見送り方を、まだ、うまくできなかった。
帰りの電車で、返されたドライバーを鞄の底へしまった。
湯呑みの領収書は、会社の古い帳面に挟んだままだった。