灯りを消したあとで16 / 17

第十五章冬の海を聞く

澪から届いた展示会の案内は、会社宛てだった。

厚い紙に、波の線が一本だけ印刷されていた。裏には、展示が一部公開になりました、と短い字があった。

理恵は目立つところに貼った。岡野は開催期間を確かめた。

航は三月の土曜日に、一人で行った。

会いに行っていいか、事前に連絡した。澪は、その日は受付と案内があるのであまり話せないかもしれません、と返してきた。

航は、展示を見に行きます、と返した。

船を下りると、風が強かった。

港からの道には、小さな案内板があった。坂を上る経路と、距離は長いが段差を避けられる経路が、別々に示されていた。

航は、澪の仕事かと思った。

案内板の端には、作った地元の中学生の名前があった。

資料館は、古い網の倉庫を使っていた。

入口に寄付の箱があった。航は小銭入れから百円玉を出し、箱へ入れた。硬い音がした。

中では、子どもが地図に両手を置いていた。

低い台の上に島の立体地図があり、海の部分には、外せる薄い青の板が重ねてある。子どもが板を一枚外すと、下にあった道の凹凸に触れられた。潮が引いたときだけ渡れる道だった。

子どもは近道を見つけ、隣にいる父親へ教えた。

「帰りには通れないかもね」

父親が板を戻すと、子どもは、じゃあこっち、と指を動かした。

島の資料館で、子どもが立体地図の道を指でたどり、隣の大人が透明な潮の板を動かしている。
地図は、別の人の手で先へ進んでいた。

澪は少し離れて見ていた。二人が別の展示へ行ってから、はまりにくくなった板の位置を直した。

島の資料館で澪が地図の潮位板を直し、航は離れてその仕事を見守る。
展示を直す手も、もう彼女自身のものだ。

航に気づくと、こんにちは、と頭を下げた。

「来たよ」

「遠かったでしょう」

「船、思ったより揺れた」

澪は笑った。

すぐに住田に呼ばれ、受付へ戻った。

航は展示室を一周した。

木工職人が作った模型。漁師が録音した船の音。澪が配置を何度も変えたという案内。作った人の名前が、それぞれの場所に書かれていた。

百舎の名前は、なかった。

航は最後の壁まで見た。

ないことを確かめている自分に気づき、少し恥ずかしくなった。

壁際のヘッドホンを耳へ当てた。

冬の浜の音だった。

最初はただ風が鳴っていた。しばらく聞くと、その奥で、小石が引かれていく細い音がした。波が来て、ほどけて、また来た。

説明には、録音した日付が書いてあった。

十二月二十七日。

航が会社で、修司の引出しを開けていた日だった。

同じ日に、澪はここにいた。

寒い浜で、誰かとマイクを押さえていた。

航の一年の中では、いなくなった人だった。

彼女には、そのあとの日があった。

*

十二月、澪は着任したばかりの部屋で、下がった給与に合わせた暮らしを始めた。荷物を全部は運ばず、先に必要な紙と道具を机へ置いた。次の週には冬の浜へ行く予定ができた。百舎から持ってきた手順表を実績として紹介する機会は、準備が済んだ最初の打ち合わせでは使わなかった。

十二月の島の新しい部屋。澪がまだ全部は運ばない荷物から紙と道具を選び、小さな机へ置く。暮らしの支払表も脇にある。船や海は窓の外の冬の遠景だけ。
いなくなったあとにも、一日があった。

後から届いた確認は、必要な記録として残した。自分の仕事が認められていないわけではないと確かめられた。それでも、提出するものを作り直した夜や、昼休みに引越しの電話をした時間が戻るわけではなかった。

今は、住田と別々のやり方を試し、木工職人へ細い道をどう作るか聞きに行ける。給料が下がっても選びたかった仕事は、会社の外で実際の一日になっていた。

*

三月の展示室で、航はまだヘッドホンを着けていた。

ヘッドホンを外し、もう一度つけた。

今度は日付ではなく、音を聞いた。

島の資料館の壁際で、航がヘッドホンを耳へ当て、冬の浜の録音を聞いている。展示室の奥では澪たちが来館者を案内している。
今度は日付ではなく、冬の浜の音を聞く。

閉館前、澪と少しだけ話せた。

「海、夏と違うね」

「違いました?」

澪の顔が明るくなった。

「石の音がした」

「そこ、何回も録り直したんです。風のほうが大きくて。地元の人が、壁の陰で録る場所を教えてくれて」

彼女は手帳を出した。

仕事の相談をするときと同じ手帳だった。濡れて乾いた頁が、少し波打っていた。

「でも、触る地図のほうはまだ迷ってて。ここの道、実際は細いから、そのまま作ると指で追えないんです」

航は、拡大すればいい、と言いかけた。

代わりに、どこで迷っているのか尋ねた。

澪は、形を正しくすることと、歩く人が分かることの違いを話した。

航は聞いた。

途中で住田が来て、備品を運ぶ相談をした。澪はそちらを向いて、明日の朝でいいですか、と返した。

戻ってきたとき、航は立った。

「そろそろ船だから」

「すみません。あまりお構いもできなくて」

「いや。面白かった」

澪は一瞬、返事を探した。

「よかったです」

それから、百舎で教わったことに、今も助けられています、と言った。

航は、ありがとう、と答えた。

その先に続けられる言葉はいくつもあった。いつでも戻ってこい。何かあれば頼れ。ここまで育ってくれて嬉しい。

どれも、半分は本当だった。

航は手帳の地図をもう一度見た。

「あの道、どうするか決まったら、また見たい」

澪は頷いた。

航は、実績紹介の確認を意図して遅らせたことを話した。忙しかったという説明を使わず、出ていくのが寂しく、返事を待っていてほしかったと伝えた。

三月の閉館前、資料館の机で航が故意に遅らせた確認を認め、澪は開いた手帳を閉じずに聞く。彼女の勤務の合間、主人公への感謝を和解の証明にしない。
感謝のあとにも、認める用事が残った。

澪は手帳を閉じずに聞いた。

「待ってるあいだ、私の聞き方が悪かったのかと思いました」

「悪くなかった。俺が返さなかった」

「もう準備をやり直したので、あのときの紹介には使えません。でも確認は残しています。私が作った仕事として、あとで見せられるので」

航は頷いた。彼女が感謝を言ったあとでも、遅らせたことを認める用事は残っていた。感謝を受け取ったことで、返さなくてよかった話にはしなかった。

「今度、社長にお願いすることがあったら、駄目なら駄目と、いつ分かるかは返してください」

「そうする」

澪は手帳へ船の時刻を書き、港へ行く道を確かめた。彼女の明日の仕事は、この話が終わったあとも続く。

帰りの船で、航は窓際に座った。

資料館の灯りは、港からは見えなかった。

見えなくても、今ごろは誰かが片付けている。澪がいて、住田がいて、自分の知らない明日の話をしている。

航は携帯電話を出し、感想を一行だけ送った。

冬の海の音が、まだ耳に残っています。

返事を待たずに、鞄へしまった。

この章の感想を残す

心が動いたところ、立ち止まったところ。自由に書き留められます。メモはこのブラウザにだけ保存されます。

入力すると自動保存されます。

草稿へのご感想はメモを書き出してお渡しください。この画面からの送信はありません。

目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
この物語の表紙へ

表示設定

文字の大きさ
背景色

設定と読書位置は、このブラウザに保存されます。