灯りを消したあとで15 / 17

第十四章一人分の夕飯

航が最初に覚えたのは、米を一合だけ炊くときの水加減だった。

夜の自宅の台所で航が明日の米を研ぐ。食後の小窓が少し曇り、普通の器と流し。会社からの称賛も誰かへの謝罪もなく、翌日の暮らしを作る一人の手。
明日の分を、今夜つくる。

二人分を作る癖が抜けず、何度も余らせた。冷凍しておけばいいと真帆に言われ、平たく包むようにした。丸いままだと、温め直しても真ん中が冷たい。

そんなことを、三十六歳で覚えた。

真帆は月の半分を、向こうの工房で過ごしていた。戻る日に駅へ迎えに行くこともあったが、航はその予定を先に尋ねた。

二月のある夜、真帆は九時を過ぎて帰ってきた。

玄関へ入るなり手を洗いたいと言い、鞄を置く前に流しへ行った。糊を使ったまま電車に乗ったのだという。

航は食事を済ませていた。

鍋に残してある、と伝えると、真帆は、ありがとう、と言った。

二人で食卓につき、航はお茶だけを飲んだ。

真帆が講習の写真を見せた。破れた紙を直した跡が、斜めの光でうっすら見えていた。

真帆が修復講習の紙の写真を見せ、先に食事を済ませた航が茶を前に話を聞く。
彼女の仕事にも、消さずに残す跡がある。

「跡は消さないんだ」

「なくすと、元の紙との境目が分からなくなるから。あとから別の人が直すとき、困る」

「へえ」

彼女は、使った紙をどう薄くしたか話した。航には半分くらいしか分からなかった。それでも、どの説明のとき彼女が嬉しそうになるかは分かった。

携帯電話が鳴った。

航は一度手を伸ばし、止めた。

真帆はその手を見ていた。

夜の食卓で真帆だけが夕飯を食べ、航は茶だけで同席している。携帯へ伸ばした手を止め、真帆の話へ顔を戻す。
一人分の夕飯に、お茶だけで同席する。

「急ぎじゃないの?」

画面だけ確かめた。翌月の打ち合わせ候補日の連絡だった。

「明日で大丈夫」

それから、紙を漉くときの道具の話に戻った。繊維をすくい上げる簀という道具で、真帆はさっきから、その目の細かさを指で示そうとしていた。

真帆は、さっきと同じところから話さなかった。少し先から始めた。航は分からなくなり、一つ前のことを聞き直した。

彼女は説明し直した。

そのやり取りの途中で、ようやく肩の力が抜けた。

「前に、紙を包んでしまったときも、この話をしたかった?」

航が尋ねると、真帆は少し考えた。

「似た話。でも、あの日は最初に自分で漉けた日だったから」

今日なら道具の説明ができる。その日の驚きを、そのまま今日へ戻すことはできない。航は聞いていなかった話を、後から全部聞けば取り返せると思いかけていた。

「あのとき、見てるつもりで、次の電話を考えてた」

真帆はうんと答えた。

「私が、話をやめたのは分かった?」

「分かった。でも、また聞けばいいと思った」

「そうなると、次に何ができても、まず今話していいかを考えるんだよ。紙のことより先に」

真帆は食べかけの魚へ箸を戻した。航に会社を辞めてほしかったわけではない。自分の仕事を喜ぶ前に、夫へ遠慮する暮らしを続けたくなかった。

二月の自宅、真帆が食べかけの魚へ箸を戻し、夫に話してよいか先に考える苦しさを伝える。航は茶だけで聞く。食器は彼女一人分、紙の写真は脇に置く。
紙の話より先に、遠慮していた。

航は、次から全部大丈夫だと言いそうになった。言わずに、今日は続きを聞いていいか尋ねた。

「うん。聞きたいなら」

その返事のあとで、真帆は薄くした紙の写真をもう一枚見せた。航は違いが分からず、隣の写真とどこを比べるか聞いた。初めて、彼女が使っている道具を順番に知った。

食後、航が皿を洗っていると、真帆が台所の入口に立った。

「向こうの机、夏まで借りたい」

「うん」

「今の修復、もう少し続くから」

航はスポンジを握り直した。

分かった、とすぐに答えればいい。そう思った。だが、答える前に一度、湯を止めた。

食後、航が流しの湯を止め、スポンジを持ったまま、台所入口の真帆へ寂しさを伝える。真帆の工房の机を続ける相談。帰還を条件にした和解の抱擁はない。
寂しさを、戻る条件にしない。

「寂しいとは思う」

真帆は黙っていた。

「でも、こっちへ戻ることを、俺が変わった証拠にはしなくていい」

真帆は少し眉を寄せた。

「証拠にしたこと、ないよ」

「俺が、しそうだった」

航はそれ以上、うまく説明できなかった。

真帆は、そう、と言った。

翌朝、二人は帰宅の予定を卓上の暦へ書いた。真帆のいない日に、航の仕事の予定が入るとは限らない。何も書かれていない日が、いくつかできた。

航はそこを埋めなかった。

空いた日を、妻を待つためだけの日にもしなかった。自分の洗濯をして、食べるものを決め、散歩へ行った。夕方に真帆から写真が届いたら、帰ってくる日を聞くより先に、今日何を直したのか尋ねた。

真帆のいない休日、航が自宅で自分の洗濯を干す。小さな食事の準備が台所にあり、仕事の電話は置かれたまま。自分の暮らしを作る平凡な午後。
空白の日にも、自分の生活がある。

真帆は仕事の区切りで返した。すぐ返ってこなくても、航は会社の連絡で埋め直さなかった。

会社では、新しい小口の仕事が一つ決まった。

黒崎に教わった会社には断られたが、以前付き合いのあった工具屋から、注文の抜けを減らしたいと相談された。電話で受けた注文のメモが別々の場所に置かれ、どれを手配したか分からなくなるのだという。

受けた注文を一つの一覧へ入力し、手配したものに印をつけて、残った注文を確かめる。百舎はそのための画面を作った。小池が現場を見て説明の手順をまとめ、阿部が設定と動作の確認をした。

航は最初の説明だけ同行した。

帰り道、小池が言った。

「私、さっきの説明、ちょっと間違えました」

「どこ?」

聞くと、まだ手配していない注文が、自動的に一番上へ集まると説明してしまったらしい。引き受けたのは、印の有無で注文を確認できるところまでで、自動で並べ替わる画面にはなっていなかった。

航は、自分が先方へ電話をすれば、と考えた。

「どう直す?」

代わりにそう聞いた。

小池は、今日中に訂正すると答えた。画面の印を順に確かめるか、一覧を印刷して未手配の注文を拾うか。いま使える方法を見せたうえで、自動の並べ替えまで必要なら、別の相談として持ち帰る。

夕方、報告が来た。相手は、まず画面で確認する方法を使うと言った。小池はその手順を阿部にも伝え、説明に使う紙を直した。

航は安堵した。

少しだけ、出番を失った気もした。

その両方の気持ちのまま、ありがとう、と返した。

窓際には隣室から戻した机が二つ置かれていた。一つはまだ引き取り手がなかった。高く買って安く売ることになり、航は運び出すたび後悔した。

過ぎたことを正しいことにはできなかったが、机は少しずつ減った。

二月の水曜、取引先が夕方の打ち合わせを求めてきた。理恵が早く帰る日だった。航は明日の午前なら一緒に数字を見られると答え、その日は自分が確認できる範囲だけを引き受けた。

水曜の会社で航が取引先へ翌午前の打ち合わせを伝え、理恵は決めた退勤の鞄を持つ。本人の夕飯を残業へ変えない分担。小規模の普通の事務室。
残る人の予定を、翌週も守る。

会社に残っていてくれるのだから、少しくらいという考えが浮かんだ。自分が断れば時間がかかる。その時間を、理恵が家で夕飯を食べる予定へ押し込めることはしなかった。

岡野の改善の半日にも、急がない修正を入れなかった。金曜には直った共通部分を見せてもらい、問い合わせのたびに直していた箇所が一つ減った。守った時間は、作りたい仕事に変わっていた。

この章の感想を残す

心が動いたところ、立ち止まったところ。自由に書き留められます。メモはこのブラウザにだけ保存されます。

入力すると自動保存されます。

草稿へのご感想はメモを書き出してお渡しください。この画面からの送信はありません。

目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
この物語の表紙へ

表示設定

文字の大きさ
背景色

設定と読書位置は、このブラウザに保存されます。