第十四章一人分の夕飯
航が最初に覚えたのは、米を一合だけ炊くときの水加減だった。

二人分を作る癖が抜けず、何度も余らせた。冷凍しておけばいいと真帆に言われ、平たく包むようにした。丸いままだと、温め直しても真ん中が冷たい。
そんなことを、三十六歳で覚えた。
真帆は月の半分を、向こうの工房で過ごしていた。戻る日に駅へ迎えに行くこともあったが、航はその予定を先に尋ねた。
二月のある夜、真帆は九時を過ぎて帰ってきた。
玄関へ入るなり手を洗いたいと言い、鞄を置く前に流しへ行った。糊を使ったまま電車に乗ったのだという。
航は食事を済ませていた。
鍋に残してある、と伝えると、真帆は、ありがとう、と言った。
二人で食卓につき、航はお茶だけを飲んだ。
真帆が講習の写真を見せた。破れた紙を直した跡が、斜めの光でうっすら見えていた。

「跡は消さないんだ」
「なくすと、元の紙との境目が分からなくなるから。あとから別の人が直すとき、困る」
「へえ」
彼女は、使った紙をどう薄くしたか話した。航には半分くらいしか分からなかった。それでも、どの説明のとき彼女が嬉しそうになるかは分かった。
携帯電話が鳴った。
航は一度手を伸ばし、止めた。
真帆はその手を見ていた。

「急ぎじゃないの?」
画面だけ確かめた。翌月の打ち合わせ候補日の連絡だった。
「明日で大丈夫」
それから、紙を漉くときの道具の話に戻った。繊維をすくい上げる簀という道具で、真帆はさっきから、その目の細かさを指で示そうとしていた。
真帆は、さっきと同じところから話さなかった。少し先から始めた。航は分からなくなり、一つ前のことを聞き直した。
彼女は説明し直した。
そのやり取りの途中で、ようやく肩の力が抜けた。
「前に、紙を包んでしまったときも、この話をしたかった?」
航が尋ねると、真帆は少し考えた。
「似た話。でも、あの日は最初に自分で漉けた日だったから」
今日なら道具の説明ができる。その日の驚きを、そのまま今日へ戻すことはできない。航は聞いていなかった話を、後から全部聞けば取り返せると思いかけていた。
「あのとき、見てるつもりで、次の電話を考えてた」
真帆はうんと答えた。
「私が、話をやめたのは分かった?」
「分かった。でも、また聞けばいいと思った」
「そうなると、次に何ができても、まず今話していいかを考えるんだよ。紙のことより先に」
真帆は食べかけの魚へ箸を戻した。航に会社を辞めてほしかったわけではない。自分の仕事を喜ぶ前に、夫へ遠慮する暮らしを続けたくなかった。

航は、次から全部大丈夫だと言いそうになった。言わずに、今日は続きを聞いていいか尋ねた。
「うん。聞きたいなら」
その返事のあとで、真帆は薄くした紙の写真をもう一枚見せた。航は違いが分からず、隣の写真とどこを比べるか聞いた。初めて、彼女が使っている道具を順番に知った。
食後、航が皿を洗っていると、真帆が台所の入口に立った。
「向こうの机、夏まで借りたい」
「うん」
「今の修復、もう少し続くから」
航はスポンジを握り直した。
分かった、とすぐに答えればいい。そう思った。だが、答える前に一度、湯を止めた。

「寂しいとは思う」
真帆は黙っていた。
「でも、こっちへ戻ることを、俺が変わった証拠にはしなくていい」
真帆は少し眉を寄せた。
「証拠にしたこと、ないよ」
「俺が、しそうだった」
航はそれ以上、うまく説明できなかった。
真帆は、そう、と言った。
翌朝、二人は帰宅の予定を卓上の暦へ書いた。真帆のいない日に、航の仕事の予定が入るとは限らない。何も書かれていない日が、いくつかできた。
航はそこを埋めなかった。
空いた日を、妻を待つためだけの日にもしなかった。自分の洗濯をして、食べるものを決め、散歩へ行った。夕方に真帆から写真が届いたら、帰ってくる日を聞くより先に、今日何を直したのか尋ねた。

真帆は仕事の区切りで返した。すぐ返ってこなくても、航は会社の連絡で埋め直さなかった。
会社では、新しい小口の仕事が一つ決まった。
黒崎に教わった会社には断られたが、以前付き合いのあった工具屋から、注文の抜けを減らしたいと相談された。電話で受けた注文のメモが別々の場所に置かれ、どれを手配したか分からなくなるのだという。
受けた注文を一つの一覧へ入力し、手配したものに印をつけて、残った注文を確かめる。百舎はそのための画面を作った。小池が現場を見て説明の手順をまとめ、阿部が設定と動作の確認をした。
航は最初の説明だけ同行した。
帰り道、小池が言った。
「私、さっきの説明、ちょっと間違えました」
「どこ?」
聞くと、まだ手配していない注文が、自動的に一番上へ集まると説明してしまったらしい。引き受けたのは、印の有無で注文を確認できるところまでで、自動で並べ替わる画面にはなっていなかった。
航は、自分が先方へ電話をすれば、と考えた。
「どう直す?」
代わりにそう聞いた。
小池は、今日中に訂正すると答えた。画面の印を順に確かめるか、一覧を印刷して未手配の注文を拾うか。いま使える方法を見せたうえで、自動の並べ替えまで必要なら、別の相談として持ち帰る。
夕方、報告が来た。相手は、まず画面で確認する方法を使うと言った。小池はその手順を阿部にも伝え、説明に使う紙を直した。
航は安堵した。
少しだけ、出番を失った気もした。
その両方の気持ちのまま、ありがとう、と返した。
窓際には隣室から戻した机が二つ置かれていた。一つはまだ引き取り手がなかった。高く買って安く売ることになり、航は運び出すたび後悔した。
過ぎたことを正しいことにはできなかったが、机は少しずつ減った。
二月の水曜、取引先が夕方の打ち合わせを求めてきた。理恵が早く帰る日だった。航は明日の午前なら一緒に数字を見られると答え、その日は自分が確認できる範囲だけを引き受けた。

会社に残っていてくれるのだから、少しくらいという考えが浮かんだ。自分が断れば時間がかかる。その時間を、理恵が家で夕飯を食べる予定へ押し込めることはしなかった。
岡野の改善の半日にも、急がない修正を入れなかった。金曜には直った共通部分を見せてもらい、問い合わせのたびに直していた箇所が一つ減った。守った時間は、作りたい仕事に変わっていた。