灯りを消したあとで13 / 17

第十二章署名する手

年明け、航は全国展開の契約案を読んだ。

仕事内容にも、前払いの条件にも、魅力があった。ただ、今回の契約案には、百舎に納品後の問題が残っていないことを確かめる書類も付いていた。

資金は入る。専門の人が増える。百舎の名前も残る。澪と修司が去り、航、理恵、岡野、小池、阿部の五人になった会社が、毎月の残高だけを見て仕事を選ばずに済む可能性があった。

三年間、航は責任者を続ける。

何よりも、その先にいる自分を想像しやすかった。現場へ行き、決め、頼まれ、いなければ困る人間であり続ける。

断った先は、うまく想像できなかった。

その日の午後、航は印刷しておいた岡野の報告書を鞄に入れ、黒崎に会った。十月の不具合と、その後の誤配送を話した。直すだけで済ませるよう勧めた件だと伝えると、黒崎は覚えていた。

「現場から上へ上がる前なら、止められるかもしれん。報告を扱う管理担当に、話のつく人がいる」

「止める、というのは」

「謝礼を払って、この件を審査に載せないよう頼む」

顧客への補償ではなかった。個人へ金を渡し、都合の悪い報告を消してもらう。航が賄賂ですかと聞くと、黒崎は否定しなかった。

「君が今、守ろうとしている人間の給料と比べて考えろ」

航は、守るという言葉を何度も使ってきた。西尾が電話で話した、二度数えたという人の顔は知らなかった。その人の給料を考えたことはなかった。

黒崎は全国の契約案を開いていた。航の名前が責任者の欄にあり、次の三年にも百舎の仕事が並ぶ。年内に実際に作ったものは役に立った。それを土台にすれば、社員の給与と、もっと良い開発の時間が作れる。

隠した報告をこの机だけで終わらせれば、予定はそのまま続く。西尾へは調査を進めたとだけ返せる。佐伯が書いた最後の一行を、今度こそ確定させることになる。

航は鞄から経緯書の写しを出した。佐伯の署名を見た。自分が署名する全国の書類には、納品後の問題が残っていないという欄がある。技術の修正は終わった。けれど、自分が止めた原因の報告と、目の前の経緯書は残っている。

年明け、黒崎の会社の机。航が佐伯の経緯書と全国契約案を並べ、二つの署名欄を見比べる。黒崎は向かいで待つ。現金授受や裏の管理担当は描かない。
何を消すための金かを確かめた。

「その謝礼を払えば、私が十月に知っていたことも、審査には出ないんですね」

「そういう話をつけるということだ」

航は確かめてから、紙を閉じた。分からずに聞いたのではなかった。何を買う金なのかを、自分に曖昧にしないために聞いた。

「払いません。原因と、知っていた日を出します」

「直ったものを、わざわざ戻すのか」

「直っていない人がいます」

言ってから、その人を自分の決心のための言葉にしてしまった気がした。航は持ってきた報告書を開いた。言葉を整えるより先に、十一月の電話へ返事をしなければならなかった。

席を立つ前に、西尾へ連絡した。手元で分かった原因と、十月に報告を止めた経緯を説明したい。担当者の経緯書の訂正に必要な資料も持っていく、と伝えた。

黒崎の席で、航が自分の携帯電話から西尾へ報告の連絡をする。経緯書と元の報告が机にあり、黒崎はその決断を見ている。電話の向こうの人物は別画面にしない。
知った日を、自分の声で答える。

「いつから、分かっていたんですか」

西尾の声が低くなった。

「十月の第二週です」

通話の向こうで、人を呼ぶ声がした。西尾は少し待ってくれと言い、別の電話へ出た。航はその間、黒崎のいる机で待った。自分が連絡しなかった二か月も、西尾たちはこうして毎日の出荷を続けていた。

戻ってきた西尾は、水原にも時間を取ってもらうと答えた。航が分かりましたと言うと、もう原因は確認できているんですね、と確認した。

「技術の原因は確認できています。報告が遅れたのは、私が止めたからです」

航は電話でそう言った。送ってしまえば、あとから報告を出す前の状態には戻せないと思っていた。その状態は、自分が長く相手を待たせて得たものだった。

黒崎の前を離れ、会社へ戻ってから元の報告と日付を送った。件名を、追加の説明にしようとしてやめた。十月の報告の訂正、と書いた。送信を押すまで、契約案の責任者の欄が頭に残った。

航が会社へ戻り、元の報告と日付をパソコンから送る。件名は判読不能の行でよい。机には全国の契約案が残り、送信を押す直前の手と緊張した顔を描く。
訂正として、相手へ送る。

翌日、発注元の業務責任者である水原と、西尾に時間をもらった。岡野が技術的な経緯を説明し、航は、十月に不具合を知ったこと、自分の判断で事故報告を出さなかったことを伝えた。

航が水原と西尾の前に止めていた報告書を置き、岡野も同席して経緯を説明する。
航の名で止めた報告を、航の名で出す。

水原は、岡野が作った報告書の日付を見た。

「では、報告が上がってこなかったのではないんですね」

「はい。私が止めました」

西尾は、担当者の経緯書を机へ出した。欄の下には、今後は確認を徹底します、と書かれていた。

「本人には、私から説明します。この記録も訂正します。ただ、この人が書いた夜は戻りません」

航は頭を下げた。許すとも、二度と来るなとも言われなかった。追加便の費用、同じ不具合が起きた範囲の確認、顧客が使った調査時間について、百舎が負担する範囲を話し合った。

航は、自分が出した確認のお願いを訂正し、原因と発生期間を、同じ説明を受けた先へ送り直すと言った。西尾は、主任へ送れば現場の全員に伝わったことにはならない、と答えた。

「誰に渡したか、こちらで確かめます。個人の責任のまま残った紙がないかも見ます。その照合の時間まで、なかったことにはできません」

航は頷き、元の文を出した日から説明を受けた人を追うための記録を渡した。佐伯以外にも被害があったかどうかを、自分が決めつけてはならなかった。

「保守を、今ここで別の会社へ移すと、誰が引継ぎをすることになりますか」

水原が尋ねた。新しい会社が十二拠点の設定を調べている間も、毎日の出荷はある。直った仕組みまで取り替えれば、西尾たちはまた二つの表を使うことになる。

「契約期間の仕事は続けてもらいます。ただし、問題の報告は岡野さんからも直接受ける。毎月、現場側と変更の記録を照合する。次の契約を頼むかは、その結果を見て決めます」

航は頷いた。百舎への信頼が元に戻ったからではない。顧客が自分たちの出荷を守るために選んだ、条件のある継続だった。水原は西尾にも、現場で判断に困ったことを自分へ直接知らせるよう頼んだ。

報告を終えると、全国展開の審査は保留になった。借入を避けた十月より、返すべき金と費やす時間が増えた。

*

その日の午後、西尾は川沿いの拠点で佐伯へ説明した。

画面から配送表へ数量を渡す部分の不具合だった。佐伯が数字を写し間違えたのではない。西尾はそう言い、経緯書の訂正案を机へ置いた。

佐伯は最後まで読み、紙を一度戻した。

「では、私が書いた確認を徹底するというところは、残すんですか」

「元の記録としては残します。原因があなたではないという訂正を、同じ記録に付けます。先に見た人へも渡します」

佐伯は、訂正を見てもらう相手の名前を確かめた。自分へ確認が足りなかったと言った人、別便の手配をした人、経緯書を受け取った人。西尾の名だけで終わらせたくなかった。

川沿い拠点で佐伯が訂正案を読み、渡す相手の一覧を西尾と確かめる。本人の指が紙を押さえ、西尾はペンを持って待つ。航はこの場にいない。
誰へ届く訂正かを、本人が確かめる。

「二度確認したと言ったことも、書いてください」

西尾は加えた。佐伯は新しい文を読んでから、内容を確認した日を入れた。古い経緯書への署名を、納得していた証拠にしてほしくないと伝えた。

佐伯が訂正した文書へ確認日を自分で書く。西尾はそばで見守り、旧い経緯書は別に残る。謝罪への感謝や笑顔を要求しない、記録を選ぶ手。
以前の署名で、納得したことにしない。

西尾は、自分が原因を調べる前に確認不足として書かせたことを謝った。佐伯は、次に同じことがあれば先に画面を見てほしい、と答えた。西尾が何度謝ったかではなく、次の仕事で何を確かめてもらえるかが必要だった。

終業前、隣の担当者が、数字を一緒に見ようかと声をかけた。佐伯は今日は自分で確認できると答えた。更新した画面と表を照合し、通常の出荷へ回した。

訂正後の佐伯が、自分で画面と配送表を照合して通常の出荷へ渡す。隣の担当者は背景の匿名成人。主人公に褒められる場面ではなく、自分の仕事へ戻る姿。
担当者として残る名前。

以前のように何も考えず仕事に戻れたわけではない。それでも、自分の判断で正しい数を渡せる席が戻った。その日の記録には、確認した佐伯の名が、反省ではなく担当者として残った。

取り消した友人との夕飯は、新しい日を決め直した。十月の夜が取り返せたのではない。次の約束まで、自分のせいではない仕事のために失いたくなかった。

*

その日の帰りの電車で、岡野は外を見ていた。

「初めから出していれば、ここまでは」

航はそこまで言い、やめた。最初から出してほしいと言った相手が、隣にいた。

「止めて、悪かった」

岡野は、次からは技術上の問題を先方へ伝える担当と、金額を相談する担当を分けたいと言った。謝罪の返事ではなく、仕事の条件だった。

航は鞄から手帳を出し、その条件を書いた。

翌朝、事務所で、航は理恵に全国展開の契約を受けない場合の表を頼んだ。

同じ週、航は訂正した報告を、元の説明を送った先へ届けた。西尾から、現場で訂正を読んだ人の確認が返った。佐伯本人へも技術の説明をする機会を、西尾に相談した。本人が望むなら、という条件をつけた。謝る自分を見るために、仕事を止めてもらう権利はなかった。

翌週、佐伯は短い時間でよいと答えた。配送表を出す前の仕事の合間に、航と岡野が会った。

「私、間違ってなかったと言いましたよね」

佐伯は最初に言った。

「はい」

「会社には、間違っていない数が残ってたんですよね」

「残っていました。私たちは原因を知っていました」

佐伯の目が赤くなった。

「じゃあ、あの夜、私がずっと何を確かめてたか、知ってて待たせたんですね」

航は知っていた範囲を分けて答えた。十月に不具合を知った。経緯書を書かされたことは十一月に西尾から聞いた。その時点で原因を伝えれば、二か月待たせずに済んだ。

「今、知ったような顔で謝らないでください」

翌週、職場の短い対面。佐伯が口元へ手を当てて震える声を押さえ、航は言い返さず聞く。岡野は技術資料を手元に持つ。会議の大舞台でも握手でもない。
今、知ったような顔で謝らないで。

声が震え、佐伯は一度、口元を押さえた。ここは職場だった。横で別の出荷の話をしている人がいる。

航は、分かりましたと言いかけ、言わずに待った。佐伯が少しして、岡野へ同じ不具合が起きたときの確かめ方を聞いた。岡野は更新の記録と、画面だけで決められないときに照合する表を示した。

佐伯は必要な箇所を手元の紙へ写した。それから航に、訂正の写しは自分にも残す、と言った。

「仕事を続けるから、残しておきます。また忘れたことにされたら、困るので」

航はその紙を渡した。最後に謝った。佐伯は聞いたが、気にしないでくださいとは言わなかった。表を持ち直して、自分の仕事へ戻った。

帰り際、西尾は次の月次確認の日を決めた。航が顧客との関係を失いたくないと思ったとき、そこにはもう、相手が自分の仕事を守るための条件があった。守れば話し合える。許されるかどうかを尋ねるかわりに、その日を手帳へ入れた。

既存の「環」の保守は、水原と決めた報告と月次確認を行いながら契約期間まで続ける。移行時の不具合も直す。十二拠点の最後の入金を受けても、十月の件の補償と調査費用が出ていく。春の借金三百万円も残っていた。

数日後、航は理恵の表を持って黒崎に会った。

黒崎はもう一つの表を出した。岡野の作った自動処理とAIの下書きを使えば、確認や経理にかける人数を減らせるという。阿部と理恵の給与を外した列では、借入を増やさずに済んだ。

仕事を教えるために自動化したものが、教わる人を消す根拠になっていた。二人を残すには、給与を払いながら、確認の手順と仕事の分担を変える費用が要る。

航は阿部の名を見た。九月に入って、手順を覚え始めたばかりだった。明日の入金のために教える日を削れば、まだ一人でできないことが増える。その未熟さを理由にすれば、削る案へ簡単に戻れた。

理恵は、息子の靴を買いに行けた日だけ百舎で生活しているのではない。家賃も学校の費用も、自分の給与から払っている。彼女の行を消せば、入出金の表は軽くなる。次に彼女が作るのは、職探しをしながら暮らす自分の表になる。

それでも、二つの給与がない列は楽だった。新しい借入の利息も、来年から返す元金も増えない。

黒崎は紙を航へ向けた。どちらの表を持って帰っても、選んだのは自分になる。社員へ残ってほしいと頼んだ人間が、今度は辞める理由を効率として説明する。その最初の一行まで、航は思い浮かべた。

ペンで、二人の給与を外した列に線を引いた。

黒崎の机で航が阿部と理恵の給与を消した案の列へ一本の線を引く。残す案は別の紙にあり、二人の本人は同席しない。動作するペンと顔を同じ画面に。
軽くなる列を、採らない。

「この二人は辞めさせません。直す費用と、次の入金までの金を貸してください」

言っただけなら、会社で表を直すときに戻せた。航は融資の申込みへ、二人を残す支払い計画を添えた。給与の減った列は、返済できる根拠として使わなかった。

黒崎は春の三百万円の利息が払われているかを確かめ、保守の契約と、小口の受注予定を読んだ。

「追加は二百万円までだ。借入の上限が六百万円でも、残りの百万円をあてにするな」

利率と返済の原則は春と同じだった。借りてから一年は利息だけを払い、その後三年で元金を返す。春の三百万円は今年四月から元金を返し始める。今回の二百万円は翌年一月から返し始める。借入残は、合計五百万円になる。

「融資は受けるのに、私の話は聞かないのか」

航は顔を上げた。

黒崎は、契約を閉じなかった。

「そういう顔をすると思った。利息は払え。会社も潰すな。私もまだ二割を持っている」

金が入っても、黒崎が遠くなるわけではなかった。航は二つの日付を、返済表へ書き込んだ。

追加の契約へ署名した。四月の署名では、仕事を終えれば一つの借金が減る未来を考えた。今度は、自分が報告を止めなければ借りずに済んだ費用も含まれている。返すたびに、自分は良いことをしたと思える金ばかりではなかった。

それでも、阿部と理恵の名を残した表で署名した。二人へ感謝してもらうための紙にはしなかった。

航が二人を残す支払い表を添えた追加借入契約へ署名する。黒崎は契約を開いたまま、二つの返済日がある表が横に置かれる。小規模な普通の室内。
残す表で、引き受ける。

翌朝、事務所では理恵が隣室を返す費用を計算していた。使い始めたばかりの机も、買った額では売れない。

未入金の連絡を受けた百舎の事務所で、理恵と航が机の入出金予定表を見比べる。入金の一行が空き、その下には給与や家賃の支払予定が残る。
入るはずの代金がなくなっても、支払日は残る。

理恵は計算を終えてから、航を見た。

「小さくすれば安くなる、という順番ではないです。先にお金が出ます」

「分かってる」

「あと、社員の給料を下げて成立する案にはしません」

「しなくていい」

理恵はそこで、ようやく続きを話した。

航自身が受け取る役員報酬を減らす。隣室を契約の区切りで返す。作りかけの展示部門は、見込みだけで人を採らない。保守の実際の作業時間を測り、従来の小口の仕事に使える時間を出す。既存の保守料だけで全員の給与と経費が賄えるわけではないから、その空けた時間で別の受注を取る必要がある。

航は自宅でも、減らす報酬と家へ入れる金を分けて真帆へ話した。工房へ払う分を戻してほしいとは頼まなかった。自分の買うものと支払いを変え、決めた生活費を守る表を見せた。

真帆は、二人で使う金は一人で変更しないでほしいと答えた。会社を立て直すために自分の報酬を減らすことと、妻へ負担を移すことは違った。航は家の表も、返事を聞いてから確定した。

会社は明日なくなるわけではない。

しかし一年後を、紙の上だけで約束することもできなかった。

航は皆を集めた。

全国展開を見送る方向で考えている。決める前に、仕事内容がどう変わるかを話したい。皆の同意があれば責任を分けてもらえる、という相談ではない。

岡野はすぐに反対した。

「大きい仕組みを作りたくて来ました。保守だけになるなら、考え直したいです」

航の口から、ここまで一緒に、という言葉が出かかった。

理恵が資料をめくる音がした。

航は、岡野に続きを話してもらった。

「環で、同じことを何度も手直ししてます。その部分をちゃんと作り直したい。全国に広げるからこそ、できると思ってたんです」

それは、百舎を足場にしたいというだけの話ではなかった。

航は初めて、彼が何を面白がっていたのか、十分に聞いた。

「全国の話を捨てることに、賛成したわけではないです」

岡野は言った。

「分かってる」

「でも、直すならここで直したい部分もあります。その時間がなくなるなら、僕は次を探します」

航は、後から忙しいからと減らさないよう、改善に使う半日を予定へ入れた。取れる仕事を一つ断る可能性も、一緒に計算した。岡野が受け取るのは、社長が耳を傾けたという話ではなく、実際に使える時間だった。

一週間かけて、必要な保守と、改善に使える時間を分け直した。岡野が望むことを全部は入れられなかった。彼も、残ると即答はしなかった。

最後に、三か月ごとに仕事内容を見直すことで、春までは続けると言った。

小池は客へ直接説明する仕事を増やしたかった。阿部は、急な予定変更を減らしてほしかった。理恵は水曜日を早く終える勤務を続けたかった。

阿部は、今日は戻れると思った日に、また遠い現場へ行くよう言われるのが困る、と話した。買った食材を使えずに捨てたことも、予約していた用事を取り消したこともあった。顧客へ行く仕事が嫌なのではない。緊急なら行く。その緊急と、予定を決める人の都合を分けてほしい。

理恵は、水曜を守るために前日の夜を毎週遅くする案なら同じだと言った。早い時間に終えたあと、息子と夕飯を食べるつもりでいた。帰ってから帳簿を開く暮らしへ変えたいのではなかった。

航は勤務の表へ、実際に引き受ける人と、間に合わないときに断る相手を書いた。残してやるという言葉だけで、その人の予定が守られるわけではない。

それぞれ違った。

同じ夢を持っているときより、話し合いに時間がかかった。

月末、航は黒崎と会った。

言う前に、岡野が作りたかった共通の仕組みを思い出した。自分も作りたかった。断れば良い人間になれるというだけの仕事ではない。そこへ進むために、西尾の返事と社員の予定をまた後へ置くことは、もうしたくなかった。

黒崎は、審査へ必要な訂正を出したうえで、改めて条件を相談する余地はあると言った。報告したから全国を諦めるしかない、と誰かに決められた話にはならなかった。

航は契約案の頁を開き、三年の欄を読んだ。自分が必要とされ続ける、その想像のしやすい道を置いた。

「今の百舎では、受けません」

全国展開の話を断った。報告を出したことで止まっていた審査を、再開してほしいとは頼まなかった。既存の十二拠点を支える仕事と、違う顧客を少しずつ増やす仕事を、自分たちで続けると伝えた。

断ったことが確認できるよう、全国の契約案を戻した。借入の契約は、同じ鞄に持ったままだった。

月末、店の静かな席で航が全国展開の契約案を黒崎へ戻す。航の鞄には借入の契約が残る。大きな仕事を断る行為と、消えない支払いを紙の動きで見せる。
仕事の案を返し、借入を持って帰る。

黒崎は怒らなかった。理由を聞き、資金の表を見て、既存の契約をどうするか確かめた。

「こちらから誰か回せば、引き受けられるか」

「人数だけの話ではないんです」

黒崎はペンを置いた。

航は、澪に同じような返事をされたことを思い出した。

「失ったものを、あとから成功した理由にしたくなっていました」

口にすると、いくらか格好のよい言い方になった。

航は言い直した。

「修司に、ひどいことを言ったんです。それが、必要なことだったと思えるくらい、先へ行きたかった」

黒崎は黙っていた。

航は、自分の湯呑みを両手で持った。ここには会社の薄い青ではなく、店の白いものがあった。

「既存の仕事は、契約どおりやります。それを終わらせても、あの言葉は取り消せないですけど」

「私が貸した金まで、受け取らなかった話にするなよ」

黒崎に言われ、航は首を振った。

「助けてもらいました。借りた金は返します。株を買い取る金は、まだありません」

黒崎はそれには頷いた。出資の取り決めは変わらない。買い取りの金を航個人で用意し、会社の支払いを守れるようになるまで、この席で話すことは続く。

黒崎は表へ目を落とした。

「この見通しなら、君が別の仕事も取りに行かなきゃならん」

「はい」

「帰れる日ばかりじゃないぞ」

「そうだと思います」

黒崎は、小口の営業先を一つ教えた。付き合いのある会社だが、紹介するのは名前だけだ、と言った。

航は礼を言った。

店を出るとき、黒崎が言った。

「私は、続けるよ」

航は頷いた。

それが全国展開のことだけではない気がしたが、尋ねなかった。

会社へ戻り、航は隣室の解約書類に署名した。

晴れやかな気持ちはなかった。

払わなければならない費用が増えた。電話をかける相手も増えた。皆へ説明したことが本当にできるか、まだ怖かった。

航は署名した書類を封筒へ入れ、解約費用の振込日を手帳に書いた。

航が会社の机で解約費用の振込日を手帳に書く。署名した書類は封筒へ入れられ、奥の隣室にはまだ新しい机が残っている。
隣室を返す決断にも、先に払う費用があった。

その日の給与も、予定どおり振り込まれた。理恵は自分の入金を確かめてから、息子へ帰る時刻を送った。水曜の帰宅を守る仕事の分け方も、翌週の表に残っていた。

阿部は帰りに食材を買った。明日は小池と一緒に予定した現場へ行く。今日の夜から出直す連絡はない。買ったものを、今日の夕飯に使えた。

航はそういう小さな予定を、全員の幸福として代わりに語らなかった。岡野には失った仕事への悔しさがあり、理恵には次の支払いへの心配もある。それぞれが会社の外へ持って帰る一日を、勤務の表で壊さずに済んだ。

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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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