灯りを消したあとで09 / 17

第八章十一月三十日

十一月に入ったとき、澪の引継ぎ表には、項目が二十三あった。最終出勤日は十一月三十日のつもりで、澪は準備を進めていた。

同じころ、川沿いの配送拠点で事務の主任をしている西尾から、先月分の確認を求める連絡が来た。十月に一度、配送先へ渡した箱が足りず、別の便を出していた。担当者が数字を写し間違えたとして、本人に経緯を書かせたという。ところが画面には、担当者が直した数が残っていた。

「その方が、二度数えたと言うんです。表のほうを見てもらえますか」

航は、確認します、と答えた。

電話のあとで、岡野の報告書を開いた。起こる条件が一致していた。直ったのだから、もう被害は増えない。それと、既に誰かへ被せてしまった間違いの話は別だった。

西尾からの問い合わせ後、航が岡野の不具合報告書を開き、返していない電話のそばで立ち止まる。
直った画面と、直していない記録。

西尾から、担当者の書いた経緯書と、その日に出した配送表が届いた。担当者の名は佐伯だった。今後は確認を徹底しますという最後の行を、航は二度読んだ。

佐伯が確認しなかったからではない。それを説明する技術の記録は、すぐ取り出せた。

航は返信へ、数量の更新が表に反映されない不具合がありました、と書いた。書くと、自分が知っていた日も入れなければならなくなる。十一月に見つけた話ではなかった。十月に知らせず、現場の確認だけを求めたことまで伝わる。

西尾へ電話するなら、今だった。名前も番号も、画面に出ている。訂正が遅れても、佐伯が書かされたものを残したままにするよりよかった。

航は書いた原因の一行を消した。

十一月、航が西尾への返信から原因の一行を自分で削除する。技術報告と佐伯の経緯書は机に出ている。顔と操作する手を一緒に描き、被害を知っての保留を見せる。
知っていた一行を消す。

航は西尾へ、該当する記録を調べています、と返した。調べるためのファイルは、もう目の前にあった。

翌日、西尾から、調べる日数の目安だけでも教えてほしいと返ってきた。佐伯の説明を聞きながら、主任としてどう扱うか決められずにいるという。

航は今週中という文字を打ち、消した。期限ができれば、その日に返さなければならない。確認したら連絡します、と送った。

返事を一つ出したことで、受信箱の未処理は減った。先方が待つ日は、増えた。

岡野に報告はどうなったかと聞かれ、先方と話している、と答えた。問い合わせの返事をしたというだけの事実で、問題を説明しているように聞こえる言葉を作った。岡野には、西尾からの経緯書の相談まで転送していなかった。

出すべき報告と、澪に返すべき確認。その二つを、忙しいという同じ欄へ入れた。

翌週、二十七になった。

作業を終えれば、新しい質問が出る。新しい質問に答えれば、別の資料が要る。会社の仕事は終わらないのだから、引継ぎも終わらなかった。

澪は机で昼食を取るようになった。地図を作っていた大きな台には、手順書が積まれた。

小池へ説明をする時間を確保すると、その分、島の引越し業者へ電話する時間がなくなった。昼休みに電話をかけ、切ってから残りの弁当を食べた。夕方には、会社の手順を書き終えてから、展示の仲間へ自分の地図の説明を送った。

昼休み、澪が会社の机で昼食を脇へ置き、島への引越し業者へ電話する。手順書の束と私物の見積りが分かれ、自分の食べる時間が短くなる。
昼休みに、次の生活を組んだ。

同じ一日を、二つの仕事に分ければよいと思っていた。航から返ってくるはずの確認を待つ時間だけは、どちらに入れればいいか分からなかった。

修司は引継ぎ表を一度全部読み、十五の項目に自分の名前を書いた。

航は書類を戻した。

「お前も忙しいだろ」

「本人しかできないことは、もうそんなにない」

「顧客から、あの人にいてほしかったと言われたら?」

「そう言われるくらい、いい仕事したってことだろう」

航は修司を見た。

修司は、どこか苛立っているようだった。そのことに航も苛立った。会社を残すために、二人でどれだけの相談をしたか。辞めたあとのことを考えるのも、いまは自分たちの仕事なのだ。

「澪には、ちゃんと分かって出ていってほしいんだ」

「何を」

航は答えるまでに時間がかかった。

「ここにいた意味だよ」

修司は、手順書から顔を上げなかった。

「それは、引継ぎ表には書けない」

その晩、澪が改めて書面を持ってきた。

十一月三十日を最終出勤日とする。担当を移す日は顧客と相談する。残る確認については、個別に引受人を決める。

最後に、会社への感謝が二行あった。

航はその二行を、いちばん長く見た。

「修司に相談した?」

澪は頷いた。

「先に俺に言えばいいのに」

「最初に、社長に言いました」

静かな声だった。

航は、彼女の手帳を思い出した。新しい合板の匂い。窓の外の警告音。

一か月以上前だった。

「……そうだったな」

書面を受け取った。

受け取っても、気持ちは従わなかった。

澪が実績として見せたいと言っていた、「環」の倉庫で使う手順表。社外に見せてよい範囲について、顧客から許可の返事は来ていた。あとは澪の用意した見本がその範囲に収まっているか、航が確認して本人へ返す段取りだった。航の受信箱の中で、その確認欄だけが空白だった。

彼はそのメールを開いた。

忙しいから、明日にする。

そう思った瞬間、自分が忙しくなくても明日にしただろうと分かった。

指が動かなかった。

夜の事務所で航が確認のメールを開き、キーボードの上で手を止めている。周囲には引継ぎ資料が積まれている。
返事を出せるはずの手が、動かなかった。

初めて、誰かを待たせている時間に、力があることを知った。

次の朝、澪は、資料館へ渡す仕事の紹介には、倉庫の手順表を載せないことにしました、と言った。

「住田さん、あの日の展示を見てくださっていたので」

代わりに、夏に自分で作った地図と、そこで試したことを話すという。待っていた確認が来なくても、着任の準備は進められた。

その夜、澪は帰宅してから紹介文を作り直した。会社で作った手順表の代わりに、地図の写真を撮り直し、どこで人が迷い、どこを変えたか書いた。百舎の仕事で身につけたことがなくなったのではない。それを自分の経歴として見せるための返事を、求めた日に受け取れなかった。

夜の自宅で澪が自分の立体地図を撮影し、紹介文を作り直す。仕事の手順書は脇へよけ、撮影用の明かりと紙がある。主人公のいない夜。
返事の代わりに、もう一晩を使った。

翌朝、澪は送付済みの紹介文を航へ見せた。

翌朝、澪が送付済みの仕事紹介を航へ示す。航の確認を使わなかった地図の写真と紙、本人の落ち着いた表情。謝罪や復職を求める場面にしない。
今回の準備には、もう使わない。

「確認が来たら、別に残しておきます。でも今回の準備には、もう使いません」

何も許可されなくても働けることを、言い返すためだけに示したのではなかった。十一月三十日までに荷物を運び、十二月から働くために、自分で決めた。

航が持っていると思っていた鍵は、もう使われなかった。

それが悔しかった。

悔しいことのほうが、恥ずかしかった。

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目次

HAPPY · 灯りを消したあとで

  1. 01序章|百円の領収書
  2. 02第一章|折って持ち帰れる地図
  3. 03第二章|届かないもの
  4. 04第三章|七分の使い道
  5. 05第四章|知らない人の名前
  6. 06第五章|よい知らせばかりの日
  7. 07第六章|ここでなくても
  8. 08第七章|待っている人
  9. 09第八章|十一月三十日
  10. 10第九章|あの夜を消す
  11. 11第十章|乾杯のあと
  12. 12第十一章|何も起きない夜
  13. 13第十二章|署名する手
  14. 14第十三章|返さなくていいもの
  15. 15第十四章|一人分の夕飯
  16. 16第十五章|冬の海を聞く
  17. 17終章|灯りを消したあとで
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