第五章よい知らせばかりの日
八月、「環」の三拠点が正式に動き始めた。
七月の試用で見つかった違いを直し、各拠点の担当者と、いつ新しい配送表へ切り替えるかを決めた。それまでは比べるために使っていた画面を、日々の出荷に使い始めた。三か所とも、受け取った行き先と箱の数を次の拠点へ渡せることを確認し、百舎は導入した範囲について納品の確認を受けた。
最初の一週間、岡野は何度も現場へ通った。画面の不具合は減ったが、忘れ物は増えた。充電器、上着、コンビニの傘。修司は彼に、向こうで暮らす気なのかと言った。
ある午後、川沿いの拠点の主任から電話があった。
「今日、六時に終わったんですよ」
声の向こうで、戸締まりの音がしていた。
「早く帰ると、まだ開いてる店があるんですね」
航は、受話器を持つ手に力が入った。
この仕事を受けてよかった。
あとから何が起きても、その言葉を嘘にはできなかった。
三拠点の稼働に伴う代金が入ると、理恵は支払いの表を更新した。春に待ってもらった支払いを進め、借入の利息と、この先の給与や家賃に充てる分を確かめた。元金三百万円はまだ残る。四月の食品卸から代金が戻ったのではない。別の仕事を納め、その代金で会社を続けられるところまで来たのだった。
借金が全部なくなる額ではなかった。それでも、今度は支払日だけを後ろへ動かした表ではない。理恵は全員の前で言った。
「来月も、再来月も、予定どおり払えます」
澪が小さく拍手した。岡野が続いた。修司は航の背中を一度叩いた。
「やったな」
その言葉を、航は何度も思い返した。
数日後、黒崎は、同じ発注元の配送拠点を、三か所から合計十二か所へ広げる計画を持ってきた。追加するのは九か所。最初の三つで使えるようになった仕組みを土台に、ほかの拠点も順に切り替え、年内に移行を終える案だった。
一から作り直すよりは、使えるものが多い。離れた拠点同士でも情報を渡せるようになれば、発注元は途中だけ古い表へ写し直す手間を減らせる。百舎にも、三拠点だけの仕事より大きな売上と、その後も使う人を支える保守の仕事が見込めた。
ただし、同じ画面を九回送れば終わるわけではない。現場ごとの帳票を集め、違いを確かめ、設定を直し、人に使い方を教える。その間も、先に動いた三拠点からの問い合わせには答えなければならない。
今回は、考える時間があった。受けなければ来月の給与が消えるわけではない。だから航は、自分が落ち着いて判断していると思えた。
岡野は乗り気だった。今までの仕組みを整理し直せば、同じ苦労を十二回する必要はない。修司も、現場ごとに変える範囲を抑えられるなら、と賛成した。
航にも、単に口座の穴を埋めるためではなく、次の仕事を選べるようになった実感があった。今度の受注で人を増やせれば、修司一人に現場を回らせずに済む。澪が説明のたびに呼び出されることも減らせる。増やしたい理由は、売上の数字のほかにもあった。
理恵は、もう一部屋借りるのは早いと言った。
二階の隣室が空いたところだった。今の人数なら要らない。増やす人数もまだ決まっていない。
「必要になってからじゃ、遅いんだよ」
航はそう言い、壁の向こうを見た。
前の会社で、自分たちが席を詰めて残業していた部屋を思い出した。あんなことにはしたくない。広い机を用意し、休憩できる場所を作る。澪が地図を広げたままにできる台も置ける。
「余裕を作るための部屋だ」
理恵は、それ以上は言わなかった。航は納得してもらえたと思った。
見積りと日程を詰める中で、現場での確認と説明を担う人を二人採る計画にした。増える給与と部屋代を含めて引き受けられるかを確かめ、航は追加九拠点の仕事を受けると返事をした。春とは違い、当面の支払いの見通しを取り戻したうえで、自分たちで増やした仕事だった。

隣室も借りた。壁は抜かず、行き来するときは一度廊下へ出る。新しい部屋の鍵を受け取った日、航は何度も隣室へ行った。
誰もいない部屋の電気をつけ、机の位置を考えた。

帰りに消すのを忘れた。
窓が二つ明るいのを道路から見て、航は戻らず、そのまま駅へ歩いた。
九月、新しく小池と阿部が社員として加わった。小池は操作の説明と導入時の案内を、阿部は画面の設定や現場での確認を、修司と澪について覚え始めた。二人が隣室の机を使い、百舎は航を含めて七人になった。
最初から一人で拠点へ行けるわけではなかった。修司が同行し、戻ってから岡野と画面を確かめ、翌日の説明を澪に聞いてもらう。人を増やした直後には、教える側の時間も要った。

九月の初め、真帆が食卓へ募集案内を置いた。
古文書の修復を学ぶ、月に二度の実地講習だった。半年続く。県外の町で土日を過ごすので、交通費も宿泊費もかかる。
「受けたいんだ」
「いいじゃないか」
航が答えると、真帆はほっとした顔をした。
「工房の仕事は、その週だけ少し減らしてもらえることになった」
「でも、そこまで習って、仕事になるの?」
真帆は案内を折ろうとして、手を止めた。

「すぐには、ならないと思う」
「うちで展示関係をやるなら、手伝ってもらえるかもしれない。澪とも話せるし」
「航」
「うん」
「私、申し込みに来たわけじゃないよ」
真帆は、怒った顔をしていなかった。ただ、話を始めたときの柔らかさがなくなっていた。
航は謝った。
その夜、彼女が講習で何を直すのか、聞かなかった。