第四章知らない人の名前
七月の最後の日曜、航は真帆と資料館へ行った。
連休に行くはずだった場所とは違う。港の外れの、公民館の一部を借りた展示室だった。海の近くなのに、窓は道路へ向いていた。
澪の作った地図が、低い机に置かれていた。
見本の一つとして、一日だけ来場者に使ってもらう。そのために、学芸員の住田と地元の木工職人が、机の脚を短くしていた。
澪は航たちに気づいて、手を振った。すぐ横から呼ばれ、そちらへ戻った。
それでよかったはずだった。
航は展示の隅に立って、彼女が働くところを見た。
地図に触れた老いた女性が、坂の線をたどった。同行していた友人が何か説明しようとすると、女性は、ちょっと待って、と言った。
澪は説明をやめた。
航なら、正しい道へ指を誘導していたと思う。
女性は行き止まりを二度たどり、笑った。
「ここ、昔は抜けられたのよ」
住田が椅子を寄せた。いつごろですか、と聞いた。木工職人が鉛筆を探した。
地図の前に、人が増えた。間違いを直す会話が、昔そこにあった駄菓子屋の話になった。

航の知らない話だった。
澪は聞きながら、紙に小さな家を描いた。仕事で作る図より線が柔らかかった。
昼を過ぎ、会場の外でおにぎりを食べた。
「住田さん、島のほうの資料館も担当されてるんです」
澪は、沖に見える小さな島を指した。島の資料館には古い漁具と、潮位を記した帳面がある。住田はそこで展示を作り直す準備も進めていた。まず来年の春に一部を公開する。その仕事に関わりたいのだという。

「夏と冬で、同じ場所の音が違うんですって。まだ冬の音は聞いたことがないんですけど」
「音なんて、送ってもらえばいいんじゃないか」
航は悪気なく言った。
澪はおにぎりを飲み込んだ。
「そうなんですけど。何を録るかを、一緒に考えたいんです」
「ああ」
返事が少し遅れた。
真帆は横で、缶のお茶についた水滴を親指で拭っていた。話しているあいだも、港からは波が岸壁をたたく音が聞こえた。航は食べ終えたおにぎりの包みを畳み、しばらく海のほうを見た。
帰りの電車で、航は澪の話をした。百舎でもああいう仕事ができればいい。収益になる道を探して、新しい部門にする。彼女のやりたいことを、会社の仕事として続けさせられる。
「澪ちゃん、それを頼んだの?」
真帆に聞かれ、航は首を振った。
「これから話す」
「そっか」
真帆は窓へ顔を向けた。川を渡っていた。光の中に、鳥が一羽、止まっているように飛んでいた。
航はその横顔を見て、何か言い足したほうがいいと思った。しかし、良いことを考えているのに、何を説明すればいいのか分からなかった。

翌週、澪は住田から届いた写真を皆に見せた。
写真の中で、彼女は航の知らない人たちと笑っていた。
航は拡大して、地図の隅を見た。そこで自分の教えた工夫が使われているのを見つけ、ようやく安心した。