第三章七分の使い道
四月、「環」の契約後、百舎は三拠点から注文や出荷に使う紙を集め、担当者に使い方を聞いて、試すための画面を作り始めた。同じ行き先でも略し方が違い、箱の数を書く場所も違う。修司が情報を受け渡す部分を組み、澪が画面と手順を並べて確かめた。
着手金と黒崎からの三百万円を受け取り、最初の資金不足をつないだ。取引先への支払日の相談は、全部が望みどおりになったわけではない。理恵は返事の来た日付を表へ入れ直し、どの週にいくら足りないかを航と見た。「環」を作るあいだも、その確認は続けなければならなかった。
六月、最初に現地で試す拠点は、川沿いの倉庫だった。航たちは、先に聞いた説明と試作した画面を持って、実際の作業を見に行った。
雨が続いていた。修司は入口で長靴を借りたが、片方だけ一つ上のサイズだった。歩くたびに、右足が遅れてついてきた。
澪は笑いをこらえていた。
「いいよ、笑って。これは俺もおかしい」
休憩室で、事務員が古い配送表を見せた。朝に印刷し、変更があるたび赤いボールペンで直す。新しい仕組みでも、最後は紙で確認できなければ困るという。
澪は、机に積まれた紙の順番を聞いた。
何を上へ置くのか。誰へ渡すのか。渡したあと、どこへしまうのか。

昼過ぎには、航が用意した説明の半分が要らなくなっていた。人は画面だけを使っているのではなかった。
新しい情報が届いても、古い紙を持っている人がいたら、その人は前の指示で動いてしまう。画面を分かりやすくするだけでなく、どの時点で印刷し直し、誰に渡すかまで、現場の人と決め直す必要があった。持ってきた試作をそのまま使い始めることにはせず、澪は直す箇所を手帳へ書いた。
帰りの車で、澪は手帳を広げたまま眠った。修司は信号待ちの間に、落ちかけていたペンを取った。

「いい仕事するようになったな」
「うん」
航は、嬉しさを隠さなかった。
「もっと任せられる」
「任せるときは、横から手を出すなよ」
「出してないだろ」
修司が助手席から、航の鞄に入った赤ペンを指した。
「予備まで持ってる」
修司はこのころ、月に一度、知人の職業訓練所で実習を手伝っていた。皆の前で工具の使い方を説明したつもりでも、席を回ると、隣で一緒にやった一人しか手を動かせていない、と言っていた。航は、一人ずつでもできるようになるならいいじゃないかと答えた。修司は少し考え、そうだな、と笑った。
七月に岡野蓮が入った。二十九歳で、大きな開発会社から来た。小さな会社なら、仕組みを最初から最後まで見られると考えたらしい。
百舎では、修司が画面の手直しと現地での確認の両方を抱えていた。三拠点を正式に動かすまでに作業を分けるため、技術担当を採ったのだった。春には航、修司、澪、理恵の四人だった職場が、五人になった。
履歴書の志望動機よりも、面接のときの質問が航の記憶に残った。
「ここで仕事を覚えたら、どういうところへ行けますか」
修司は面白がった。航は一瞬戸惑ってから、どこへでも、と答えた。
その言葉を岡野は信用した。
七月の三拠点では、古い方法で出した結果と新しい仕組みの結果を比べながら、一部の作業を試していた。まだ全てを切り替えたわけではない。出荷を間違えずに進められるか、直すべき箇所は残っていないかを、先方と百舎の双方で確かめる期間だった。
岡野は現場から届く修正に対応しながら、百舎の中で繰り返している作業も洗い出した。各拠点から来る試用結果と配送表の見本を、比較できる同じ形へ整理する作業。問い合わせへの返事の下書き。確認表へ同じ項目を二度入力する作業。
理恵も、その確認表を使って、終わった作業と残る作業をまとめていた。試用の結果によって手直しの日数が増えれば、稼働までに必要な人件費も変わる。客の配送事務を代行しているのではなく、百舎が納品までの仕事を管理するための表だった。
AIも使った。澪が試しの画面に丸い顔を描き、百円ちゃんと呼んだ。百円で何でもやってくれそうだ、という修司の悪い冗談が元だった。

実際には、確認する人が要った。似た取引先の名前を取り違えることがあり、岡野はそういう欄を機械に確定させなかった。
木曜の午後、理恵が、整理した見本と元の表を照合し終えて時計を見た。
「七分」
「遅れました?」
「早いの。一枚で七分。十枚ある」
岡野は照れて、まだ直したいところがあると言った。
その日は四時半に一区切りついた。予定した仕事を終えた人は退勤してよいと、朝の打ち合わせで決めていた。理恵は勤務の記録をつけ、息子の靴を買うと言って帰った。足が急に大きくなり、朝、かかとを踏んで出ていったという。

澪も退勤を記録してから、空いている作業机を一時間借りていいかと航に聞いた。自宅の机より広い。許可を得て私物の紙を広げ、真帆から紹介してもらった資料館の人に、立体地図を送る準備を始めた。真帆は修復した本を納めた縁で、その人を知っていた。航は横から、湾の形を覗いた。
「この先、何を作るの」
「潮の満ちるところが分かるものです。見ても、触っても、音を聞いても、違うことが分かるように」
「難しそうだ」
「そこが面白いんです」
航は、いいな、と思った。
机の上には百舎の納品物ではないものがある。会社で得た時間を使い、澪が自分のものを作っている。それこそ、ここを始めた理由ではなかったか。
その夕方、航も早く帰った。
真帆は、流し台で刷毛を洗っていた。航を見ると、時計を見て、それから笑った。
「卵があるよ」
航は久しぶりにオムレツを作った。裏を焦がしたので、そちらを下にして出した。
真帆はひと口食べ、焦げている、と言った。
「分かるか」
「分かるよ」
二人で焦げたところを切り分けた。
何か大きな話をしたわけではない。真帆は古い紙に棲む虫の話をし、航は左右の違う長靴の話をした。
食べ終わるころ、航の携帯電話が鳴った。
黒崎だった。
航は皿を流しへ運んでから電話に出た。
黒崎は、三拠点の試用で、打ち直しが減ったと聞いている、と言った。正式な切り替えは八月だが、発注元は、ほかの拠点にも使えるかを考え始めている。次の相談を早めたいという話だった。
食事を終え、皿を片付けてから仕事の電話に出る。その順番を守れたことを、当時の航は、たいしたことだとは思わなかった。