第十五章鍵を置く場所
三月、澪から展示の案内が来た。
島の地図に触れ、季節ごとの海の音を聞く。最初の一部を公開するという。まだ直したいところがあります、と手書きで添えてあった。
航は金曜に休みを取り、真帆と船に乗った。港で真帆は別れ、航海日誌を預けてくれた人へ会いに行った。修復の相談がもう一冊ある。夕方の船で落ち合う約束をした。妻と旅行に来ても、彼女の仕事を見物する順番まで航が決める必要はなかった。
百舎では小池と阿部が月曜の準備をし、岡野が保守の共通処理を進めていた。理恵は支払いを確かめて帰る。航の不在を埋めるため、誰かの休日を移したわけではない。
資料館の入口で、航は寄付の箱へ百円玉を入れた。
展示室では、澪が子どもの手を見ていた。透明な板と木枠に指を挟まないか、留め具の位置を直している。住田は受付で、来館者に音の聞き方を説明していた。澪は今、ここの制作担当者として働いていた。

航は呼びかけず、先に地図へ触れた。
満ちてくる海を示す透明な板を動かすと、干潮のとき歩ける道が下へ入った。同じ道を、そのまま指でたどることはできない。
隣の地元の人が、そっちからだと坂がきついと言った。遠回りでも緩い道がある。指を置く場所を教わり、航はもう一度たどった。
澪が来たとき、航は二つの道を知っていた。

「どうですか」
「帰る道を先に聞けて、よかった」
澪は笑った。地図の端に、家で切った紙を重ねた部分が残っていた。会社の机で見た島が、何人もの手を経て、知らない岸を持っていた。
横の札には作った人たちの名前があった。澪、木工職人、音を録った人、古い道を教えた人。説明の紙には、押さえる指で文字が隠れない余白が取ってあった。
百舎で覚えた工夫だと指摘しようとして、航はやめた。今、この紙を読む人のための余白だった。
「百舎、どうですか」
「うるさくなった」
澪が顔を上げた。
「俺が言うと、先に決めないでって言われる。岡野は毎週言う」
「私も、先に切らないでって言われます。木枠、自分の図面に合わせて切ったら、隣と合わなくなって」
彼女は指の絆創膏を見た。
「直す人に、先に聞けばよかったんですけど」
完璧に分かって出ていった人ではなかった。知らない人に迷惑をかけ、直し、暮らしている。それを航が全部確かめなくても、その生活は続く。
住田に呼ばれ、澪は受付へ戻った。航は海の音を聞いた。冬の石が波に引かれ、遠くに車も走っていた。誰もいない楽園の音ではなかった。

帰りの船で、真帆は昔の漁師の日誌に、魚の数と同じ大きさで「歯が痛い」と書いてあった話をした。
「そこも直した?」
「破れてなかった。歯が痛いところは、よく残ってた」
航は笑い、船が揺れたので黙った。真帆が水を渡した。
携帯電話へ、小池から写真が来た。赤いテープが半分剝がれた会社の鍵に、阿部の字で「入口」と書いた白い札が付いていた。
月曜は私が先に開けます。
鍵を毎回航の鞄から探すのをやめ、共用の小さな箱へ戻すことにした。翌朝いちばん早い人が、前日に持ち帰る。その人が変われば連絡する。誰が百舎を守るかを競う物ではなく、何時に戸を開けるかを知らせる道具になった。
航は、お願いします、と返した。
翌週の月曜、航は地元の部品商へ、調査の見積りを持っていった。
小池が地域の集まりで聞いた、注文の転記に困っている会社だった。黒崎から紹介された客ではない。まだ全体を作り替える契約は取らず、二日間の聞き取りと現物確認に値段を付けた。結果を見て、依頼を続けるか先方が選ぶ。
部品商の社長は、見積書の調査の欄へ爪を置いた。
「調べたあとで、直さないこともあるんですよね。それでも、この金額は払うんですか」
航は、導入を頼んでいただければ調査は無料に、と言いかけた。仕事を欲しがっている会社は、ここだけではない。まだ名前も知られていない百舎に、最初の二日分を払ってもらう。黒崎が間に入った商談より、沈黙が長かった。
ただで調べ、何かを必ず作る約束に変えれば、今ここで契約は決まるかもしれない。転記を減らせる所が少なかったとき、阿部に聞いた時間も、先方が空けた午後も、作る理由へ押し込むことになる。
航は社長の爪の先を見たまま、答えた。
「払っていただきます。二日で、どこまで減らせるかと、残る手作業を出します。導入しない方がよければ、その理由も渡します」
社長は眉を寄せた。正直ですね、とは言わなかった。今使っているソフトの販売元へ聞けば、見に来るだけなら無料だという。
「そちらに見てもらってからでも、結構です」
航は契約書を相手の方へ押し出さず、戻して待った。失えば、四月の受注の空欄は埋まらない。返済表に、見込みを確定として書ける金も増えない。
社長は事務を担当する人を呼んだ。その人は、今の販売元には二度聞いたが、注文用紙の写しを送るよう言われただけだと話した。
「二日で終わるなら、忙しい時間を外してください。一日ずっと横にいて教えるのは無理です」
小池が、出荷前の一時間と昼過ぎに分ける案を出した。阿部は聞けなかった箇所を、推測で確認済みにしないと説明した。社長はもう一度金額を見てから、二日分だけを頼むと言った。
航は二日間の調査契約へ名を書いた。全部の仕事を任されたわけではない。調査のあとに、もう一度選ばれる必要があった。

帰社すると、阿部が現地へ持つ確認表を広げた。岡野は使い回せる処理を調べ、小池は先方の担当者へ時間を確かめた。最初の調査が終わる前の完了欄は、空いていた。
阿部は、販売元の説明を先に読んでおきたいと言った。新しく作らず、今のソフトの設定で減らせる作業があるかもしれない。
航は資料を受け取った。百舎に頼んだ結果、百舎へ頼む仕事が減ることもある。それでも、二日分の仕事はなくならない。何をしなくてよくなるかを確かめることにも、値段を付けて引き受けていた。

理恵は契約書を棚へ入れ、航へ三月末の表を渡した。
社員の給与も、外へ頼んだ仕事の費用も、黒崎への利息も払ってある。借入の元金は五百万円残る。四月に初回分の分割返済が始まり、秋には追加分も始まる。黒崎の株式二割もそのままだった。
それでも、社員の給料を遅らせず、休みを消さずに、約束した返済を始められる。
持分の買い取りに使える金は、まだ十分ではない。航は返済の表とは別に、新しい紙を一枚置いた。借金を返すこと、運転資金を残すこと、黒崎に頼らない顧客との仕事を増やすこと。その先で、航が自分の報酬から用意した金で、最初から決まっている条件の株を買う。会社の口座を空にして、自分だけ自由になるつもりはなかった。
理恵は買い取りの欄の金額を空白にしたまま、今月決まった調査契約を書いた。
「これは、今ある仕事です」
航は頷いた。
独立の最初の一歩は、誰かに縁を切ると言い渡す場面にはならなかった。明日、二人で客先へ行く準備だった。
その夜、家へ戻る途中で修司から連絡が来た。前に誘った昼飯は、来週なら行けるという。午後には訓練所の教材を受け取りに行くので、一時間ほど。
航は待ち合わせの時刻を送った。足りないとは思わなかった。飯は一時間あれば食べられる。
真帆とスーパーで落ち合い、二人でかごを持った。航が葱を入れると、真帆は家に半分あると言った。
「じゃあ戻す?」
「明日の分にする」
家で航は米を計った。真帆に明日の朝もいるかと聞き、半合足した。彼女の工房の予定が、会社の予定表に入っていなくても聞けばよかった。
食卓についたとき、携帯電話が震えた。翌日の訪問先の入口が変わるという連絡だった。阿部が確認し、小池も読んでいた。航の知らない変更だったが、知らないまま放り出されたものではなかった。
航は画面を伏せた。
真帆が鍋から葱を取り、熱い、と皿へ戻した。航は自分の分を少し待った。

「何か、静かだね」
真帆が言った。
航は会社のことかと思った。
「明日になれば、また」
「換気扇。消した?」
「消した」
「だからか」
真帆は豆腐を食べた。航も箸を持った。
黒崎へ金を返す会社は明日もある。辞めた二人は別の場所で働き、残る四人にも、航の知らない夜がある。そこへ帰れるように作った戸を、自分の手だけで開け閉めする必要はなかった。
食後、鞄を片付けると、いつも会社の鍵があった内側のポケットは軽かった。家の鍵だけが指に当たった。
航はそれを玄関の皿へ置いた。

奥で真帆が、休みの日は何時に起きる、と聞いた。
航は台所の時計を見た。
「まだ決めてない」
それから自分も、週末の天気を見に、食卓へ戻った。