第四章折り目のない紙
十月の初め、小池と阿部は二人で追加拠点の説明を受け持つようになった。小池が利用者へ手順を話し、阿部が画面と印刷物の設定を確かめる。まだ澪と修司にも同行してもらう日があったが、二人だけで返せる質問も増えていた。
航は、皆に任せる、と言った。ただし外へ出す配送表と手順表の最終確認は、自分がすると続けた。
金曜の午後、その確認が止まった。
岡野は、荷物を別の車へ回したときの紙を調べていた。印刷し直した新しい配送表と古い紙が、同じ机に残る。印刷時刻が小さすぎ、変更前後の紙を取り違える危険がある。既に動く三拠点では、担当者が折り目と回収の順番で見分けていたが、初めて使う現場にも通じる仕組みにはなっていなかった。
岡野は時刻を大きくし、古い紙を回収してから新しいものを渡す説明を加えた。午後の修正版と、昼に送った見本が、航の受信欄に並んだ。
客先と黒崎の会社を回っていた航は、夜、携帯電話で昼の見本を開き、問題なし、とだけ返した。

阿部は、どちらの版か尋ねた。小池も電話した。航は移動中で返せなかった。
月曜の朝、二人は承認されたと考えた昼の版へそろえて、現場へ持っていった。修正版を選ぶ権限はないと思ったのだった。
その拠点は正式稼働の前で、出荷する予定の荷物を使って説明をしていた。途中で一つを別の車へ回し、配送表を印刷し直した。元の車の古い紙と、移した先の車の新しい紙が、それぞれ運転手へ渡った。
同じ荷物を二台へ積もうとして、現場の人が止めた。
誤出荷は防げた。航は電話を受け、よかった、と言いかけた。
応援に来ていた西尾の声がした。
「今、どの紙を見ればいいですか」
彼女が説明を覚えるはずの午前は、古い紙の回収になった。航が着いたとき、小池は段ボールへ紙を集め、阿部は運転手に謝っていた。

「俺が来たから、もう大丈夫」
言ってから、何が大丈夫なのか分からなくなった。
航は岡野へ電話し、同じ見分けにくさが三拠点の紙にもあると確かめた。そこで黒崎から折返しが来た。発注元の業務責任者である水原部長へ、拡大の進捗を伝える時刻だった。
「出荷前に止めたのなら、説明中の行き違いで終わらせろ。既存の三か所は黙って直せる」
「同じ間違いが起きます」
「だから直すんだ。今ここで欠陥と書けば、残りの検収が止まる。年明けの全国の話もある」
航は段ボールの中の紙を見た。たくさんの紙のうち、間違っているのは、どれとどれなのか。新しい仕組みを信じて使った人には分からない。
黒崎は、二日あれば直せるだろうと言った。
二日黙れば、説明の上手な自分が戻れる。未完成の報告を出すのとは違う、という言い訳まで頭に浮かんだ。ここまで実際によく動いていた。その事実で、不具合のある今日を隠せそうだった。
運転手の一人が、もう行っていいですか、と阿部に尋ねた。阿部は積む箱をもう一度確かめ、別の人へも同じ紙を示した。航が一本の電話を終えるあいだに、二人は自分たちの説明がなぜ信用できないのかを、現場で答えている。

「ここだけの行き違いなら、検収は動かせますか」
航は黒崎へ聞いた。
「その説明なら、まだ話せる」
返ってきた言葉に、体が楽になりかけた。新人が慣れていなかった。説明の途中で古い紙を渡してしまった。自分の返事がどちらを承認したかまで書かなければ、通る説明は作れる。
小池が段ボールの中身を数え直していた。同じ荷物が載った二枚を拾い、どちらを誰から受け取ったか聞く。紙には航が確認したことになっている。小池はそれを信じて、客の前で大丈夫ですと言った。
報告すれば、彼女の今日も終わらない。聞き取りと再説明、検収を待つ日が増える。正しい返事をするだけで、人が早く帰れるわけではない。
航は、まず二日で直してから、と言いかけた。その間、動いている三拠点は同じ紙を使う。あと二日大丈夫かを判断するための情報を、使う人だけが受け取れない。
電話を持つ手を下げた。黒崎は切らずに待っていた。いま違うと言えば、発注元に報告する前なら、まだ彼の案へ戻れた。
航は、今から水原さんに報告します、と黒崎へ告げて電話を切った。
水原の番号を表示し、呼び出しを始める前に、昼の版へ自分が返した問題なしという文を読んだ。
航は通話ボタンを押した。

まず水原へ、起きたことと、三拠点にも同じ危険があることを伝えた。まだ確認できない範囲は、未確認とした。小池と阿部には、その日の説明を止めるよう頼んだ。
水原の声は低かった。
「いつから分かっていたんですか」
金曜に改訂案が来ていたこと、航の承認がどの版か分からなかったことを答えた。見つけたのは今日です、と短く済ませることはできなかった。
既存三拠点には、改修が済むまで変更した荷物を別に確認してもらう必要があった。西尾へその電話を頼もうとして、航は受話器を自分へ戻した。彼女には既に回収が残っていた。
午後の説明は中止になり、検収も待つことになった。応援者をもう一度集める費用、配送が遅れた分の確認、再訪問の費用を、百舎は発注元と確定して負担する。口座に入るはずの代金は、後へ動いた。
西尾は自分の拠点へ、明日の応援は予定どおり行けないと電話した。今日覚えて持ち帰るはずの手順が、途中で止まっていた。代わりを探してもらい、その人へ渡す旧方式の表を、帰ってから準備する。

「こちらで用意します」
航が言うと、西尾は今使っているものだから自分のところで作ると答えた。
「手伝えるところは頼みます。でも、今日の私の代わりは、今から呼べないんです」
航は、費用は負担しますと繰り返しかけた。負担するのは必要だった。それで、西尾が覚えるために空けた午前を、同じ午前として買い戻せるわけではなかった。
小池は次に説明する予定の担当者へ、中止を伝えた。その人は、午後の荷受けを別の人に頼んで来たのだと言った。いつなら来られるか、すぐには答えられない。小池は日付を押しつけず、勤務を確かめてから連絡をもらうことにした。
電話を切っても、引継ぎの予定表は開けなかった。自分が説明をうまくできるかと練習してきた朝に、相手の一日をやり直すための電話を何本もかけることになった。
昼に買った弁当の蓋を、小池はなかなか開けなかった。
「聞けばよかったです」
小池が言った。
「聞いたよ。残ってる」
阿部が電話の履歴を見せた。航の短い承認の下に、二人の質問があった。

航はその画面から目を離さずに、弁当を食べてから続きをしようと言った。落ち込んだ人が食べない時間を、仕事の埋め合わせにはできなかった。
阿部は蓋を開けたが、箸を袋から出す前に、自分が朝、現地で言った言葉を口にした。
「社長が確認した版です、って。僕がそう言ったから、運転手さんは持っていったんです」
「そうだな。その前に、俺の返事があった」
「次に行ったとき、また同じことを聞かれたら」
航は、自分から説明する、と答えた。阿部が何も確かめなくてよかったことにはしない。ただ、確認を求めた二人の問いへ返さなかったことを、彼らだけの未熟さにしない。
小池は航の謝罪を聞いて、すぐに表情を戻さなかった。自分が次も客の前に立つことは変わらない。そこへ持っていける説明が本当に届くまで、安心した声は出せなかった。
夕方、既存三拠点への確認が終わった。報告書の「百舎側の要因」という欄に、自分の名前を書くところから始めた。小池と阿部の動作も事実として書く。ただ、それより上流で止まっていた自分の返事を、小さくしない。
帰りの車で、小池は眠った。紙の箱は会社へ持ち帰った。航は信号で止まり、鞄からのぞく赤いテープを見た。
誰も帰れない場所にしたかったわけではない。自分が戻るまで、誰も決められない場所にしていた。
その夜、西尾は帰宅する前に古い表を印刷し、応援に行く人の名前を書いた。パン屋へは間に合わず、店に預けていた分を翌日受け取ると電話した。売れ残りを取っておいてもらう話ではなかった。朝、取るつもりで頼んだ二つだった。
家で表を開き直さないため、事務室で最後まで確かめた。謝られたことも、正式に問題を報告してもらえたことも分かっていた。それでも、百舎に怒っていないと言う必要はなかった。
阿部は家で手順表を鞄から出し、質問した時刻と返事のなかった時間を自分でも書いた。次に同じことが起きたら、待つしかない人には戻りたくなかった。

会社に残った航は、明日の検収予定だった欄へ延期と入れた。入金の印は消えた。問題を報告したから減った金と、自分の返事で止めた仕事を、同じ表に置いて見た。
鍵をかける前、回収した紙の箱が戸の横にあった。捨てるのは、原因を確かめてからにする。直した最新版だけを残せばよいとは、もう思えなかった。