第九章白く塗られた名前
十二月の最初の週、黒崎の会社へ行くと、応接室の壁に古い写真があった。
倉庫の前に十人ほど並び、今より細い黒崎の隣で、帽子を脇に抱えた男が笑っていた。航は名前を聞いた。
「柳瀬。現場を見ていた。今は別だ」
黒崎はそれだけ答え、全国展開の資料を開いた。
「環」を全国へ広げる。黒崎の会社が資金と協力先を集め、百舎が共通の仕組みを作る中心になる。今の十二拠点を順に回る方法では間に合わないので、AIで設定の下書きと照合を増やし、現地の説明をできるだけまとめる。
岡野の改善は実際に効いていた。試作では、定型の表を用意する時間が大幅に減り、誤りの見落としも減った。航はそこに嘘を見つけられなかったし、見つけたいとも思わなかった。

黒崎は翌年の人員表を出した。
「倉田君と成瀬さんは、自分で出る。それとは別に、小池君と阿部君は整理する。今の人数でやる仕事ではない」
人員を整理する、という欄の横には、二人分の給与が減る額があった。
「解雇するということですか」
「そのための費用も置いてある。最初は二人。帳簿の処理がまとまれば、高瀬さんの仕事も外へ出せる。君と岡野君に、利益を作るところへ残ってもらう」
黒崎は賃金を払わないとも、ただ追い出せとも言わなかった。費用を払い、残る人の待遇を上げる計画だった。五百万円の借入を早く返せる。持分の買い取りへ進む余地まである。
航は資料を閉じなかった。
「小池は、今、現場で答えられるようになっています」
「それを全員に同じように説明できるなら、仕組みへ入れる。教えてから余らせるのが改善だろう」
自分たちを楽にするために仕事を教え合い、その結果、教えた人から席をなくす。その図を小池へ見せたら、彼女は何を次に隠すだろうと思った。
「人が減っても、仕組みは動くでしょうね」
「動くとも。だから勧めている」
航は頷いた。AIがうまくいかなければ断れる、という逃げ道は使えなかった。
「二人を残して、できる仕事を増やす案で出したいです」
黒崎は指を組んだ。
「借金も私の株も、早く片付く話だ。君は、私から自由になりたくないのか」
なりたかった。借りるたびに返事を待つ時間を、なくしたかった。恩と恐れを、同じ人に向けている状態から出たかった。
だが二人を辞めさせて買った自由を、会社にいる二人へ説明する姿が見えなかった。
見える姿を作ろうと思えば、作れた。残る人の待遇を上げ、退職に伴う金を渡し、AIによって役割が変わったと説明する。人を雇ったときも、航は先のすべてを保証したわけではない。
黒崎の表には、二人へ払う分もあった。何も渡さず追い出す提案ではなかった。そのことへ寄りかかれば、悪い決定ではないと言えた。
航は手帳へ、雇用を続けた場合の支出を移した。給与だけでなく、練習へ使う日、現地へ二人で出る交通費、岡野が確認する時間。利益を作るところへ残る人の中に、今その場では答えられない人を育てる仕事も入れる。

下の利益は薄くなった。借金を返す日も、黒崎の株を買う日も、表を直すだけでは近づかなかった。
「その案なら、取れないかもしれない」
黒崎が言った。
「そうですね」
航は返事をしてから、黙った。取れなくてもよい、と続けるのは簡単だった。岡野は全国で使えるものを作りたがっている。小池も阿部も、ただ席だけを守ってほしいと言ったわけではない。
二人を切らずに残せば、二人は必ず感謝する。そう考えたところで、春に借りた三百万円へ、社員の恩を足しそうになったのを思い出した。今回も、誰が会社に借りを作るのかという決め方ではなかった。
航は削減案を手に取り、二人の役割の下にあった終了の欄を読んだ。この欄を採ると黒崎へ答えれば、今日の資金表は楽になる。
紙を机へ戻した。二人を残す費用を計算した頁だけを、鞄の手前へ入れた。
「この条件では、受けません」
黒崎は人員表を戻した。

「二割を持っているのは私だが、人を残すのを禁じる権限まであるわけじゃない。決めるのは君だ。返すのも、君の会社だ」
日々の経営を決められるのは航だった。その権限を手放さず、結果も引き受けると言わなければならない。
廊下を若い社員が通り、黒崎へ書類を差し出した。営業担当の有村だと紹介された。有村が三時に先方へ説明すると言うと、黒崎は自分から電話すると答えた。
有村は一度だけ紙を引きかけ、置いた。

帰り際、事務の人が古い箱の担当者名を白く塗っていた。柳瀬、という字が灯りに透けた。航が見ると、反対の面にも白い紙を貼り、文具、と書いた。箱を使い回すだけだった。

黒崎の過去を、その一枚で分かったことにするところだった。
写真の柳瀬がなぜ辞めたかも、今どう暮らしているかも知らない。知っているのは、小池と阿部を辞めさせるかどうかを、今日、自分が決めたことだけだった。
黒崎は玄関まで来た。
「私は、人を残そうとして会社ごと危なくしたこともある。柳瀬はそのとき残った。だから次も残ると思った」
航は続きを待った。
「正しかったことだけを覚えていれば、経営は楽だがな」
黒崎はそれ以上言わなかった。全国展開を諦める必要はないとも言った。人を切らないなら、その費用を払える案を出せということだった。
航は持ち帰りますと答え、重い鞄を持ち直した。