鍵を置く場所09 / 15

第九章白く塗られた名前

十二月の最初の週、黒崎の会社へ行くと、応接室の壁に古い写真があった。

倉庫の前に十人ほど並び、今より細い黒崎の隣で、帽子を脇に抱えた男が笑っていた。航は名前を聞いた。

「柳瀬。現場を見ていた。今は別だ」

黒崎はそれだけ答え、全国展開の資料を開いた。

「環」を全国へ広げる。黒崎の会社が資金と協力先を集め、百舎が共通の仕組みを作る中心になる。今の十二拠点を順に回る方法では間に合わないので、AIで設定の下書きと照合を増やし、現地の説明をできるだけまとめる。

岡野の改善は実際に効いていた。試作では、定型の表を用意する時間が大幅に減り、誤りの見落としも減った。航はそこに嘘を見つけられなかったし、見つけたいとも思わなかった。

黒崎の応接室で、航がAIの照合によって改善された試作資料を確かめる。
うまくいく仕組みを、断るのではない。

黒崎は翌年の人員表を出した。

「倉田君と成瀬さんは、自分で出る。それとは別に、小池君と阿部君は整理する。今の人数でやる仕事ではない」

人員を整理する、という欄の横には、二人分の給与が減る額があった。

「解雇するということですか」

「そのための費用も置いてある。最初は二人。帳簿の処理がまとまれば、高瀬さんの仕事も外へ出せる。君と岡野君に、利益を作るところへ残ってもらう」

黒崎は賃金を払わないとも、ただ追い出せとも言わなかった。費用を払い、残る人の待遇を上げる計画だった。五百万円の借入を早く返せる。持分の買い取りへ進む余地まである。

航は資料を閉じなかった。

「小池は、今、現場で答えられるようになっています」

「それを全員に同じように説明できるなら、仕組みへ入れる。教えてから余らせるのが改善だろう」

自分たちを楽にするために仕事を教え合い、その結果、教えた人から席をなくす。その図を小池へ見せたら、彼女は何を次に隠すだろうと思った。

「人が減っても、仕組みは動くでしょうね」

「動くとも。だから勧めている」

航は頷いた。AIがうまくいかなければ断れる、という逃げ道は使えなかった。

「二人を残して、できる仕事を増やす案で出したいです」

黒崎は指を組んだ。

「借金も私の株も、早く片付く話だ。君は、私から自由になりたくないのか」

なりたかった。借りるたびに返事を待つ時間を、なくしたかった。恩と恐れを、同じ人に向けている状態から出たかった。

だが二人を辞めさせて買った自由を、会社にいる二人へ説明する姿が見えなかった。

見える姿を作ろうと思えば、作れた。残る人の待遇を上げ、退職に伴う金を渡し、AIによって役割が変わったと説明する。人を雇ったときも、航は先のすべてを保証したわけではない。

黒崎の表には、二人へ払う分もあった。何も渡さず追い出す提案ではなかった。そのことへ寄りかかれば、悪い決定ではないと言えた。

航は手帳へ、雇用を続けた場合の支出を移した。給与だけでなく、練習へ使う日、現地へ二人で出る交通費、岡野が確認する時間。利益を作るところへ残る人の中に、今その場では答えられない人を育てる仕事も入れる。

航は雇用を続ける場合の給与、練習日、交通費、岡野の確認時間を手帳へ移す。
人を残す費用も、表へ入れる。

下の利益は薄くなった。借金を返す日も、黒崎の株を買う日も、表を直すだけでは近づかなかった。

「その案なら、取れないかもしれない」

黒崎が言った。

「そうですね」

航は返事をしてから、黙った。取れなくてもよい、と続けるのは簡単だった。岡野は全国で使えるものを作りたがっている。小池も阿部も、ただ席だけを守ってほしいと言ったわけではない。

二人を切らずに残せば、二人は必ず感謝する。そう考えたところで、春に借りた三百万円へ、社員の恩を足しそうになったのを思い出した。今回も、誰が会社に借りを作るのかという決め方ではなかった。

航は削減案を手に取り、二人の役割の下にあった終了の欄を読んだ。この欄を採ると黒崎へ答えれば、今日の資金表は楽になる。

紙を机へ戻した。二人を残す費用を計算した頁だけを、鞄の手前へ入れた。

「この条件では、受けません」

黒崎は人員表を戻した。

黒崎の応接室で、航が人員削減を条件とする計画を断り、黒崎が人員表を手元へ戻す。壁には古い会社の集合写真が掛かっている。
借金が早く減る条件でも、人を切る案には乗らない。

「二割を持っているのは私だが、人を残すのを禁じる権限まであるわけじゃない。決めるのは君だ。返すのも、君の会社だ」

日々の経営を決められるのは航だった。その権限を手放さず、結果も引き受けると言わなければならない。

廊下を若い社員が通り、黒崎へ書類を差し出した。営業担当の有村だと紹介された。有村が三時に先方へ説明すると言うと、黒崎は自分から電話すると答えた。

有村は一度だけ紙を引きかけ、置いた。

黒崎へ書類を出した有村は、自分で説明する予定を上書きされ、一度だけ紙を引きかける。
任せた手を、戻す。

帰り際、事務の人が古い箱の担当者名を白く塗っていた。柳瀬、という字が灯りに透けた。航が見ると、反対の面にも白い紙を貼り、文具、と書いた。箱を使い回すだけだった。

帰り際の航が、古い段ボール箱の表示を白く塗って再利用する事務員を見ている。
古い箱は、文具を入れる箱になる。

黒崎の過去を、その一枚で分かったことにするところだった。

写真の柳瀬がなぜ辞めたかも、今どう暮らしているかも知らない。知っているのは、小池と阿部を辞めさせるかどうかを、今日、自分が決めたことだけだった。

黒崎は玄関まで来た。

「私は、人を残そうとして会社ごと危なくしたこともある。柳瀬はそのとき残った。だから次も残ると思った」

航は続きを待った。

「正しかったことだけを覚えていれば、経営は楽だがな」

黒崎はそれ以上言わなかった。全国展開を諦める必要はないとも言った。人を切らないなら、その費用を払える案を出せということだった。

航は持ち帰りますと答え、重い鞄を持ち直した。

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目次

TRUE · 鍵を置く場所

  1. 01第一章|まだ温かい鍵
  2. 02第二章|七分と、その先
  3. 03第三章|十一月の最後の日
  4. 04第四章|折り目のない紙
  5. 05第五章|誰かの残り時間
  6. 06第六章|パン屋の閉まる時刻
  7. 07第七章|港までの箱
  8. 08第八章|二本目のドライバー
  9. 09第九章|白く塗られた名前
  10. 10第十章|向かいの席の人
  11. 11第十一章|取れなかった春
  12. 12第十二章|空いたままの席
  13. 13第十三章|手の届かない昼
  14. 14第十四章|水曜の留守番
  15. 15第十五章|鍵を置く場所
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