鍵を置く場所06 / 15

第六章パン屋の閉まる時刻

十月半ばの会議を前に、黒崎は航を駅の喫茶店へ呼んだ。

発注元は「環」の報告を受け、残りの検収と再発防止を確認していた。百舎の提出する是正計画を認めるかで、入金の日が変わる。黒崎は机の端へ小さな紙を置いた。

「審査に関わる人に、個人で金を渡せる。今回の件を重大な問題として残さないよう、話をつける」

航は紙へ手を伸ばさなかった。

「賄賂ですか」

「その言葉で自分を追い込む必要はない」

黒崎はコーヒーを飲んだ。

「誤出荷は起きていない。直す金も使った。これ以上止めて、誰が得をする」

航は金額を見た。遅れる入金を待って何か月も利息を払い、営業の機会を失うより、小さく見える額だった。黒崎は、貸した二百万円から出せとは言わなかった。使える金は、百舎の口座にある。

「西尾さんたちに、何と説明するんですか」

「現場は直ったものを使えばいい」

初めに調査完了の丸を付けなかったから、出発時刻の違いを見つけられた。それを知っていても、この一度だけならと思う。正直に話したせいで足りなくなった金を、正直さと関係のない人が欲しがっている。その仕組みへ金を置けば、会社を帰れる場所のまま残せるかもしれなかった。

航は金額の下へ、検収待ちの代金を置くつもりで指を動かした。一度払えば、待つあいだに出ていく利息を減らせる。応援者をもう一度呼び直す話も、早く決められる。手元の金を正規の仕事に使うために、ここだけ別の金を出す。言葉を並べると、筋が通るように思えた。

「直した内容を確かめてもらうことは、なくならないんですか」

「使えるものは見せる。問題の扱いを軽くするんだ」

黒崎は言った。修正をしなくてもよい話ではない。そのことが、かえって選びやすかった。仕事はきちんとする。記録だけを、小さくする。

紙へ手を伸ばせた。払ってよいと黒崎に答え、金の承認を出すところまでは、航だけでできる。理恵が尋ねたら、自分が決めたと言えばよい。誰かに知られずに済むことと、自分の責任であることを、同じところへ置こうとしていた。

小池の電話の履歴が、頭に戻ってきた。確かめた人がいて、返さなかった自分がいる。その順番を残した報告を、次は審査する人へ金を払って軽くする。正しいことを書いた紙が残っても、読む人が実際に調べないなら、あの二人は何を持って現場へ行けばよいのか。

航はポケットから携帯電話を出し、理恵の返済表を開いた。追加の利息を含む支払日が続いていた。払わなければ、その行と付き合っていく。審査が通らなければ、仕事をさらに減らす必要もある。

喫茶店で航が携帯の返済表を開き、黒崎の置いた小さな紙の金額と見比べる。
安いほうを選ばない費用。

黒崎のいる席で、自分の会社の正規の費用をもう一度確かめた。安いほうを選ばない責任を、他人へ説明するのも自分だった。

航は紙を裏返した。

駅の喫茶店で航が小さな紙を裏返し、向かいの黒崎がコーヒーを手にその判断を見ている。
紙を裏返し、是正の内容で審査を受ける。

「支払いません。是正の内容で審査を受けます」

黒崎はしばらく航を見た。

「借りる額を増やしてまで、私の勧めを全部断るんだな」

「紹介していただいた仕事は、受けています」

声が小さくなった。恩を受けたものを一つずつ数えれば、断るほうの紙を薄くできそうだった。それでも、払うとは言わなかった。

黒崎は紙を鞄へしまった。先日決めた融資を引き揚げるとも、返済を早めるとも言わない。ただ、次の仕事の条件が厳しくなるのを覚悟しておけ、と言った。誰かの報復より、百舎を選ぶ理由が減ったことのほうが、航には重かった。

正式な会議には航と修司が出た。発注元の水原部長は、再訪問の費用を負担するという説明を聞いても、すぐには頷かなかった。現場代表として来た西尾は、折り目の柔らかい配送表を持っていた。

「こっちも応援を頼んでる。遅らせたら、その人は次に来られない」

水原が日程を示した。

修司は、十二拠点への年内導入を維持するため、機能を入れる順番を変えたいと話した。出荷の受け渡しを先に確実にし、便利な集計の一部を翌年へ分ける。まだ受注していない追加研修も同じ日程へ入れない。

水原は西尾を見た。

「残った分は、この人たちが手でやるんでしょう」

西尾は紙の角を押さえた。

「早く帰れるって、聞いたんです。だから他の人にも、少し大変でも覚えましょうって言いました」

「この前、うちの人に聞かれたんです。いつから、新しい表にすれば帰れるようになるのかって」

西尾は続けた。

「まだ、その日を言えなかった。言えないのは仕方ないです。でも、聞いた人は、私が使い方を覚えてないと思ってるんです」

会議で西尾が、早く帰れると伝えた職場で、自分が使い方を覚えていないと思われている苦しさを話す。
説明をしたら、終わりではない。

航は、仕組みの修正に時間がかかっていると説明します、と答えた。

「お願いします。でも、それを言ったら、終わりではないので」

西尾は責めるために予定表を出したのではなかった。夜の締めを二人でやれる曜日、応援者が来られない日、帰りに用事があって遅く残れない人の名前。その表の中で、少しずつ仕事を減らそうとしていた。

水原が、研修をもう一度組み直すには先方でも費用がかかると説明した。百舎の都合で待つ人だけではない。既に別の拠点へ教えに行く担当もいる。航は、自分が個別に回ればと答える前に、その人の次の予定が動かないことを聞いた。

航は、うちの社員を帰すためにそちらへ残ってもらうつもりはない、と言った。

つもりを聞くために、彼女が来たのではなかった。

西尾は夜の締め作業が多い日へ印を付けていた。毎日、全部が遅くなるのではない。澪の聞き取りにもあった日付だったが、航が持ってきた表には納期しかなかった。修司が鞄から現場別の紙を出し、四人で机を寄せた。

西尾が折り目のついた古い配送表を広げ、航、修司、水原と四人で現場の日程を見直している。
こちらの人を帰すために、向こうの人を残さない順番を探す。

夜に集中する確認を減らす機能を先に残す。旧方式を使う期間は応援者を確保する。百舎側の不備によって余分にかかる分は百舎が負担する。発注元が以前から予定していた移行の人員まで、百舎へ付け替えることもしない。水原は自社で確保する人の費用を持ち帰り、後へ送る追加機能の予算を組み直すと言った。

岡野が楽しみにしていたものも、その中にあった。

最後の一拠点の研修日は合わなかった。水原は、そこだけ以前の業者へ依頼を残すと決めた。翌年度の研修をまとめて百舎へ頼む話も、いったん戻した。

「私が個別に行けば」

航が言うと、修司は二人の予定表を出した。空いている日には同じ黄色の印があった。先方が人を集められる週に、黄色はなかった。

航は紙を戻した。

「今言ったことは、取り下げます。行けると確認していません」

水原は、そうですか、と答えた。失望は残った。

以前の業者へ残る研修には、百舎がその準備に使った時間もあった。小池の練習した説明と、岡野が整理した質問の例は、今度の受注にはならない。完成したものを客へ使ってもらえる日が、一つなくなった。

航は、それでも皆の役に立ちます、と言いかけた。言うのは後にした。取れなかった仕事に備えて待っていた人へ、損をしたことを損ではないと言いたくなかった。

水原は会議が終わっても、すぐに席を立たなかった。応援者への連絡と以前の業者への確認を、夕方までに自分がする。百舎の誠実さを評価する文を一つ返すために、残っていたのではない。

会議が終わっても水原は席に残り、応援者と以前の業者へ連絡する段取りを確かめる。
待つ人にも、その次の予定がある。

会議の終わりに、是正内容を残したまま、改めて検収する日が決まった。金を払って記録を軽くしたのではないので、次の導入を確認する人も、その記録を読める。

帰り際、西尾は資料を鞄へ入れながら、駅前のパン屋は水曜が休みになったと話した。

「火曜に次の日の分も買うんです」

航は夏の電話だけで、彼女がいつでも早く帰れている気になっていた。今も毎日うまくいくわけではないのだ。

車へ戻り、修司が腹減ったなと言った。二人でコンビニへ入り、それぞれ買った。修司は同じおにぎりを二つ選んだ。

「違うのにすれば」

「今日はこれを二つ食いたい」

航は笑った。

仕事は減った。費用は増えた。二百万円は、それをなかったことにする金ではない。間違った表を片付け、教え直し、次の給料を払う間の金だった。

航は窓を少し開け、折っていた包みを広げた。

会社へ戻ると、小池が研修の準備をどうするか聞いた。航は、今回のまとまった研修は受けられなかったと伝えた。新しい説明を使うのを楽しみにしていた彼女は、資料を机へ置いた。

会社へ戻った航から研修の失注を聞き、小池は楽しみにしていた説明資料を机へ置く。
使ってもらえる日が、一つなくなった。

「また最初から、別の人に説明してもらうんですね」

「そうなる。先方の予定と、こちらの行ける日が合わなかった」

小池は、私がもっと早くできていれば、と言いかけた。航はそれだけを理由にしないと答え、どの費用を会社が負担するかを示した。慰めるために、社員へ原因のない成功を約束しなかった。

岡野は後へ送る集計の画面を閉じた。作りかけの機能を消したわけではない。それでも、来月それを現場で試す日はなくなった。航が声をかけると、今は残す処理を直します、と答えた。良い声だったが、嬉しい声ではなかった。

翌日の西尾の拠点では、締め作業のために旧表を使う日が続いた。新しいものが使えるところだけ、先に変える。一枚減れば助かるが、二枚残れば最後に合わせる。百舎の払う費用で応援者が来る日も、その人へ教える時間は要った。

帰り際、西尾は火曜の分と水曜の分のパンを受け取った。早く帰れたと言った夏の自分が、嘘をついたことにはならない。今月の苦労を航が知ったからといって、夏の喜びを返す必要もなかった。

家で明日の分を袋から出し、冷凍した。翌日まで残る仕事と、翌日のために残せるものが、どちらもあった。

西尾は帰宅後、翌日のために買ったパンを袋から出して冷凍する。
翌日のために、残せるもの。

航は会社で、失った研修を売上の見込みから外した。借入の五百万円は、その操作では減らなかった。正規の審査で進めると決めた日のあとにも、返していく月が続いた。

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目次

TRUE · 鍵を置く場所

  1. 01第一章|まだ温かい鍵
  2. 02第二章|七分と、その先
  3. 03第三章|十一月の最後の日
  4. 04第四章|折り目のない紙
  5. 05第五章|誰かの残り時間
  6. 06第六章|パン屋の閉まる時刻
  7. 07第七章|港までの箱
  8. 08第八章|二本目のドライバー
  9. 09第九章|白く塗られた名前
  10. 10第十章|向かいの席の人
  11. 11第十一章|取れなかった春
  12. 12第十二章|空いたままの席
  13. 13第十三章|手の届かない昼
  14. 14第十四章|水曜の留守番
  15. 15第十五章|鍵を置く場所
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