第五章誰かの残り時間
翌日の朝、航は皆へ謝った。
岡野は、謝罪が終わるのを待ってから言った。
「次は担当で決めます。出す版も、使うのを止めるかも」
「大きい問題なら、俺に」
「大きいか分からないときが、一番困るんです」
机には、二週間分の予定と、十月の資金表があった。修正と再訪問で利益は減り、検収の遅れで入金も遅れる。澪の引継ぎと新人の育成を予定どおり行うには、別の仕事を動かさなければならない。
航は自分が夜にやると言った。
理恵が眼鏡を上げた。
「夜に作ったものを、誰が朝に確認しますか」
また誰かの名前が要った。
修司は、俺もと続けなかった。三十八歳になっても疲れれば眠る。航は、駅のベンチから救った友人を、別の椅子へ移しただけにしたくなかった。

航は無料で引き受けていた新規客への説明会を断り、今月中に確約していない機能を提案から外した。相手はもっと早く知らせてほしかったと言った。その謝罪も航がした。
残した時間へ、澪が知っている現場の判断、小池の説明練習、阿部の設定確認を並べた。岡野は共通処理を直す日を二日求めた。
「今、目の前を片付けてからでは」
「ずっとそうして、同じところで止まってます」
航は二日を残した。

二日のうちに、前から相談していた小さな受注の返事も必要だった。作れば間に合うが、作る人は同じだった。航は客へ、今回は引き受けられないと伝えた。
相手は、前にできそうだと聞いたから、こちらも社内で話した、と言った。まだ契約していないことを理由に、困らせていないとは答えられなかった。航はその説明を聞き、今月は難しいと明確にした。
来月なら必ず、と言いたくなった。代わりに、調べ直してから日程を出すと答えた。電話を終えると、受注表にあった候補を外した。岡野が改善を終えても、その客が戻る保証はなかった。

修司は二日の予定を読み、これなら今夜は家で飯を食える、と言った。航はその言葉へ、少しぐらい夜に確認してくれればと思った自分を見つけた。休める形にすると決めた表を、本人の好意で穴埋めしたがっていた。
「明日の朝、今の版を一緒に見よう」
そう答えた。今日の夜を空けることは、明日の朝まで待つことでもあった。
その夕方、黒崎へ資金表を持っていった。黒崎は報告書の名前を読み、小池はまだ入ったばかりかと聞いた。
「慣れない担当が確認せずに出した、とすれば、社長の説明は通しやすい。配置を変えると書けば、先方も収まりがいい」
「確認を止めていたのは私です」
「担当者にも責任はあるだろう」
「あります。でも、私の分をそこへ入れるつもりはありません」
黒崎は紙を閉じた。
「会社を守れば、彼らの仕事も残る」
その言葉を聞くと、航は小池の弁当の蓋を思い出した。会社のために何を食べずに済ませたらいいのか、あの人はもう考え始めていたかもしれない。
黒崎は報告書の小池と阿部の名へ指を置いた。
「この二人が旧版を選んだ。そこは間違っていない」
「二人が、どちらの承認か聞いたことも残します」
「代表が答えていないと書けば、先方は君の確認体制を疑う。それでも二人を次の拠点へ出すのか」
航は自分の名のある欄を見た。ここを、担当者が確認せず持ち出したと変えれば、自分は現場へ来て直した人でいられる。若い二人には、次に気をつけようと教えるだけで済む。
会社を守るために二人の仕事を残す。その言い方をすれば、自分が二人へしたことまで親切に数えられそうだった。
「疑われるところが、実際にあるんです」
航は紙を自分の側へ戻した。
「旧版を選んだ事実も、二人の質問も、私の承認も残します。私の返事を変える是正を出します」
ペン先を置けば小さくできた一行を、消さなかった。黒崎の前で、その報告へ代表として署名した。

報告書は書き換えなかった。航自身が発注元へ経緯を説明し、再発を防ぐ変更を引き受ける。社員の名前を消すのでなく、起きた順番の中へ戻す。
黒崎は次に資金表を開き、二百万円の追加がなぜ必要か聞いた。
修正費用だけではない。入金を待つ間の給与、教える時間、約束済みの外注費。自分の役員報酬は生活費を確認した上で一時的に下げたが、社員の給料と既に働いた分の対価は削らない。それでも不足した。
返済は、追加九拠点の導入代金の残りと、十二拠点の継続保守を中心に計画していた。まだ取っていない全国展開は入れなかった。理恵と作った低めの売上の場合も示すと、黒崎は春の三百万円を赤で囲んだ。

「これと合わせて五百だ。君は、金で時間を買ってる」
「必要な時間を、ただでもらわないためです」
言ってから、きれいな返事をしすぎたと思った。金利まで含めた表を見ると、胃が縮んだ。黒崎が断れば、再び日程と受注を減らす相談をしなければならない。
会社へ戻ったあと、小池と阿部にも、報告を読んでもらった。
小池は、昨日の自分の説明に線を引いた。どの版を持っていくかの質問はした。違う版の内容を自分で並べて確認するところまではできなかった。阿部も、回収するときに最初の一台を待たせたことを足した。
「ここまで書くと、次も任せてもらえますか」
阿部が聞いた。
航は、絶対に大丈夫と答えそうになった。客がどう受け取るかは、代表にも決められない。
「次の説明には俺も出る。何を変えたかを、一緒に話す。二人だけが確認していなかったことにはしない」
小池は報告の控えが欲しいと言った。もし現場で自分の説明が違うと言われたら、どこまで会社が伝えたか確かめたい。航は二人が確かめた部分を補足して発注元へ送り、提出した日付を入れた写しを印刷した。

二人は礼を言ったが、元気な声ではなかった。守ってもらったという言葉で、失敗した朝を簡単に終わらせたい人たちではなかった。
返事を待つ二日、航は会社の金を何度も確かめた。二百万円が入る前に、入ったことにして約束するわけにはいかない。確保した改善の日は動かさず、後の支払日を理恵と一つずつ見る。

理恵は、一度借りたから次も借りられると思っていなかった。先方に待ってもらう場合、誰がいつまでに連絡するかを横へ書いた。航はその表へ、借りられなかった場合に縮める仕事も入れた。黒崎の返事を祈るだけの二日にはしなかった。
黒崎は二日かけて契約と保守の見通しを確かめ、追加二百万円を貸すと答えた。この分も年六パーセント、入金から一年は元金を据え置き、その後三年で返す。春の条件は変えなかった。
追加契約の署名の前、航は月の利息が合わせて二万五千円になるのを見た。翌年四月には初回分の元金返済が始まり、十月には追加分も始まる。二百万円が振り込まれれば、今日の不足は消える。その先の表は、今より重くなった。
航はペンを持ったまま、社員の練習日を見た。勤務外の自主練習ということにすれば、昼は別の受注へ使え、借りる額を減らせるかもしれない。その仕事の費用は帳簿から消え、帰る人の疲れとして残る。
署名した。代表として引き受ける金を増やすのは、皆にもう一晩働いてもらうより、怖くない決定ではなかった。
「君が今、私を必要としていることは覚えておきなさい」
航は礼を言った。覚えたくないことほど忘れられない。
金が入った日の午後、小池と阿部が新版の表を持ってきた。印刷時刻が大きくなり、古い紙を外したかを確かめる欄もあった。航は受け取りかけて、手を止めた。
「今の範囲なら、二人で確かめて出してください。使っていいか分からなければ、止めてから知らせていい。金額や納期を変える相談は、俺が受けます」
小池は、先方が怒ったら、と聞いた。
「怒ったことも教えて。止めた判断を取り消して、先に使わせることはしない」
阿部が手順表を脇へ抱えた。二人はすぐには動かなかった。任せるという言葉を、前にも聞いたからだった。
次の説明の前、阿部は一か所を未確認にしたまま持ってきた。以前なら航の返事を待ち、表を全部止めていただろう。今回は、確認できた部分だけ使い、そこは現場へ尋ねる、と自分で決めていた。
「止めたところは、使い始める日が遅れます」
阿部が言った。
「それも先方へ伝えよう。納期と費用の条件は、俺から話す」
航は未確認の印を消さなかった。阿部はその返事を聞いてから、小池と紙を揃えた。

その日は、時間までに全部を終えられなかった。次に尋ねる相手と日を決め、勤務を終えた。二人が鞄を持って帰るあと、航は未確認の残る表を見た。会社が良くなったからすべて緑になるわけではない。終わっていないものを見える所へ残し、二人はそれを家へ持ち帰らずに済んだ。
夕方、二人が送った説明を航は読んだ。見出しを逆にしたくなった。読めないわけではないと分かるまで、赤ペンの蓋を開けていた。
会社の口座には金が増えた。航の自由が増えたわけではなかった。それでも、小池が鞄を持って階段を下りる音を聞いたとき、その金を使ったことを後悔はしなかった。