第十二章空いたままの席
仕事納めの日、修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。
小池と阿部は、目つきの悪い猫が工具を持つステッカーを贈った。修司は工具箱へ貼り、自分に似てないかと聞いた。

阿部は、誰もそんなことは、と言った。小池は黙っていた。
最後の引継ぎで、処理と技術上の判断は岡野へ、設定と動作確認は阿部へ、説明と問い合わせの記録は小池へ渡した。費用や日程を客と相談し直す役は航が持つ。分からないことが出たら修司へいつでも電話してよい、という欄は作らなかった。
三人で調べても答えが出ない場合は、工場の保守をする別の技術者へ有償で相談する約束をした。いつでも即答してもらえるわけではない。その調査時間を含め、顧客へ返す時刻も変えた。
航は、ずいぶん大げさになったな、と言いたくなった。修司が一本電話に出れば済むこともある。
その修司は訓練所で、誰かの初めての失敗を見ているかもしれない。その時間の入口に、百舎の鍵は合わない。
資料を読み直すうち、修司が自分の書いた説明の間違いを見つけた。
「あ、ここ俺が悪い」
阿部が訂正を入れ、小池が説明も変えた。終わったら、修司は箱の蓋を閉めた。間違いが一つ見つかったことを、出発を延ばす理由にしないで済んだ。
理恵は最後の給与と精算を説明した。修司が遠慮しそうになると、祝いの領収書とは別です、と言った。
「その話、聞いたの?」
「社長が何度もするので」
航は帳面を閉じた。三百円の贈り物の話を、会社へ残る理由に何度も使っていたのかもしれなかった。
皆が帰り、二人で箱を持って階段を下りた。
「怒ってる?」
航が聞いた。
「時々は」
「俺に?」
「だいたい」
航は笑った。修司も少し笑った。
「俺も、まだ、お前が残ればって思ってる」
「だろうな」
「でも、それを結論にはしない」
修司は箱を膝へ載せ直した。
踊り場は、二つの箱を並べると通れない。航は抱え直し、先へ行くよう顎で示した。

外には修司が借りた小さな車があった。助手席の足元へ箱を置くと、訓練所で使う厚い手袋と、実習用の木片が見えた。まだ航の知らない仕事の匂いがした。
「あの領収書、取ってある」
航が言うと、修司は、湯呑みの、と確かめた。
「立替じゃないからな」
「分かってる」
窓が閉まり、車が出た。
航は道路の向こうへ渡った。二階の灯りは創業の日と同じ大きさに見えた。自分がいなければ生まれなかった場所だと思っていた。修司がいなければ、澪がいなければ、理恵が来てくれなければ。黒崎が金と仕事を持ってこなければ。
恩を数えれば、どこにも行けない。
会社へ戻り、修司の机を空けた。借金の欄は空かなかった。創業社員の退職は、会社の責任を肩代わりして持ち出すことでもなかった。
年明け、岡野がその机で資料を広げ、小池が半分を借りた。阿部が確認中の機器を置き、理恵は昼まで伝票の場所を借りた。

新しい誰かの椅子にしなくても、机には仕事が載る。ただの机になるまでにも、少し時間が要った。
年明け、修司は訓練所の実習室へ、百舎とは違う鍵で入った。
教材を置く棚と、最初に確かめる機器の場所を覚える。工具箱には小池と阿部の猫が貼ってあったが、そこにいる人は二人を知らない。誰かに聞けばすぐ分かる職場を離れ、まず自分が聞くところから始めた。
生徒の一人が、動かないから自分は向いていないのだと思うと話した。修司は原因をすぐ見つけた。自分で直せば、その場は終わる。少し待ち、どこまで確かめたかを聞いた。
十分ほどかかって、生徒が一つの接続を直した。動くところをもう一度確かめ、次は外す前にここを見ます、と言った。修司は頷き、その人が自分で戻れる順を、もう一度紙へ書いた。

実習が終わると、今度は工場の担当者へ翌日の訪問を確認した。百舎を出たから休める日ばかりになるわけではない。仕事の違う二つの場所へ、体と時間を分けていく暮らしだった。
帰宅して濃い青の湯呑みを出すと、航と茶を飲んだ夜を思い出した。嫌なところもあった。自分を止めようとした言葉へ腹も立った。それでも、この色を選んだ日の祝いを、辞めたことで取り消す気はなかった。
同じ週、百舎では分からない設定が見つかった。阿部と岡野が調べ、有償の相談先へ問い合わせた。返事は翌日の午前になるという。航は客へその時刻を伝えた。
修司なら今日聞ける、と一度だけ考えた。明日まで待ってもらう説明を選び、費用を承認した。外へ出た人の生活を守るのは、見送った日にいい言葉を言うだけではなかった。
