鍵を置く場所12 / 15

第十二章空いたままの席

仕事納めの日、修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。

小池と阿部は、目つきの悪い猫が工具を持つステッカーを贈った。修司は工具箱へ貼り、自分に似てないかと聞いた。

仕事納めの百舎で、修司が工具を持った猫のステッカーを自分の工具箱へ貼る。小池と阿部がそばに立ち、机には湯呑みを包んだ新聞紙と小さな箱がある。
仕事納めの日。小池と阿部から、工具箱へ貼る猫をもらう。

阿部は、誰もそんなことは、と言った。小池は黙っていた。

最後の引継ぎで、処理と技術上の判断は岡野へ、設定と動作確認は阿部へ、説明と問い合わせの記録は小池へ渡した。費用や日程を客と相談し直す役は航が持つ。分からないことが出たら修司へいつでも電話してよい、という欄は作らなかった。

三人で調べても答えが出ない場合は、工場の保守をする別の技術者へ有償で相談する約束をした。いつでも即答してもらえるわけではない。その調査時間を含め、顧客へ返す時刻も変えた。

航は、ずいぶん大げさになったな、と言いたくなった。修司が一本電話に出れば済むこともある。

その修司は訓練所で、誰かの初めての失敗を見ているかもしれない。その時間の入口に、百舎の鍵は合わない。

資料を読み直すうち、修司が自分の書いた説明の間違いを見つけた。

「あ、ここ俺が悪い」

阿部が訂正を入れ、小池が説明も変えた。終わったら、修司は箱の蓋を閉めた。間違いが一つ見つかったことを、出発を延ばす理由にしないで済んだ。

理恵は最後の給与と精算を説明した。修司が遠慮しそうになると、祝いの領収書とは別です、と言った。

「その話、聞いたの?」

「社長が何度もするので」

航は帳面を閉じた。三百円の贈り物の話を、会社へ残る理由に何度も使っていたのかもしれなかった。

皆が帰り、二人で箱を持って階段を下りた。

「怒ってる?」

航が聞いた。

「時々は」

「俺に?」

「だいたい」

航は笑った。修司も少し笑った。

「俺も、まだ、お前が残ればって思ってる」

「だろうな」

「でも、それを結論にはしない」

修司は箱を膝へ載せ直した。

踊り場は、二つの箱を並べると通れない。航は抱え直し、先へ行くよう顎で示した。

仕事納めの夕方、狭い階段の踊り場で航が箱を抱え直し、先へ下りる修司の通り道を空けている。
箱を抱え直して、先へ行く道を空ける。

外には修司が借りた小さな車があった。助手席の足元へ箱を置くと、訓練所で使う厚い手袋と、実習用の木片が見えた。まだ航の知らない仕事の匂いがした。

「あの領収書、取ってある」

航が言うと、修司は、湯呑みの、と確かめた。

「立替じゃないからな」

「分かってる」

窓が閉まり、車が出た。

航は道路の向こうへ渡った。二階の灯りは創業の日と同じ大きさに見えた。自分がいなければ生まれなかった場所だと思っていた。修司がいなければ、澪がいなければ、理恵が来てくれなければ。黒崎が金と仕事を持ってこなければ。

恩を数えれば、どこにも行けない。

会社へ戻り、修司の机を空けた。借金の欄は空かなかった。創業社員の退職は、会社の責任を肩代わりして持ち出すことでもなかった。

年明け、岡野がその机で資料を広げ、小池が半分を借りた。阿部が確認中の機器を置き、理恵は昼まで伝票の場所を借りた。

年明け、岡野、小池、阿部、理恵が、空いた修司の机をそれぞれの仕事で使う。
新しい誰かの席にしなくても。

新しい誰かの椅子にしなくても、机には仕事が載る。ただの机になるまでにも、少し時間が要った。

年明け、修司は訓練所の実習室へ、百舎とは違う鍵で入った。

教材を置く棚と、最初に確かめる機器の場所を覚える。工具箱には小池と阿部の猫が貼ってあったが、そこにいる人は二人を知らない。誰かに聞けばすぐ分かる職場を離れ、まず自分が聞くところから始めた。

生徒の一人が、動かないから自分は向いていないのだと思うと話した。修司は原因をすぐ見つけた。自分で直せば、その場は終わる。少し待ち、どこまで確かめたかを聞いた。

十分ほどかかって、生徒が一つの接続を直した。動くところをもう一度確かめ、次は外す前にここを見ます、と言った。修司は頷き、その人が自分で戻れる順を、もう一度紙へ書いた。

訓練所で修司は生徒が接続を直すまで待ち、その人が自分で戻れる順番を書き留める。
すぐ直す手を、一度待つ。

実習が終わると、今度は工場の担当者へ翌日の訪問を確認した。百舎を出たから休める日ばかりになるわけではない。仕事の違う二つの場所へ、体と時間を分けていく暮らしだった。

帰宅して濃い青の湯呑みを出すと、航と茶を飲んだ夜を思い出した。嫌なところもあった。自分を止めようとした言葉へ腹も立った。それでも、この色を選んだ日の祝いを、辞めたことで取り消す気はなかった。

同じ週、百舎では分からない設定が見つかった。阿部と岡野が調べ、有償の相談先へ問い合わせた。返事は翌日の午前になるという。航は客へその時刻を伝えた。

修司なら今日聞ける、と一度だけ考えた。明日まで待ってもらう説明を選び、費用を承認した。外へ出た人の生活を守るのは、見送った日にいい言葉を言うだけではなかった。

分からない設定の返事を翌朝まで待つと決め、航は外部への相談費用を承認する。
見送った日の言葉だけでは、守れない。
この章の感想を残す

心が動いたところ、立ち止まったところ。自由に書き留められます。メモはこのブラウザにだけ保存されます。

入力すると自動保存されます。

草稿へのご感想はメモを書き出してお渡しください。この画面からの送信はありません。

目次

TRUE · 鍵を置く場所

  1. 01第一章|まだ温かい鍵
  2. 02第二章|七分と、その先
  3. 03第三章|十一月の最後の日
  4. 04第四章|折り目のない紙
  5. 05第五章|誰かの残り時間
  6. 06第六章|パン屋の閉まる時刻
  7. 07第七章|港までの箱
  8. 08第八章|二本目のドライバー
  9. 09第九章|白く塗られた名前
  10. 10第十章|向かいの席の人
  11. 11第十一章|取れなかった春
  12. 12第十二章|空いたままの席
  13. 13第十三章|手の届かない昼
  14. 14第十四章|水曜の留守番
  15. 15第十五章|鍵を置く場所
この物語の表紙へ

表示設定

文字の大きさ
背景色

設定と読書位置は、このブラウザに保存されます。