鍵を置く場所08 / 15

第八章二本目のドライバー

澪が出発した翌週、修司が年末で百舎を離れると話した。

年明けから職業訓練所で実習を教え、残りの日は近くの工場の保守をする。以前から月に一度、休日に訓練所を手伝っていた。教えるのは難しいが、自分で直せるようになる人を見るのが好きだという。

航は、またか、と思った。

「今でなければ駄目なのか」

「前から考えてた」

「俺は聞いてない」

「手伝ってるって話した。難しいとも言った。お前、いいじゃないかって言った」

言ったことを覚えていた。続きを選ぶ人の話として、聞いていなかった。

修司は、年内の導入を終え、約束した範囲を引き継ぐ。翌年度の研修は受けると返事をしていない。航は、十二拠点をやろうと言ったのはお前もだ、と答えた。

「そうだよ。面白かった。今も面白い」

修司は言ってから、湯呑みの底を見た。

「それと、ずっとやることは同じじゃないだろ」

航は椅子から立ち、行く先がないので窓を見た。印刷所の荷物がトラックへ積まれていた。何かを運び出す音ばかり大きく聞こえた。

黒崎から借りた五百万円には、人を育てる時間も入っている。澪のためにも、修司を駅のベンチへ戻さないためにも、引き受けたつもりだった。その人たちがいなくなれば、何を守った金なのか。

「借りた分、俺に何か残ってるか」

修司が聞いた。

航は振り向いた。

「ない。会社が返す金だ」

「そうだよな」

修司はそれ以上言わなかった。会社の借金を誰も個人の滞在料として約束していない。その線を自分で確かめなければ、航は後から貸しに変えてしまいそうだった。

前の会社を辞めた冬の話をしようとした。あのベンチに眠る修司なら、今の航を必要としてくれる。

机の前の修司は、新人へ渡す工具を選んでいた。持ち手に小池の名前を書いた二本目のドライバーがあった。

「俺はお前を」

そこで言葉が止まった。

「ずっと、一緒にやると思ってた」

修司は目を落とした。

「俺も、最初はそう思ってた」

四年がなかったことになるわけではない。だから余計に、違う先を選ぶ理由を仕事の嫌さだけにしてほしくなかった。

小池が工具を取りに来た。書いた名前が手で擦れるので、修司が透明なテープを上から巻いた。小池が戻るまでの短い間、二人は普通に笑った。

小池のドライバーの持ち手に透明テープを巻く修司を、航がそばから見ている。
手渡すための、小さな工夫。

航は腹が立った。自分との話で、もっと傷ついていてほしかった。

修司は、俺も簡単には決めてないからな、と言った。航が何を考えているか、長い付き合いの人には分かるのだった。

修司は来年の仕事の日程を開いた。訓練所の日と工場へ行く日が、別の色で書いてあった。月ごとに受け取る金も、百舎で一つ受け取っていた給与とは違う。

修司が訓練所と工場の仕事の日程を開き、航へ新しい暮らしの収入と時間を話す。
簡単には、決めていない。

「工場のほうも、全部、好きな仕事だけじゃない。朝が早い日もあるし、呼ばれたら調べに行く。教えるだけなら、収入は足りないから」

「ここなら、そのまま払える」

航が言った。

「分かってる。だから迷った」

修司は紙を閉じなかった。

「夏に訓練所で、俺が言う前に自分で原因を見つけた人がいた。できたあと、もう一回やりますって。俺は、そのあとも見たかった」

百舎でも小池や阿部へ教えている。航はそれを言おうとした。修司は、自分にしかできない仕事を減らすのはここでも面白い、と先に言った。

「でも、別の場所でやってみたいと思ったら、こっちが嫌いだったことにしないと駄目なのか」

航は首を振った。頭では、そうでないことを知っていた。机を並べた四年の意味を、退職する人にもう一度保証してほしかっただけだった。

「寂しいんだと思う。俺は」

修司は、俺もだよ、と答えた。だから残る、とは続けなかった。

航は引継ぎの日付を確認し、修司が年末で終える欄へ名を書いた。全部を一人に渡して残る岡野を追い込まない。その費用と仕事量を、会社が調べ直す。

航が年末で修司の仕事を終える欄へ名前を書き、引継ぎの範囲を一緒に決める。
寂しさを、結論にはしない。

書いたあとにも、もっと早く言えよという言葉は出そうになった。そう言えば、相手が望んだ次の暮らしを、連絡の不手際の話へ変えられる。航は紙を渡すとき、年末までの範囲を一緒に決めよう、とだけ言った。

その夜、修司は訓練所へ、年明けから入る日を確かめる連絡をした。担当者は必要な教材の一覧を返した。百舎に辞めると言えば、新しい生活が自然に始まるわけではない。

机で実習の順を考え、最初の作業を少し簡単にした。簡単にすれば一人で終えられるかと思い、やはり、その途中で尋ねてくる人もいると書き直した。

昼間の航の顔を思い出すと、胸が痛んだ。言い方を変えれば、あんな顔をさせずに済んだかもしれない。けれど、痛ませないために続けると答えれば、来年の手帳も、自分が選ばない仕事で埋まる。

修司は必要な教材を一つ注文した。会社の金ではなく、自分が次にする仕事のための金だった。届く日を、自宅の予定へ入れた。

夜の自宅で、修司が実習の順番を書き直し、新しい仕事に必要な教材を注文する。
次の暮らしも、自動では始まらない。

その週、説明の練習に航も加わった。小池が利用者役になり、阿部が設定の確認で迷うところを示す。航は相手が読み終える前に、次の画面を開いた。

修司が、まだ読んでる、と言った。

「社長も待てないんですね」

小池が言うと、航は待てるよと答えた。修司が咳をした。

「今は、待てなかった」

小池は笑い、元の頁へ戻った。

勤務時間内の説明練習で、小池が手順表の前の頁へ戻り、航は操作を待つ。修司と阿部も同じ確認に加わっている。
読んでいる人を待つことも、教わる。

今週の練習は勤務時間の中にあった。その分、新しい提案を出す日を延ばした。教えることは、別れを惜しむ人が夜に足す好意ではなく、百舎が代金を払い、時間を確保する仕事だった。

年末まで何度も、航は口を挟みかけた。小池が指を一本立て、少し待ってくださいと言うようになった。待ったあとに返ってくる質問は、前より細かくなった。

航の作りたかった場所から、人が出ていく。

その戸を小さくするより先に、自分がどこに立っているのかを考える日が続いた。

百舎では、有償で技術相談を頼める相手を探し始めた。修司がいるうちに聞いておけば終わるものと、退職後にも起こる例外を分ける。航は最初、後のほうを少なく見積もった。修司が、ここは俺も初めて見るだろうな、と二つ足した。

会社の支出が増えた。航は修司を説得するためでなく、顧客へ返せる仕事を作るためにその表を直した。残ってほしい気持ちが消えるまで待っていたら、引継ぎの日が足りなくなる。

百舎で修司と航が、退職後に起こる例外と有償相談の費用を引継ぎ表へ足す。
残ってほしいままでも、費用を直す。
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目次

TRUE · 鍵を置く場所

  1. 01第一章|まだ温かい鍵
  2. 02第二章|七分と、その先
  3. 03第三章|十一月の最後の日
  4. 04第四章|折り目のない紙
  5. 05第五章|誰かの残り時間
  6. 06第六章|パン屋の閉まる時刻
  7. 07第七章|港までの箱
  8. 08第八章|二本目のドライバー
  9. 09第九章|白く塗られた名前
  10. 10第十章|向かいの席の人
  11. 11第十一章|取れなかった春
  12. 12第十二章|空いたままの席
  13. 13第十三章|手の届かない昼
  14. 14第十四章|水曜の留守番
  15. 15第十五章|鍵を置く場所
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