鍵を置く場所11 / 15

第十一章取れなかった春

翌週、航と岡野は榎本の会社へ行った。榎本も現場を回る社員を呼び、四人で昼前から仕事の境目を確かめた。

客からの電話を誰が受けるか。機器の問題か画面の問題か分からないとき、誰が先に調べるか。予定を空けておく日に別の仕事を入れたら、誰が代わるか。

岡野はAIが整理した問い合わせ例を使った。四人がそれを読み、実際に聞かれたことと違うものを外す。人を減らすために見せられた仕組みが、違う会社の人と話す足場になった。

待機の時間を含む費用で、共同の提案を出せるところまで決めた。黒崎も、発注元との条件調整を続けた。不正や解雇の提案を断られても、良い受注があれば自社と投資先の利益になる。その関係は簡単に善悪へ分けられなかった。

最初の審査で、水原は窓口の図を指した。

「今度は、うちの人が二社へ電話するんですか」

百舎と榎本の会社へ、矢印が分かれていた。航たちの分担が明快でも、使う人が区別を決めるのでは意味がない。一つの窓口で受け、二社が内側で調べて分ける形へ直した。

出し直しても、費用は下がらなかった。待つ人の時間を無料に戻すことも、社員を削って帳尻を合わせることもしない。

黒崎は、君が全部の最終判断を受ければ、人を減らさなくても窓口の費用を下げられると言った。航の稼働表の空白に、全国からの相談が入る。

「いつでも答えられることを、先に約束するんですね」

「各地へ行けとは言っていない」

航には十月の金曜があった。携帯電話を見て返事をする時間はあった。その返事が何を承認したのか、誰も分からなかった。

黒崎の方法で取れる仕事はある。ここで断れば、社員にも欲しかった仕事を諦めてもらう。守るという言葉で、その悔しさまで取り上げることはできない。

航はその案を試しに表へ入れた。代表がすべての最終判断を受ける。各地の問い合わせの欄へ自分の名を書くと、価格は下がった。

小池と阿部を切らなくても、岡野の試作を全国へ出せる。そのために代表の夜を使うなら、自分が選んだことだと言える。真帆には忙しくなると伝え、しばらく一人で暮らしを回してもらう。

そこまで考えてから、航は十月の問題なしという返事を読んだ。自分が夜を差し出すだけで終わらなかった。返事を待つ二人と、旧版を持っていった現場がいた。自分が答えられなければ、全国の人の仕事まで止まる。

代表が働くから社員は守られる。その言い方では、代表へ聞くしかなくなる社員の時間が見えなかった。

航は夜間にも判断を受けるという文を消した。削除したあとも、下がる受注の確率は分かった。紙を直し、社員に、この条件で取れない場合がある、と話した。岡野は分かりますとだけ答え、やめましょうとは言わなかった。

全国から夜間の最終判断を受ける案を試したあと、航がその文を自分で消す。
代表の夜だけでは、終わらない。

最終提案の送付前、価格を下げる頁がまだ鞄にあった。今なら差し替えを頼める。航は確認時間を残した提案を開き、自分の名で提出した。

「この人数と、確認する時間を含めて出します」

黒崎は、ではその案で説明しろ、と言った。

最終の会議には岡野と、榎本の担当社員も出た。黒崎の会社から来た有村は、初め黒崎へ目を向けた。岡野が、前の現場ではどうしていましたかと聞くと、有村は夜の電話が翌朝の作業へどうつながるかを、自分の言葉で話した。

黒崎は一度口を開き、それから閉じた。

水原は別の提案を採る可能性が高いと伝えた。百舎の改善を認めないのではない。全国で同時に動かす範囲と、費用の条件が合わなかった。

「既存の十二拠点は、契約どおりお願いします」

航は、はい、と答えた。

仕事納めの三日前、全国の中心になる仕事は他社へ決まった。

岡野は試作の画面を閉じなかった。航は、残ってくれてありがとうと言いかけた。岡野は辞めるとも残るとも、まだ言っていない。

「悔しいです」

岡野が言った。

「うん」

「こうやれば作れる、まで考えたんです。作れない理由が、もう技術じゃないんですね」

岡野は画面の一か所を指した。拠点ごとに違う設定を、人が確認する前の形まで揃えられる。自分が最初に入社したときより、実際にできることが増えていた。

「これ、使ってるところを見たかったです。ここで終わりじゃなくて、現場で間違えて、また直すところまで」

「そうだな」

「働きやすいから、作れなくてもいいって思ったわけじゃないです」

航はその言葉を聞いた。無理な仕事を断った判断を、岡野が受け入れたからといって、彼が欲しかったものまで諦めたことにはならなかった。

「残る人を守ったから、良かったってまとめないでください」

失注を知った岡野が試作の画面を指し、残る人を守ったから良かったとまとめないでほしい、と航へ言う。
働きやすければ、作れなくてもいいわけじゃない。

岡野の声は低かった。怒っているのか、疲れたのか、航にはすぐに分からなかった。

「分かった。俺も、取れなくて良かったとは思ってない」

それを言っても、岡野の肩は緩まなかった。

航は、別の場所で必ず作れる、と約束しなかった。既存の保守で使える部分と、予算が付かず先へ送る部分を一緒に分けた。岡野はその場では頷かなかった。

夕方、試作の保存名に日付が付いた。次の相談の資料が開かれ、作りたかった図はその下へ隠れた。

失注の知らせを受けた午後、岡野が試作の保存先に日付を足している。
まだ作りたかったものを、保存する。

小池が春の予定表の印を三つ消した。阿部は宿泊の予定を消す前に、終わった会議の記録へ変更を書いた。

榎本の会社でも、共同提案のために使った時間を締めた。担当社員が揃えた機器の例は、自社の次の点検にも使える。それでも、提案へ出るために別の日へ動かした仕事は戻ってこない。

榎本は航へ、資料は残します、次の相談があれば範囲を確かめましょう、と送った。今回出した時間を無料にしてよかったとは書かなかった。百舎にも、出張と試作と説明のために払った金が残った。

その夜、岡野は家で、求人の仕事の説明を幾つか読んだ。技術でできることを増やす場所は、百舎だけではない。規模の大きい会社へ移れば、試したかった仕組みに近い仕事を持てるかもしれない。

一つには、担当する範囲が明確に書いてあった。仕事全体のどこで使われるかは、面談で確かめなければ分からない。前の会社で見えなかったことが、また見えなくなるとは決まっていない。移るのが裏切りになるとも思わなかった。

岡野は応募の文を作る前に、保存した試作を開いた。十二拠点でまだ人が写している欄がある。全国用のままでは大きすぎるが、そこへ使うなら何を外せるか、考え始めた。

岡野は夜の自宅で求人を読み、保存した試作を開いて、十二拠点で使う形を考える。
残る条件は、自分で出す。

小さな仕事なら残って満足しなければならない。そう言われるのは嫌だった。ここで何を作り、どこまでを自分が持つか。代表の方針へ礼を言う前に、自分の条件を出す必要があった。

翌朝、岡野は新しい表を一枚作った。技術の判断を持つ範囲と、現場へ出る日、外へ頼むこと。修司が来月からいないという空白を、全部自分の名前で塗る表にはしなかった。試作から十二拠点の保守に使える部分を抜き出し、その二つを会社へ持っていった。

「年明けも、ここでやります。全国へ行けなかったのは、まだ悔しいです。でも、今使っている人の困り事も確かめたい」

航が礼を言う前に、岡野は続けた。

「ただ、修司さんの分を僕一人で背負うなら、続けられません」

航は引継ぎの表を出した。誰が判断し、どこから先を外へ頼むか、修司がいるうちに決めようと答えた。岡野は来月の保守表へ、自分で名前を書いた。全国向けの試作は、日付を付けたまま残した。

翌朝、岡野が自分で決めた範囲と外へ頼む仕事の表を出し、年明けの保守へ名前を書く。
修司の空白を、全部自分で塗らない。

「その表で続けたいです。余った人を使う仕事じゃなくて、どの困り事を直すか、先に相談したい」

岡野は言った。航は頷き、最初に扱う問い合わせを二つだけ選んだ。全部直すと約束すれば、また、できる人へ全部が寄る。

小池と阿部にも、二つの確認を任せる日を入れた。岡野は自分の表と照合してから、分かりましたと答えた。昨日の失注を気にしなくなったのではない。悔しいままでも、自分が選んでできる仕事を決めた。

昼休み、岡野は試作の図を一度、航の机へ持ってきた。将来もう一度使うかもしれないので残したいと話した。航はもちろんと答え、今期の確定した売上の資料とは別の棚へ入れた。

岡野が試作の図を残したいと話し、航は確定売上の資料とは別の棚へ入れる。
隠すのでなく、残す。

その棚へ入ることと、失敗だったことにして隠されることは違った。岡野は図の保存先を自分でも確かめた。

航は理恵と翌年の資金表を開いた。黒崎へ払う利息は、全国を取れなかったからといってなくならない。十二拠点の保守と既に決まった小さな仕事で基本の費用を置き、足りない受注を具体的な月へ分けた。新規の見込みを、入金済みの欄へは移さなかった。

勝たなくてよかった、とは思わなかった。

帰宅すると、真帆が工房から預かった箱を食卓の端へ置いていた。新しい紙で補う前の、破れた帳面が入っている。

航が取れなかった仕事の話をすると、真帆は聞いたあと、今日は自分も一枚やり直したと言った。

「薄い紙を、表と裏で違うように見ちゃって」

誰の失敗のほうが大きいか、二人とも言わなかった。鍋を温め直し、食べた。明日の予定は、明日の朝にも残っていた。

全国の仕事を取れなかった夜、航と真帆が温め直した鍋を囲む。工房から預かった帳面の箱は食卓の端に閉じて置かれている。
相手の失敗を、自分の成功で埋めない夜。
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目次

TRUE · 鍵を置く場所

  1. 01第一章|まだ温かい鍵
  2. 02第二章|七分と、その先
  3. 03第三章|十一月の最後の日
  4. 04第四章|折り目のない紙
  5. 05第五章|誰かの残り時間
  6. 06第六章|パン屋の閉まる時刻
  7. 07第七章|港までの箱
  8. 08第八章|二本目のドライバー
  9. 09第九章|白く塗られた名前
  10. 10第十章|向かいの席の人
  11. 11第十一章|取れなかった春
  12. 12第十二章|空いたままの席
  13. 13第十三章|手の届かない昼
  14. 14第十四章|水曜の留守番
  15. 15第十五章|鍵を置く場所
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