第十一章取れなかった春
翌週、航と岡野は榎本の会社へ行った。榎本も現場を回る社員を呼び、四人で昼前から仕事の境目を確かめた。
客からの電話を誰が受けるか。機器の問題か画面の問題か分からないとき、誰が先に調べるか。予定を空けておく日に別の仕事を入れたら、誰が代わるか。
岡野はAIが整理した問い合わせ例を使った。四人がそれを読み、実際に聞かれたことと違うものを外す。人を減らすために見せられた仕組みが、違う会社の人と話す足場になった。
待機の時間を含む費用で、共同の提案を出せるところまで決めた。黒崎も、発注元との条件調整を続けた。不正や解雇の提案を断られても、良い受注があれば自社と投資先の利益になる。その関係は簡単に善悪へ分けられなかった。
最初の審査で、水原は窓口の図を指した。
「今度は、うちの人が二社へ電話するんですか」
百舎と榎本の会社へ、矢印が分かれていた。航たちの分担が明快でも、使う人が区別を決めるのでは意味がない。一つの窓口で受け、二社が内側で調べて分ける形へ直した。
出し直しても、費用は下がらなかった。待つ人の時間を無料に戻すことも、社員を削って帳尻を合わせることもしない。
黒崎は、君が全部の最終判断を受ければ、人を減らさなくても窓口の費用を下げられると言った。航の稼働表の空白に、全国からの相談が入る。
「いつでも答えられることを、先に約束するんですね」
「各地へ行けとは言っていない」
航には十月の金曜があった。携帯電話を見て返事をする時間はあった。その返事が何を承認したのか、誰も分からなかった。
黒崎の方法で取れる仕事はある。ここで断れば、社員にも欲しかった仕事を諦めてもらう。守るという言葉で、その悔しさまで取り上げることはできない。
航はその案を試しに表へ入れた。代表がすべての最終判断を受ける。各地の問い合わせの欄へ自分の名を書くと、価格は下がった。
小池と阿部を切らなくても、岡野の試作を全国へ出せる。そのために代表の夜を使うなら、自分が選んだことだと言える。真帆には忙しくなると伝え、しばらく一人で暮らしを回してもらう。
そこまで考えてから、航は十月の問題なしという返事を読んだ。自分が夜を差し出すだけで終わらなかった。返事を待つ二人と、旧版を持っていった現場がいた。自分が答えられなければ、全国の人の仕事まで止まる。
代表が働くから社員は守られる。その言い方では、代表へ聞くしかなくなる社員の時間が見えなかった。
航は夜間にも判断を受けるという文を消した。削除したあとも、下がる受注の確率は分かった。紙を直し、社員に、この条件で取れない場合がある、と話した。岡野は分かりますとだけ答え、やめましょうとは言わなかった。

最終提案の送付前、価格を下げる頁がまだ鞄にあった。今なら差し替えを頼める。航は確認時間を残した提案を開き、自分の名で提出した。
「この人数と、確認する時間を含めて出します」
黒崎は、ではその案で説明しろ、と言った。
最終の会議には岡野と、榎本の担当社員も出た。黒崎の会社から来た有村は、初め黒崎へ目を向けた。岡野が、前の現場ではどうしていましたかと聞くと、有村は夜の電話が翌朝の作業へどうつながるかを、自分の言葉で話した。
黒崎は一度口を開き、それから閉じた。
水原は別の提案を採る可能性が高いと伝えた。百舎の改善を認めないのではない。全国で同時に動かす範囲と、費用の条件が合わなかった。
「既存の十二拠点は、契約どおりお願いします」
航は、はい、と答えた。
仕事納めの三日前、全国の中心になる仕事は他社へ決まった。
岡野は試作の画面を閉じなかった。航は、残ってくれてありがとうと言いかけた。岡野は辞めるとも残るとも、まだ言っていない。
「悔しいです」
岡野が言った。
「うん」
「こうやれば作れる、まで考えたんです。作れない理由が、もう技術じゃないんですね」
岡野は画面の一か所を指した。拠点ごとに違う設定を、人が確認する前の形まで揃えられる。自分が最初に入社したときより、実際にできることが増えていた。
「これ、使ってるところを見たかったです。ここで終わりじゃなくて、現場で間違えて、また直すところまで」
「そうだな」
「働きやすいから、作れなくてもいいって思ったわけじゃないです」
航はその言葉を聞いた。無理な仕事を断った判断を、岡野が受け入れたからといって、彼が欲しかったものまで諦めたことにはならなかった。
「残る人を守ったから、良かったってまとめないでください」

岡野の声は低かった。怒っているのか、疲れたのか、航にはすぐに分からなかった。
「分かった。俺も、取れなくて良かったとは思ってない」
それを言っても、岡野の肩は緩まなかった。
航は、別の場所で必ず作れる、と約束しなかった。既存の保守で使える部分と、予算が付かず先へ送る部分を一緒に分けた。岡野はその場では頷かなかった。
夕方、試作の保存名に日付が付いた。次の相談の資料が開かれ、作りたかった図はその下へ隠れた。

小池が春の予定表の印を三つ消した。阿部は宿泊の予定を消す前に、終わった会議の記録へ変更を書いた。
榎本の会社でも、共同提案のために使った時間を締めた。担当社員が揃えた機器の例は、自社の次の点検にも使える。それでも、提案へ出るために別の日へ動かした仕事は戻ってこない。
榎本は航へ、資料は残します、次の相談があれば範囲を確かめましょう、と送った。今回出した時間を無料にしてよかったとは書かなかった。百舎にも、出張と試作と説明のために払った金が残った。
その夜、岡野は家で、求人の仕事の説明を幾つか読んだ。技術でできることを増やす場所は、百舎だけではない。規模の大きい会社へ移れば、試したかった仕組みに近い仕事を持てるかもしれない。
一つには、担当する範囲が明確に書いてあった。仕事全体のどこで使われるかは、面談で確かめなければ分からない。前の会社で見えなかったことが、また見えなくなるとは決まっていない。移るのが裏切りになるとも思わなかった。
岡野は応募の文を作る前に、保存した試作を開いた。十二拠点でまだ人が写している欄がある。全国用のままでは大きすぎるが、そこへ使うなら何を外せるか、考え始めた。

小さな仕事なら残って満足しなければならない。そう言われるのは嫌だった。ここで何を作り、どこまでを自分が持つか。代表の方針へ礼を言う前に、自分の条件を出す必要があった。
翌朝、岡野は新しい表を一枚作った。技術の判断を持つ範囲と、現場へ出る日、外へ頼むこと。修司が来月からいないという空白を、全部自分の名前で塗る表にはしなかった。試作から十二拠点の保守に使える部分を抜き出し、その二つを会社へ持っていった。
「年明けも、ここでやります。全国へ行けなかったのは、まだ悔しいです。でも、今使っている人の困り事も確かめたい」
航が礼を言う前に、岡野は続けた。
「ただ、修司さんの分を僕一人で背負うなら、続けられません」
航は引継ぎの表を出した。誰が判断し、どこから先を外へ頼むか、修司がいるうちに決めようと答えた。岡野は来月の保守表へ、自分で名前を書いた。全国向けの試作は、日付を付けたまま残した。

「その表で続けたいです。余った人を使う仕事じゃなくて、どの困り事を直すか、先に相談したい」
岡野は言った。航は頷き、最初に扱う問い合わせを二つだけ選んだ。全部直すと約束すれば、また、できる人へ全部が寄る。
小池と阿部にも、二つの確認を任せる日を入れた。岡野は自分の表と照合してから、分かりましたと答えた。昨日の失注を気にしなくなったのではない。悔しいままでも、自分が選んでできる仕事を決めた。
昼休み、岡野は試作の図を一度、航の机へ持ってきた。将来もう一度使うかもしれないので残したいと話した。航はもちろんと答え、今期の確定した売上の資料とは別の棚へ入れた。

その棚へ入ることと、失敗だったことにして隠されることは違った。岡野は図の保存先を自分でも確かめた。
航は理恵と翌年の資金表を開いた。黒崎へ払う利息は、全国を取れなかったからといってなくならない。十二拠点の保守と既に決まった小さな仕事で基本の費用を置き、足りない受注を具体的な月へ分けた。新規の見込みを、入金済みの欄へは移さなかった。
勝たなくてよかった、とは思わなかった。
帰宅すると、真帆が工房から預かった箱を食卓の端へ置いていた。新しい紙で補う前の、破れた帳面が入っている。
航が取れなかった仕事の話をすると、真帆は聞いたあと、今日は自分も一枚やり直したと言った。
「薄い紙を、表と裏で違うように見ちゃって」
誰の失敗のほうが大きいか、二人とも言わなかった。鍋を温め直し、食べた。明日の予定は、明日の朝にも残っていた。
