第七章港までの箱
十一月三十日、澪の机には箱が二つあった。
会社に残すものと、自分で持っていくもの。境目を確認するために、理恵が一緒に棚を見た。手順表の原本は百舎へ。私物の定規と、私費で買った色のついた紙は澪へ。会社から余りを買い取った試作用紙も、精算の記録が残っていた。
理恵が在庫を数えると、澪は足りませんかと聞いた。
「足りてる。声をかけられるたびに、どこまで数えたか忘れるだけ」
「あ、すみません」
「それも後で」
二人は笑った。

地図の木枠には、修司が休日に直した小さな蝶番が付いていた。材料代は澪が払い、手を貸した時間は友人としての祝いだと修司が言った。だからといって地図の一部が修司や会社のものにはならない。航は、その当たり前の区別を何度も確認したくなる自分を、少し情けなく思った。
十一月、小池は説明を録音して自分で聞き、阿部は設定を一から戻して確かめた。技術の相談は岡野と修司へ渡す。澪がまだ会社にいる間に、本人以外の答えが現場へ届く日を作った。
引継ぎは、全員の不安がなくなるまで続かなかった。澪にも、教えた人の説明をもう一度聞きたい気持ちはあった。それでも搬入の日は動かさない。
午前、小池が現場から電話した。澪が手を伸ばすより先に阿部が受け、岡野と確かめて答えた。
澪は箱のテープを引いた。斜めになり、端だけ折り返した。

航は隣室の戸口に立った。
「あの台、向こうで要る?」
地図も広げられると言って買った、大きな作業台だった。
「置く場所がなくて」
「そうか」
「ありがとうございます」
譲りたいものは相手にも必要なはずだと、まだ思っていた。航は台を撫で、会社で使うと答えた。
午後、皆で写真を撮った。岡野は問い合わせへの返事を終えて駆け込んだので、顔だけ端に入った。澪はそれを気に入り、撮り直さなくていいと言った。
航は挨拶で、春の食品卸へ納めた手順表の話をした。代金が戻らなくても、あれがよい仕事だったことは変わらない。
澪は箱の上へ手を置いた。
「あの会社の人、別の倉庫に決まったそうです。自分で書き直して使っていいか、連絡が来ました」
顧客の情報を含まない白紙の形式だけ、必要な許可を確かめて渡したという。百舎に次の売上が入る話ではなかった。それでも、あの仕事を使う人は残った。
「よかったな」
航が言うと、澪は頷いた。
引越しの車が来るまで、航は箱を階段の下へ運んだ。澪は一度、中身を分けると言って受け取った。自分で選んだ部屋へ、自分で送る荷物だった。

「船、揺れるんだって?」
「薬を買いました。まだ開けてないですけど」
「地図も酔うかな」
「そのための箱です」
彼女は箱の底をたたいた。
航は着いたら見せて、と言いかけた。澪は先に、展示が公開になったら案内を送ると言った。
「社長にだけ先に、は、できないので」
「うん。案内を待つ」
出資者に断るより、この短い返事が難しい日もあるのだと思った。
二階へ戻ると、机の下に海岸線を切った小さな紙片が落ちていた。航は拾い、記念に帳面へ挟もうとしてやめた。持ち物を一つ残させれば、帰ってくる理由になる気がしたからだった。
紙片をごみ箱へ入れた。

夕方、岡野は空いた台へ画面を二台並べた。翌月の検収に使う設定を、阿部と比べるためだった。澪のいない会社で、その日の仕事は予定どおり終わった。
*
島へ着いた日、澪は部屋の鍵を受け取り、運んできた箱を自分で開けた。百舎で会社に残すものを分けたときとは違う。今度は、持ってきた全部を置く場所から決める。
小さな机の上に紙を広げると、箱を床へ戻さなければ椅子を引けなかった。日が暮れてから、近くの店がもう閉まっていることを知った。大きな会社の台を断ったのは失敗だったのかと、一瞬思った。それでも、台が入っていたら、その部屋で寝る場所がなかった。

翌朝、資料館へ行くために窓を開けた。冬の風は、写真で見た海より冷たかった。住田へ連絡すると、今日は棚の位置を一緒に決める日だと言われた。最初から作品だけを作る一日ではなかった。
澪は自分の図面を持っていった。棚をずらすと、通路が狭くなる。来館者が手を置く高さを考える前に、そこへ近づけるかを確かめる必要があった。

昼、弁当を買う店を教わった。百舎の皆へ、無事に着きました、とだけ送った。部屋の不便を言えば戻ってきたほうがよいと言われるだろうか、と考えてから、そもそも誰もそう言うとは決まっていないと思い直した。
航は、よかった、案内を待っています、と返した。机を買おうかとも、もう仕事はできそうかとも書かなかった。分からないことを全部こちらへ戻さない生活が、彼女の選んだ先だった。
会社では翌日、小池の説明が一か所止まった。岡野へ聞いてから返す時刻を客に伝え、電話を切った。澪へ聞けば早いかもしれないと、航は名前を開きかけた。
新しい部屋で箱を開けている人へ、昔と同じ仕事を一本だけ頼む。その一本から先を、誰が決めるのか。
航は連絡先を閉じた。岡野の調べる時間を勤務へ残した。空いた台を使う会社の一日は、少し遅く、決めた範囲で続いた。