第二章七分と、その先
五月の調査では、三拠点で同じ名前の欄が、同じ意味で使われていないと分かった。
「出発時刻」は、最初の倉庫では積込みを終える予定、次の倉庫では車が門を出た実際の時刻だった。資料だけでそろえていたら、荷物がまだ動いていないのに次の拠点へ着く予定が立っていた。修司は二つの欄を分け、澪は違いを手順表へ書いた。
調査が済んだ分を発注元と確認し、百舎はその工程の代金を請求した。春に出さなかった紙が、今度は日付を変えずに出せた。借入金の一部は既に給与と外注費に使われ、元の三百万円が口座に残っているわけではなかった。
六月、試作の確認で倉庫へ行くと、修司の右足だけが遅れて歩いた。
借りた長靴が左右で違った。澪が見ないふりをするので、修司はわざと大股にした。川沿いのこの拠点で配送事務の主任を務める西尾が笑い、倉庫主任の吉沢を呼びに行った。
「片方、前からないんですよ。大きいのは、そのうち慣れます」
「小さいほうは?」
「我慢です」
修司は足を止めた。西尾は冗談だと言って、別の棚から履き替えを出した。
彼女の配送表には赤い書込みがあり、出荷を終えた行は上から裏へ折り込んであった。終わっていない荷物だけが見える。航は、新しい画面にすれば紙はいらないと説明するつもりで来ていた。
澪が椅子を寄せ、折り方を教わった。

「新人さんは下から折って、これからの分を隠しちゃうんです」
下から折った紙には、終わった仕事だけが並んだ。航は四月の報告書を思い出した。終わったことにすれば、次にしなければならないことが見えなくなる。
修司は紙を開き、端へ濡れた指の跡を付けた。表を机に平らに戻してから、画面にも残りが見える印を付けようと言った。
七月、技術担当として岡野蓮が入社した。二十九歳で、前の会社では自分の作った一部分が誰に使われるのか見えなかったという。百舎では、修司と共通の処理を整え、AIも使って定型の照合や問い合わせの下書きを減らす役を持った。
AIの出した答えがそのまま客へ届くわけではない。岡野は元の記録へ戻れる形にし、理恵が確かめた訂正も次の作業へ残した。十枚を写し直していた時間が、一枚につき七分減った。
「七分じゃコーヒーも飲みに行けませんね」
「十枚ある」
理恵が言うと、岡野は、行けますね、と顔を上げた。
「私は靴を買いに行きます。息子の。足だけ育つの、早すぎるんですよ」
航はその夕方、理恵の机の灯りが消えるのを見た。空いた七十分は、新しい書類を七十分早く渡すための隙間ではなかった。

木曜の六時半、澪が隣の空き机に、私物のカッターマットを敷いた。今日の業務を終えて退勤を記録し、机を一時間借りてよいか航に確認してからだった。紙も接着剤も自分で買い、休日に家で作ってきた立体地図の続きだった。
「会社のじゃなくて、私の島です」
澪は小さな箱から紙を重ねた海岸線を出した。航が仕事の試作か聞いたので、念のため、と付け加えた。
指で道をたどると、文字の盛り上がりにぶつからず海へ出られる。目で眺める地図とは、道の幅が違った。
真帆が私的に紹介した学芸員の住田へ、夏に見せる約束があるという。住田は、真帆が航海日誌の修復を請けた島の資料館に勤めていた。妻が会社の営業をしたのではなく、地図の話を聞いて、興味を持ちそうな知人につないだのだった。
「いずれ、向こうで展示を作りたいんです」
澪は海に当たる紙を持ち上げた。下には、まだ何もなかった。
航は、そんな仕事を百舎にも作れたらと思った。あらゆる人が自分の好きなことを続けられる会社。そのための場所を増やせば、誰も出ていかなくて済む。
「机、広いほうがいいな」
「今日はこれで足ります。切り屑、ちゃんと集めますね」
彼女は仕事場を片付け、約束の時刻に帰った。航は空いた机を見て、いつか、という言葉を飲み込んだ。
八月、三拠点は試用を終え、通常の出荷を新しい仕組みへ切り替えた。行き先と箱の数を従来の結果と照合し、途中の変更も届くと確かめてから、発注元が検収した。
西尾から電話が来たのは六時過ぎだった。
「駅前のパン屋、間に合ったんです」
「買えましたか」
「二つ。夕飯の前に食べちゃった」
航はその話を皆へ伝えた。澪は両手を合わせ、岡野は次に減らしたい作業を話した。借金を返したわけでも、春の代金が戻ったわけでもないのに、航は久しぶりに椅子の背へ体を預けられた。
稼働時の代金で、待ってもらった支払いを進めた。理恵は借入の元金を別の欄へ置き、利息の支払日を翌月にも写した。消えない欄があっても、来月の給与は払える。
黒崎は追加九拠点への拡大を持ってきた。最初の三つと合わせて十二。現場ごとの違いを調べ、年内に順に導入する。仕事の代金と、その後の保守料が増える。
修司は現場を見たがり、岡野は十二回同じ修正をしない仕組みを作りたがった。澪は説明を人に教えてみたいと言った。航は、あのパン屋の電話をもっと聞きたかった。
理恵は、人を採った日から給料が出ていくことと、教える時間を見積りに入れさせた。新しい二人はすぐ二人分の仕事をしない。航は隣室まで借りたがった。皆で大きな机を囲めると話すと、理恵は、家賃は囲まなくても出ます、と言った。

作業と採用費を入れ直し、発注元と範囲を確かめて受注した。隣室は借りた。そこだけは航が譲らなかった。入口の鍵が一つ増えた。
九月、小池が説明と現地導入、阿部が画面の設定と動作確認を担当する社員として加わり、百舎は七人になった。小池は澪の説明を録音し、阿部は修司と確認の順番を紙へ起こした。岡野の作った下書きが二人の練習を助けたが、相手が黙ったときに先へ進めてよいかは、まだ分からなかった。

同じ月、真帆は別の町へ修復を学びに通うと話した。月に二度、講習があり、近くの工房の机も借りられるという。
航は、百舎にも展示の部門を、と言いかけた。
真帆が案内を裏返した。
「会社の相談をしてるんじゃないよ」
航は謝った。彼女は案内を表へ戻し、受講日に丸を付けた。その丸の外にも、彼女の時間はあるのだった。
