第十三章手の届かない昼
一月、全国展開を取れなかった百舎へ、榎本から別の相談が来た。
全国の新しい仕組みへ切り替わるまで、従来の機器と配送表を使い続ける地域がある。その間の問い合わせと現地確認を、一緒に受けないかという。榎本の会社は機器、百舎は画面と帳票を担当する。全国の中心の仕事を取り返す話ではなかった。
二つの地域で二月に試行を始め、六月までの期間を定めて受け持つ。待機する時間も、説明へ行く時間も見積りに入った。
「安くはありませんね」
水原に言われ、榎本は、安くないです、と答えた。
航は何か無料の仕事を足したくなった。紙にない時間を差し出せば、それを誰がするかは後で決めることになる。自分が夜にやればよい、と言いかけた口を閉じた。
連絡先は一つにまとめる。客に機器か画面かを判断させず、二社が調べて分ける。十二月に敗れた提案の、その部分が今度の契約に残った。
導入代金の残りが入り、二地域の契約も決まった。理恵は十二拠点の継続保守とほかの既存客の仕事を並べ、給与、家賃、黒崎への利息を置いた。翌四月から始まる最初の三百万円の元金返済を加えても、日々の入出金は回る。追加の二百万円の元金返済が始まる秋へ向けて、受注を継続する必要はあった。
「全国の仕事が取れたことにしなくても、ここまでは払えます」
理恵は六月までの表を開いたまま言った。
航は折り畳んでいた七月以降も広げた。知らない月は、消しておく月ではない。
隣室は契約の区切りで返すと大家に伝え、大きな台を工具屋へ売った。買値よりずっと安かった。運び出す日の午前は仕事ができず、片付ける費用もかかった。会社を広げたときの判断を、社員の給料から回収することはしなかった。
二月の金曜、航は休みを取り、真帆の講習先の工房へ行った。彼女が修復に加わった帳面を関係者へ見せる日だった。
妻は秋から、その町にも作業机を借りていた。学ぶ日の前後はそこに残り、修復を進める。航が変わったら元の生活へ戻る、という仮住まいではなかった。
机の代金と、往復の電車賃は、真帆が自分の仕事の帳面へ書いていた。最初の仕事だけで全部が戻るわけではない。使える時間を少しずつ増やすための支出だった。

「終わったら、港の人と次の預かり方も決めるの。お昼はそのあとでいい?」
航は頷いた。休日だから二人の予定が同じになるわけではない。ここへ来る日を決めたとき、真帆は作業の時刻を一つも動かさなかった。航が来られなくなっても、今日の公開は行われる。
工房の机は家の食卓より小さく、紙を押さえる重しが幾つもあった。隣の人が、真帆さん、そっちの刷毛、と言った。真帆は話をしながら迷わず渡した。
航には、どの刷毛か分からなかった。その当たり前が、思ったより寂しい。
真帆が見せた頁には、新しい紙と古い紙の境目があった。横から光を当てると、薄い補修が浮いた。

「前は、どのくらい破れてたの」
真帆は修復前の写真を出した。文字の途中で、紙そのものがなかった。
「ここに書いてあったことは、分からないままなんだ」
「うん。読める形にはするけど、なかった言葉は足せないから」
携帯電話が震えた。会社で二地域の窓口を説明していた小池からだった。
約束の説明を一か所間違えました。岡野さんと確認しています。先方にも、訂正することを伝えました。
航は外へ出ると言いかけた。その下に続きがあった。
午前中に直して説明します。まず共有します。
何を言い間違えたのか知りたかった。電車に乗る前に最後の説明を聞けば防げたのではないか。今から口を出せば、まだ間に合うのではないか。
真帆は別の頁へ移り、工房の人と糊の薄さを話していた。
今なら、午後だけ帰ると言える。真帆は困るより先に、分かったと言うだろう。春に一人で船へ乗ったのと同じように、今日も、自分の話をする相手を自分で見つける。
航はそれを、妻が仕事を理解してくれている証拠にしたくなった。小池へ指示を送る文章を開き、閉じた。彼女たちは誤りを隠さず、訂正の時刻も決めている。自分がもう一度全部を決めるための緊急事態ではなかった。
航は携帯電話を鞄へ入れた。
そのころ百舎では、小池が岡野と電話の前に座っていた。小池の説明は、夜も通常の窓口へ問い合わせられるように聞こえていた。実際の受付は夕方までで、出荷が止まるなど急ぐ場合は、先方と榎本が確かめた別の連絡先へ回す。通常の質問と緊急時の連絡を、同じこととして話してしまった。
「私の説明が間違っていました」
小池が言うと、先方は二月の試行中だけでも夜に受けてほしいと答えた。説明会を聞いて帰った人もいる。
「昨日、夜の係へ伝えましたよ。昼の出荷が終わってから、まとめて入力を試すつもりで」
その人は、毎日遅くまで残ることを決めたのではなかった。説明に合わせ、初日の確認を夕方からへ移したのだという。日中に確認するなら、出荷を受け持つ人と時間を分け直さなければならない。
小池は手元の紙に、初日の時刻、と書いた。予定を変えてくださいと言うだけなら簡単だった。その予定を組んだ理由を、自分が渡していた。
小池が迷う間に、阿部が勤務表を見て言った。
「今の人数と契約では、受けられません。説明を直す連絡は、こちらからします」
相手は、それなら最初からそう説明してほしかったと言った。
小池は、はい、と答えた。謝れば先へ進める声ではなく、相手が続きを言い終えるまで待った。

「説明し直すだけでは、そちらの初日の準備が戻りません。昼の確認を分けるなら、こちらから担当を出せる時間を、今お伝えします」
百舎の説明のせいで増えた確認は、契約の通常作業へ混ぜずに数えた。阿部が別の設定確認を翌日へ移し、岡野が使える画面を先に渡す。小池は二度目の説明を、自分で引き受けた。
相手は電話の向こうで、夜の係にもう一度話さないと、と言った。次の電話では小池も説明することにした。先方が小池の誤りまで自分の判断として謝ることにはしなかった。

午後の予定を一つ動かし、榎本の担当者と説明会の出席者へ訂正版が届いたか確かめた。百舎の説明の誤りを直す費用は百舎が負担する。だから今後の夜間対応まで無償で引き受ける、とはしなかった。
航が続きを読んだのは、昼食のあとだった。小池はうまくできましたとは書かなかった。相手に同じ説明をさせたこと、予定の時刻を過ぎたこと、阿部が先に断ってくれたこと。そのあと、自分からもう一度謝ったこと。
航は、判断は正しかった、と打ちかけた。全部を見ていない。
何が難しかったか、月曜に聞かせてください。
それだけ送った。
目の前の真帆が、デザートも食べる、と言った。航にも頼むか尋ねた。メニューには三つあった。航はどれも読んだ。

「この、温かいのに冷たいのが載ってるやつ」
「ちゃんと名前あるよ」
二人で笑った。
帰りの電車で、航は工房の写真を見直した。真帆の机の灯りは、百舎の窓から漏れるものではなかった。それを知るのに、あんなに会社を大きくしようとしていた。