第八章二本目のドライバー
澪が出発した翌週、修司が年末で百舎を離れると話した。
年明けから職業訓練所で実習を教え、残りの日は近くの工場の保守をする。以前から月に一度、休日に訓練所を手伝っていた。教えるのは難しいが、自分で直せるようになる人を見るのが好きだという。
航は、またか、と思った。
「今でなければ駄目なのか」
「前から考えてた」
「俺は聞いてない」
「手伝ってるって話した。難しいとも言った。お前、いいじゃないかって言った」
言ったことを覚えていた。続きを選ぶ人の話として、聞いていなかった。
修司は、年内の導入を終え、約束した範囲を引き継ぐ。翌年度の研修は受けると返事をしていない。航は、十二拠点をやろうと言ったのはお前もだ、と答えた。
「そうだよ。面白かった。今も面白い」
修司は言ってから、湯呑みの底を見た。
「それと、ずっとやることは同じじゃないだろ」
航は椅子から立ち、行く先がないので窓を見た。印刷所の荷物がトラックへ積まれていた。何かを運び出す音ばかり大きく聞こえた。
黒崎から借りた五百万円には、人を育てる時間も入っている。澪のためにも、修司を駅のベンチへ戻さないためにも、引き受けたつもりだった。その人たちがいなくなれば、何を守った金なのか。
「借りた分、俺に何か残ってるか」
修司が聞いた。
航は振り向いた。
「ない。会社が返す金だ」
「そうだよな」
修司はそれ以上言わなかった。会社の借金を誰も個人の滞在料として約束していない。その線を自分で確かめなければ、航は後から貸しに変えてしまいそうだった。
前の会社を辞めた冬の話をしようとした。あのベンチに眠る修司なら、今の航を必要としてくれる。
机の前の修司は、新人へ渡す工具を選んでいた。持ち手に小池の名前を書いた二本目のドライバーがあった。
「俺はお前を」
そこで言葉が止まった。
「ずっと、一緒にやると思ってた」
修司は目を落とした。
「俺も、最初はそう思ってた」
四年がなかったことになるわけではない。だから余計に、違う先を選ぶ理由を仕事の嫌さだけにしてほしくなかった。
小池が工具を取りに来た。書いた名前が手で擦れるので、修司が透明なテープを上から巻いた。小池が戻るまでの短い間、二人は普通に笑った。

航は腹が立った。自分との話で、もっと傷ついていてほしかった。
修司は、俺も簡単には決めてないからな、と言った。航が何を考えているか、長い付き合いの人には分かるのだった。
修司は来年の仕事の日程を開いた。訓練所の日と工場へ行く日が、別の色で書いてあった。月ごとに受け取る金も、百舎で一つ受け取っていた給与とは違う。

「工場のほうも、全部、好きな仕事だけじゃない。朝が早い日もあるし、呼ばれたら調べに行く。教えるだけなら、収入は足りないから」
「ここなら、そのまま払える」
航が言った。
「分かってる。だから迷った」
修司は紙を閉じなかった。
「夏に訓練所で、俺が言う前に自分で原因を見つけた人がいた。できたあと、もう一回やりますって。俺は、そのあとも見たかった」
百舎でも小池や阿部へ教えている。航はそれを言おうとした。修司は、自分にしかできない仕事を減らすのはここでも面白い、と先に言った。
「でも、別の場所でやってみたいと思ったら、こっちが嫌いだったことにしないと駄目なのか」
航は首を振った。頭では、そうでないことを知っていた。机を並べた四年の意味を、退職する人にもう一度保証してほしかっただけだった。
「寂しいんだと思う。俺は」
修司は、俺もだよ、と答えた。だから残る、とは続けなかった。
航は引継ぎの日付を確認し、修司が年末で終える欄へ名を書いた。全部を一人に渡して残る岡野を追い込まない。その費用と仕事量を、会社が調べ直す。

書いたあとにも、もっと早く言えよという言葉は出そうになった。そう言えば、相手が望んだ次の暮らしを、連絡の不手際の話へ変えられる。航は紙を渡すとき、年末までの範囲を一緒に決めよう、とだけ言った。
その夜、修司は訓練所へ、年明けから入る日を確かめる連絡をした。担当者は必要な教材の一覧を返した。百舎に辞めると言えば、新しい生活が自然に始まるわけではない。
机で実習の順を考え、最初の作業を少し簡単にした。簡単にすれば一人で終えられるかと思い、やはり、その途中で尋ねてくる人もいると書き直した。
昼間の航の顔を思い出すと、胸が痛んだ。言い方を変えれば、あんな顔をさせずに済んだかもしれない。けれど、痛ませないために続けると答えれば、来年の手帳も、自分が選ばない仕事で埋まる。
修司は必要な教材を一つ注文した。会社の金ではなく、自分が次にする仕事のための金だった。届く日を、自宅の予定へ入れた。

その週、説明の練習に航も加わった。小池が利用者役になり、阿部が設定の確認で迷うところを示す。航は相手が読み終える前に、次の画面を開いた。
修司が、まだ読んでる、と言った。
「社長も待てないんですね」
小池が言うと、航は待てるよと答えた。修司が咳をした。
「今は、待てなかった」
小池は笑い、元の頁へ戻った。

今週の練習は勤務時間の中にあった。その分、新しい提案を出す日を延ばした。教えることは、別れを惜しむ人が夜に足す好意ではなく、百舎が代金を払い、時間を確保する仕事だった。
年末まで何度も、航は口を挟みかけた。小池が指を一本立て、少し待ってくださいと言うようになった。待ったあとに返ってくる質問は、前より細かくなった。
航の作りたかった場所から、人が出ていく。
その戸を小さくするより先に、自分がどこに立っているのかを考える日が続いた。
百舎では、有償で技術相談を頼める相手を探し始めた。修司がいるうちに聞いておけば終わるものと、退職後にも起こる例外を分ける。航は最初、後のほうを少なく見積もった。修司が、ここは俺も初めて見るだろうな、と二つ足した。
会社の支出が増えた。航は修司を説得するためでなく、顧客へ返せる仕事を作るためにその表を直した。残ってほしい気持ちが消えるまで待っていたら、引継ぎの日が足りなくなる。
