第三章十一月の最後の日
九月の終わり、澪は隣室の作業台で、十一月末で辞めたいと言った。
住田から話があり、十二月から島の資料館で展示の制作と更新を担当する。二年の契約で、給料は少し下がる。冬の海の音を録り、春に最初の展示を開きたい。部屋も決まりかけていた。
航は手帳を開いた。十一月には白い日が多かった。その白さが、急に嘘のように見えた。
「ここで、やれないか」
会社の仕事として展示を作れば給料を下げずに済むし、広い台もある。話すほど、澪のいなくなる理由を消しているつもりになった。
澪は台へ両手を置いた。
「私は、向こうで暮らして、来た人を見て直したいんです」
「給料、下がるんだろう。部屋も、もう決めるのか」
「行ける金額のところを探しました。今と同じものを、全部持っていくわけじゃないです」
澪は部屋の間取りを見せた。大きな台は置けないが、海の音を録りに行くとき、仕事を終えてから港へ出られる。百舎へ通うために選んだ家の中で同じ展示を作ることとは、違った。
島の給料で家賃と光熱費を払い、船の費用を残す。見学したい展示へ毎月行くのは難しくなる。それでも、その場所に来る人を自分で見て、何が分からないかを聞きたかった。

「ここで待遇を良くしても、行きたいのか」
航が聞くと、澪は少し迷ってから頷いた。
「よくしてもらったことは、嬉しいです。でも、嬉しかったら同じところで続けなきゃいけないって、思いたくないです」
会社の新事業にしたい、とは一度も言っていなかった。
航は頷き、辞める日までの仕事を調べようと答えた。納得した声を出せたことに、少し疲れた。

翌日、黒崎が資金の見通しを聞きに来た。航が退職の話をすると、展示の写真を見たいと言った。澪の許可を得て以前見せてもらった写真を一枚だけ開いた。
「これは売れる。知り合いに展示を請ける会社がある」
黒崎は画面を寄せた。
「百舎で商品にして、本人を責任者にすればいい。会社の机も使わせたんだろう」
「退勤後です。材料も本人が買っています」
「だから無償で取り上げろとは言わん。先に話をつけて、仕事にしてやる。もう受注したとなれば、途中で辞めるとは言いにくい」
辞めなくてよいではなく、辞めると言いにくい。
航は机の向こうを見た。澪は阿部へ設定の確かめ方を教えていた。澪が出ていかなければ、引継ぎ費用も、航が眠る前に数える不足も減る。
「写真を、その会社には送らないでください」
「相談まで止めるのか」
「本人がいないところで、うちの仕事にはしません」
黒崎は画面から手を引いた。

「君の株の価値を上げる話でもあるんだがな」
それは分かっていた。百舎の将来のためにと考えれば、相手の夢を会社へ置くことにも立派な名前を付けられる。
黒崎が帰ってから、航は写真をもう一度開いた。転送すれば、新しい客と話せる。展示の部門を作り、百舎の看板の下で澪が制作を続ける。自分が望んだ会社の形だった。
先方の連絡先は知らなかった。黒崎へ、紹介だけお願いします、と返せばよい。受注までしなければ囲い込みではない、とも言える。
送る文を作り、添付の写真を選んだ。澪の手が端に写っていた。写真を見せてもらった日の彼女は、自分の島ですと言った。その手の先へ、まだ話してもいない会社の都合をつなぐところだった。
航は添付を外した。空になった送付欄を見てから、紹介を頼む文も消した。

代わりに、十一月末までに誰が何を引き継ぐか、会社の表を開いた。彼女を残すための新しい仕事を取らないと決めた分、目の前の費用を自分で払う必要があった。
その夜、航は澪に話をした。黒崎の提案を、自分が魅力的に思ったことも伝えた。澪は初め、手元の定規だけ見ていた。
「会社へ渡したものだと思われていたんですか」
「俺は、ここでも作れると思ってた」
「ここで作れても、ここに置いていくとは限りません」
航は頷いた。地図を独占する契約も、退職後の無償作業も求めない。もし別の仕事として頼む日が来たら、その時に条件を出し、彼女が選べるようにする。口頭だけで曖昧にならないよう、理恵と退職の確認に残した。
それで引継ぎが楽になったわけではなかった。
翌週の表には、担当交代後の質疑対応、と航が書いた欄があった。岡野が指を置いた。
「最後、いつまでですか」
「先方が安心するまで」
「それだと、こっちも引き受けられません」
修司は自分の名前を書かなかった。
「俺も、全部は取れない」
澪は十一月三十日、ともう一度言った。十二月の初めには、向こうで展示物を運び入れる。
「資料館の人には、事情を」
航は途中で口を閉じた。事情という言葉へ、澪の搬入は入れていなかった。
理恵が表を持ち上げた。
「日付を決めてください。そのあと、足りない仕事の費用を出します」
航は十一月三十日と書いた。少し大きな字になった。

その日より後の欄から、澪の名前を外した。十二月の最初の現地説明は小池が持ち、岡野が回答を調べる。二人で足りない部分は航と修司が分け、引継ぎ中に新しい案件を詰め込まない。受けられない仕事が一つ残った。
航はその客へ、自分から電話した。十二月の初めに説明できると約束することはできない。先方は、別の会社にも聞きます、と答えた。澪の出発を認めたことを説明しても、客の必要な日が動くわけではなかった。
電話を切ると、航は受注候補の印を外した。彼女を一週間残せば取れるかもしれない。その考えはまだ出た。
向かいで澪が搬入の日を確認していた。資料館の住田はその日に車と二人を用意する。航が一週間と言えば、彼女だけでなく、その人たちの予定も変える。
航は表の日付を変えなかった。代わりに、社内の引継ぎへ払う時間を増やす決裁をした。誰も損をしない決定ではなかった。会社の売上が少なくなる分を、島へ行く彼女の負債として持たせないことを決めた。

澪が席を外すと、航は修司を呼び止めた。
「俺だけ分かってないみたいだったな」
修司は濃い青の湯呑みを洗っていた。水を止めてから振り向いた。
「澪の前で、お前を助ける話にしたくなかった」
航は言い返せなかった。立派な答えだったからではない。自分は、助けてほしかったのだ。
夕方、澪が「環」の手順表を実績として見せるため、航の確認を求めてきた。顧客の許可した範囲へ収まっているかを確かめる。採用を決めてもらうためではなく、島で一緒に働く人に、自分のできることを伝える資料だった。
明日にしようと思った。急がないと判断した根拠は、何もなかった。
航は読んで名前を書き、彼女の机へ持っていった。
隣室の大きな台には、十一月までの予定が広がっていた。地図のために買ったと、自分では思っていた台だった。澪が欲しいと言ったことはなかった。
その夜、澪は家で、引っ越しに持っていくものを床へ並べた。船で運ぶ費用を減らすため、重い棚は売ることにした。残した紙と道具で、どこまで作れるかを確かめた。

航が給料を下げずにできると言ったことを思い出すと、惜しくなるものもあった。好きな展示へ出かけ、材料を一度に買える暮らしを捨てる。島へ行けば毎日美しいものができるわけでもない。来館者がいない日も、作り直す日もある。
それでも、翌朝、澪は住田へ部屋の手続きを進めると返事をした。百舎を出るという決定は、航が許したから正しくなるものではなかった。自分が選び、そのあとを暮らしていく決定だった。
会社では、小池が澪の説明を初めて最後まで自分で行った。澪は途中で口を挟まず、終わってから、ここは相手が迷っていたね、と一か所だけ戻った。航はその二人を見ていた。去る人の仕事が残ることと、去る人が残ることを、少しずつ分けて考えた。
