鍵を置く場所01 / 15

第一章まだ温かい鍵

鍵には、前の借り主が貼った赤いテープが巻かれていた。

相良航はそれを剝がさなかった。机を運び、電話をつなぎ、まだ空の棚をどちらの壁へ寄せるか決めているうちに、夕方になった。印刷所の二階を借りたのに、自分たちの名刺だけが間に合っていなかった。

百舎は印刷の会社ではない。客の会社へ行き、注文を入れる画面や、荷物を確認する表や、それを使う手順を作る。代表の航が受注と顧客との調整を担当し、倉田修司が仕組みを組んで現場へ入れる。二人は同じ会社を辞めて、ここへ来た。

修司は百円の湯呑みを三つ買ってきた。青の濃さが少しずつ違った。

「好きなのを取れ」

いちばん濃いものは、既に修司の前にあった。

「選ばせる気、ないだろ」

「残り二つは難しいぞ」

航は薄い青を取った。領収書を立替金の封筒へ入れようとすると、祝いだから、と止められた。三百円と少しのために争うのも妙で、古い帳面へ挟んだ。

最後の冬、修司は駅のベンチで眠ったまま、終電を逃しかけた。航が肩をたたいても、目を開けるだけだった。起きたくなかったのではなく、起き上がれなかったのだと、あとで聞いた。

独立前の冬、駅のベンチで起き上がれない修司の肩へ、航が手を置く。
ここなら、帰ったあとにも何かできる。

ここなら帰れる。帰ったあとにも、何かできる。

航はそんな会社を作りたかった。世の中から逃げ込む場所を一つ作って、戸を閉めてしまえば、そこだけは守れるように思っていた。

最初の客を紹介した黒崎征一は、物流の営業や導入支援をする会社の社長だった。独立前から二人の仕事を知っていて、創業に二百万円を出した。借用書ではなく、百舎の株式の二割を受け取る出資だった。残りの八割は航が持ち、修司は創業社員として給料を受け取る。修司が航と同じだけ会社へ賭けなければならない理由はない。そのことを決めた日のほうが、看板を注文した日より緊張した。

黒崎は花の代わりに延長コードを置いた。書類の最後の頁を開き、航へ渡した。

株を新しく発行するときと会社を売るときだけは、航と黒崎の合意が要る。日々の受注や採用は航が決める。

いつか航が黒崎の二割を買い取る場合も、条件は先に決めてあった。出資した二百万円に利益に応じた額を加え、総額は四百万円まで。その条件で申し出たとき、黒崎が手放すのを拒めないという条項もあった。

「出口がない投資は、される側も困るだろう」

黒崎が言った。

航はそのとき、出口より入口のことばかり考えていた。黒崎が紹介した倉庫の仕事を受ければ、最初の家賃を払える。何度も頭を下げた。

「おめでとう。君はこれで、平凡な努力で平凡な幸せを手に入れる権利を失った」

黒崎は冗談めかして続けた。

「最後に引き受けるのは君だ。社員に同じ重さを持たせちゃいかん」

その夜、航の妻の真帆が、自分が仕事をする本の修復工房から来た。百舎の社員でも役員でもない。引越し祝いの焼きそばを持ってきただけなのに、三つ目の湯呑みを渡すと、これを私の席にしないでね、と笑った。

茶葉がなかったので、水を飲んだ。真帆の指には糊がついていた。航が取ろうとすると、あとで洗うから、と手を引いた。

創業したばかりの百舎で、航、修司、真帆の三人が中古の机を囲み、濃さの違う青い湯呑みを手にしている。机の端には小さな領収書がある。
中古の机と、三つの青い湯呑み。百舎が始まった夜。

三人で道路の向かい側から二階を見た。窓は小さかった。けれど中から漏れる灯りだけは、どこまでも広げられる気がした。

戻って戸を閉めた航の手に、鍵はまだ温かかった。

四年目の四月、食品卸へ納めた仕事の代金が入らなくなった。

三十六歳になった航は、建物の前で電話を受けた。納品に問題があったのではない。検収は済んでいた。しかし食品卸は事業を止め、来月の支払いができない。いつ、いくらなら払えるかも答えられないという。

階下の印刷機が紙を送る音を聞きながら、航は階段を上がれなくなった。先に払った人件費と外注費が、数字になって戻ってくるはずだった。その数字で、次の月も同じ顔が机に座ると思っていた。

二階では合鍵を持つ修司が、もう仕事を始めていた。三十八歳の実装責任者は電話の内容を聞くと、まず今日の支払いを確認しようと言った。

高瀬理恵は四十四歳で、百舎の経理と運営を担当する社員だった。入金予定から食品卸の代金を外し、来週の給料は払える、と言った。

未入金の連絡を受けた百舎の事務所で、理恵と航が机の入出金予定表を見比べる。入金の一行が空き、その下には給与や家賃の支払予定が残る。
入るはずの代金がなくなっても、支払日は残る。

「その次は、このままでは足りません」

表の下半分を折って、直近の支払日だけを見せた。隠れた先にも、払うものはある。

画面と手順を設計する二十六歳の社員、成瀬澪が、自分の賞与をなくしていいと言った。昨日まで、手袋のまま押さえても文字が隠れない手順表を、現場の人に褒められたと喜んでいた。

「それを最初の案にしない」

修司は澪へ言った。航も頷いたが、代わりの案はなかった。

翌日、黒崎が別の発注元の資料を持ってきた。「環」という仕事だった。荷物を受けて次の便へ渡す三つの配送拠点で、同じ行き先や箱の数を何度も入力している。百舎は共通の画面と配送表を作り、現場で使えることを確認する。黒崎の会社は紹介と条件調整をする。要件を決め、検収し、代金を払うのは発注元だった。

正規の着手金は出る。しかしそれだけでは、稼働までの給与と家賃に足りない。

黒崎は、現地調査の工程を指した。

「ここも先に請求すれば、借りずに回る」

「まだ、三か所とも見ていません」

「前の仕組みの資料はある。調査完了で出して、請求書が回っている間に確かめればいい」

紙の上では、一つの丸を付けるだけだった。調査工程分の入金が加われば、理恵の表の不足は消える。借入という文字を社員に見せずに済む。

航は報告書を持った。

「これを見て、先方は次へ進みますよね」

「進めるための報告だ」

「違う作業が見つかったら」

「そこを合わせるのが、君たちの仕事だろう」

航は紙を置いた。断れば、相手に誤りがあることを指摘するようになる。世話になった出資者へ、その言い方をするのが怖かった。

それより先に、まだ会ったことのない現場の人が、この丸を信じて古い仕事をやめるところを思った。

航はペンを取り、調査工程の欄へ先を近づけた。押印する前に誰かが読めば、ここはまだですと言える。けれど、自分の名が下にある紙を受け取る人には、その声は聞こえない。

「見込みで出すとは、書けませんか」

「見込みなら、この工程の金は出ない」

黒崎は答えた。航の考えた別の呼び方では、金の来る日も、報告の意味も変わらなかった。

航は先ほど持っていた資金表を開いた。完了で出せば借金の欄がない。社員に、払えますと伝えられる。修司とまた一つ危機を越えたと言って帰れる。

終わっていないと告げれば、借りる。何か月か後にも利息が残り、その先には元金の返済も始まる。食品卸の代金が入らないのは自分の不正ではない。それでも、その不足を引き受ける名前を書くのは自分だった。

「今回だけなら」と、喉の奥まで出た。現場の確認を急ぎ、入金までに追いつけばよい。黒崎は、その一言を先に言ってくれそうな顔で待っていた。

航は未確認の拠点名を読み直した。どの車が夜に戻るか、返品を誰が受け取るか。まだ会ってもいない人に、もう聞いたという紙を渡す。自分がその人なら、給与のためだったと後で聞かされて、分かりましたとは言えない。

ペンを置き、完了報告を黒崎のほうへ返した。借入の話が断られたら、もう一度持ち上げたくなるかもしれない。それでも、まず自分の返事を出すしかなかった。

未確認の調査工程を前に迷った航が、ペンを置き、完了報告の紙を黒崎へ返す。
まず、自分の返事を出す。

「調査完了では出せません。終わった分だけ請求します」

黒崎は椅子に背を預けた。褒めも、怒りもしなかった。

「では借りるか」

黒崎個人が百舎へ貸す。創業時の出資とは別の契約で、まず三百万円。年六パーセントの利息を払い、初回の入金から一年は元金を据え置き、その後三年で分割返済する。合計六百万円までは相談に応じるが、追加のたびに返せる計画を見せる。必要になれば自動で振り込まれる金ではなかった。

「私のやり方を断っても、貸すんですか」

「君の仕事には値段がつく。今回の未払いで、その腕までなくなったわけじゃない」

黒崎は出資の書類と借用の案を重ねず、机の左右へ置いた。

「株の価値も残したい。それに、返す苦労をしたら、私の話も少しは分かる」

翌朝、航は理恵と返済表を読み、修司と仕事の範囲を削り直した。借りるのは会社で、真帆の貯金も保証も入れない。航がまだ回収できるか分からない食品卸の代金は、返済の原資に数えなかった。

黒崎へ三百万円を申し込んだ。署名をするとき、手は震えなかった。終わってから湯呑みを持とうとして、皿に当てた。

申込書の控えを持ち帰ると、理恵が最初の利息を表へ入れた。月に一万五千円。その行だけなら大きすぎる金ではない。来月にも、次の月にも置くと、仕事を終えて帰る日まで払い続けるものになった。

借入申込書の控えを持ち帰った航の前で、理恵が最初の利息を資金表へ加える。
同じ支払日は、来月にもある。

修司は調査の日を二つ増やした。澪は現場に渡す見本へ、まだ試作であることを大きく書いた。誰も航の署名へ拍手をしなかった。借りたからには、金がなくなる前に、本当に仕事を終える必要があった。

昼、理恵が給与の支払いを済ませたと伝えた。航はほっとしたあと、融資の控えを机の下へ入れかけた。自分が背負ったものを、誰かに見てもらいたい気持ちもあった。

修司が、次の夜便の調査は俺が行く、と言った。ありがとうと答えた。お前たちのために借りたんだ、という言葉は言わなかった。その言葉まで渡せば、毎月働いて返す会社の金を、彼らが航に返す恩に変えてしまう。

帰る前に、航は役員報酬と家で使う金を並べた。会社へ入る三百万円を、自分の生活が楽になる金には数えなかった。真帆と約束して買う予定だったものは、家で相談する欄へ残した。

その晩、真帆に借入のことと、連休に二人で海へ行く約束を変えてほしいことを話した。真帆には、修復した航海日誌を島の資料館へ返す仕事があった。

「私の分だけ、予約を残せるか聞くね」

航は、秋には埋め合わせる、と言いかけてやめた。彼女の予定を、次の支払日と同じように動かしてはいけない。

「会社に使うお金、少しなら」

真帆が言い、途中で考え直した。

「ごめん。今すぐ答えを出す話じゃないね」

航は、借りる額は決めたこと、暮らしの費用が変わるなら先に相談することを伝えた。真帆は来月の工房代もあると言って、手帳を閉じた。

「一緒に見てほしかったんだよ」

真帆は日誌を入れる箱へ手を置いた。見せられるようになった頁には、破れていたときには読めなかった日付があった。写真で見たと言うことと、相手が受け取るところを隣で見ることは、同じではなかった。

「仕事が大変なのは分かる。でも、それで残念じゃなくなるわけじゃないから」

航は、うん、と答えた。自分も苦しいという説明を、先に足したくなった。足せば、彼女が残念だと言う場所がなくなる。

二人で予約を確認し、航の分だけ取り消した。真帆は箱を持って移動できるよう、帰りに使う荷物を減らした。会社へ金を借りられたからといって、その旅の二人分の時間は戻らなかった。

旅の予約から航の分だけ取り消した夜、真帆は日誌の箱と荷物を一人で運べる量へ減らす。
二人分の時間は戻らない。

連休、真帆は一人で船に乗った。資料館の人へ日誌を渡すと、傷んでいた頁をゆっくり開いてもらえた。頼まれた仕事が届いた嬉しさは、本物だった。横の空いた椅子を見て、航にもこの顔を見せたかったと思った。

一人で島へ行った真帆が、修復した航海日誌を資料館の人へ渡す。隣の椅子は空いている。
届けた嬉しさと、空いた椅子。

その夜、航は調査先から戻り、真帆が残した保存容器で夕飯を食べた。彼女から届いた写真には、知らない人の手が日誌の下へ入っていた。お疲れさま、と送り、そのあとに、帰ったら話を聞きたい、と書いた。

次の船の予約まではしなかった。来月の予定を立てる前に、今日、彼女がどんな一日を過ごしたかを聞くことならできた。

真帆が戻った夜、航は日誌を受け取った人の話を聞いた。

二人で夕飯の残りを冷蔵庫へ入れた。航は容器の蓋を一つ、間違えた。

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目次

TRUE · 鍵を置く場所

  1. 01第一章|まだ温かい鍵
  2. 02第二章|七分と、その先
  3. 03第三章|十一月の最後の日
  4. 04第四章|折り目のない紙
  5. 05第五章|誰かの残り時間
  6. 06第六章|パン屋の閉まる時刻
  7. 07第七章|港までの箱
  8. 08第八章|二本目のドライバー
  9. 09第九章|白く塗られた名前
  10. 10第十章|向かいの席の人
  11. 11第十一章|取れなかった春
  12. 12第十二章|空いたままの席
  13. 13第十三章|手の届かない昼
  14. 14第十四章|水曜の留守番
  15. 15第十五章|鍵を置く場所
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