看板のない朝17 / 17

終章看板のない朝

翌朝、航はいつもの時刻に目を覚ました。

妻の真帆は、月の半分を過ごす県外の工房にいた。修復を任された古文書の乾く時刻に合わせ、前日から泊まっていた。百舎の片付けには来なかった。家を出る前に航の帰る時刻を確かめ、夕飯の残りを冷蔵庫へ入れておいてくれた。

卓上の暦には、次に戻る日が書いてある。消していない予定だった。だからといって、その日まで眠っていればよいわけでもなかった。

航は顔を洗い、シャツに袖を通した。

以前の取引先が、保管していた伝票の照合を数日だけ頼んでくれた。会社の代表として受ける仕事ではなかった。担当者の指示を聞き、一日分ずつ働く。

長く続くかは決まっていない。

初日の持ち物に、昼食、とあった。

冷蔵庫を開けると、卵が一つあった。鍋でゆでた。殻をむくと白身が少し一緒にはがれ、でこぼこになった。

航はそれを、小さな容器へ入れた。冷凍してあったご飯も温め、別の容器へ移した。棚を開けると、去年の海への旅行に買った小さい醤油があった。封を確かめ、今日の卵へ少し使った。海へ行った代わりにはならなかった。

会社の鍵を返した翌朝、自宅の台所で、航が小さな旅行用の醤油をゆで卵に使う。ご飯は別の容器に詰めてある。
行けなかった旅行の醤油を、今日の卵へ。

湯呑みの新聞紙を取った。

薄い青だった。

欠けていないのを確かめ、流しで洗った。湯を注ぐと、底にたまっていた水が動いた。

携帯電話を開いた。

百舎を閉じると伝えたあと、届いたまま読めなかった連絡が三つあった。一つずつ開いた。返事が必要なものへは、今分かる範囲を書いた。

樋口への連絡は午後だった。

鞄へ、百舎の未払いと借入の協議に使う書類、それから新しい仕事で使う筆記具を入れた。五百万円をどう扱うかも、樋口へいつ何を伝えられるかも、まだ終わっていなかった。書類を忘れないよう確かめると、もう一度確かめたくなった。三度目はやめた。

真帆から、起きた、と連絡が来た。

航は、今日から、と返した。

知ってる、と返事が来た。

少しして、弁当持った? と続いた。

持った、と送ってから、まだ台所に置いてあるのを思い出した。

容器を鞄へ入れた。

玄関で靴を履き、鍵を持った。会社の鍵がなくなった束は軽かった。手の中で量るように動かし、それをやめた。

駅までは、いつもと同じ道だった。

改札を抜けたあと、いつもの乗り場へ足が向いた。

階段の手前で止まった。

行く先を手帳で確かめ、反対側へ歩いた。

看板を外した翌朝、手帳で勤務先を確かめて別の乗り場へ歩く航。
午前は教わり、午後は残る金の話をする。

誰も呼び止めなかった。

電車を待つ間、昼の休憩に電話をかけられる場所があるか、考えた。午後には、返せていない金の話をしなければならない。午前中は、知らない人に仕事を教わる。

会社がなくなった朝に、会社の続きではない用事があった。

航は手帳を閉じた。

電車が来た。

乗る前に、鞄の中の卵がつぶれないよう、書類を立て直した。

朝の駅のホームで、航が鞄を開き、支払いの書類を立て直して昼食のゆで卵の容器を守っている。
書類と昼食を、同じ鞄へ。
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目次

BAD · 看板のない朝

  1. 01序章|折り目のある紙
  2. 02第一章|三つの青
  3. 03第二章|六時の店
  4. 04第三章|同じに見えた九つ
  5. 05第四章|冷蔵庫の裏
  6. 06第五章|渡せる時間
  7. 07第六章|椅子の代金
  8. 08第七章|ここから止める費用
  9. 09第八章|向こうの机
  10. 10第九章|待つ人の順番
  11. 11第十章|十一月三十日
  12. 12第十一章|完成するまでの夜
  13. 13第十二章|六時の写真
  14. 14第十三章|百舎御中
  15. 15第十四章|取りに来る人
  16. 16第十五章|壁の四角
  17. 17終章|看板のない朝
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