第十四章取りに来る人
樋口が来たのは、三月の雨の日だった。
会社へ貸していた測定器を取りに来た。支払いの話とは別に、返す日を決めていた。
修司が乾いた布で拭き、袋へ戻した。ケーブルも数えた。樋口はその場で電源が入ることを確かめた。

航は別の椅子を勧めた。
あの新しい椅子は、既に引き取られていた。
「車、買い替えました?」
尋ねてから、航は後悔した。
樋口は首を振った。
「直しました。しばらく乗ります」
「そうですか」
「うちの若いの、辞めることになりました」
航は顔を上げた。
樋口は袋の紐を結び直した。
「全部、百舎さんのせいってわけじゃないです。前から、仕事の先が見えないって言われてました。今回ので、俺も、大丈夫とは言えなくなった」
航は、すみません、と言った。
樋口は、いいです、と言わなかった。
「前から、もっと一人で持つ現場を増やしたいって言ってたんです。俺は、今回の調査を一緒に回れば、次には任せられると話した。百舎さんが払えなくなったとき、その次も減った」
樋口は袋の中へ手を入れ、測定器が動かない位置へ戻した。
「あいつが別へ行くのは、責めません。うちの給料を、ずっと出せるかって聞かれて、大丈夫とは返せなかった。それだけで辞めたわけじゃないけど、その返事を俺がしたことは残ります」
航は、次のところは決まったんですか、と尋ねた。
「決まりました。機械を見る仕事です。知らない会社だから、また最初から覚えるって言ってました」
決まったと聞いて、よかったと言いそうになった。若い社員が自分の判断で次へ行けたことはよかった。その人がここで覚えるつもりだった仕事と、樋口が任せようとしていた現場は、その返事で戻ってこなかった。
「完成したそうですね」
「はい」
「現場の人から聞きました。使いやすくなったって」
航は、礼を言うべきか分からなかった。
樋口は立ち上がった。
「うちも、ちゃんとやりましたから」
その言葉で、航は背中が熱くなった。
使いやすくなった仕事を、自分たちだけで完成させたと思いかけていた。払えていない分を、数字として覚えているだけでは足りなかった。あの紙を集め、初めて行く現場で頭を下げた人も、そこにいた。
航は、樋口が確かめたケーブルを見た。
「助かりました。現場を一つずつ見てもらって」
樋口は少しだけ頷いた。
「その話と、お金は別ですからね」
「はい」
「次の連絡、木曜でしたね」
「木曜の午後です」
樋口は帰っていった。入口で靴の底を二度こすった。帰るときにもそうする人なのだと、航は初めて気づいた。
午後、航は取引先へ渡す引継ぎの記録に、樋口の会社が行った調査をきちんと書き足した。支払いの代わりになるとは思わなかった。
別の用紙には、返せていない金額が残っていた。
両方とも、残した。
*
その日の夕方、樋口は戻した測定器を会社の棚へ入れた。若い社員は、担当していた機械の記録を揃えていた。あと何日かで最後の出勤になる。次の会社で使う物と、樋口の会社へ返す物を分けていた。
「これ、次に誰が行くか、書いておきますか」
社員が尋ねた。樋口は、まだ決めてないと答えた。辞める人の名前を消せば、その人の持っていた時間が、自分に戻るわけではない。次の人を採る金も、教える時間も要った。
若い社員は自分の説明を書き足した。相手の作業員が昼食へ出る前に話しかけないこと。名前だけでは分からない入口を、地図に記した。百舎の調査で二人が確かめたこともあった。
「あれ、仕事にはなってたんですよね」

社員が手を止めて聞いた。
「なってたよ。使いやすくなったって、現場で言われた」
樋口は答えた。
「だったら、次でも話せますね」
「話していい。お前が行って、確かめたことだ」
社員は頷いた。会社の未払いが、その人の経験まで未完了にするわけではなかった。次で話せるようになったことと、ここで続けられなくなったことは、別に残った。
樋口は車の鍵を取り、明日の現場へ行く順番を確かめた。普段なら若い社員へ任せるつもりだった朝の確認へ、今度は自分が行く。夕方の別の客へは、遅くなると先に電話した。自分の会社でも、分かっている時刻を知らせずに、相手の予定だけ空けてもらいたくなかった。

百舎からの次の連絡日は、手帳へ残っていた。使いやすかったという現場の礼で、その欄を消すことはなかった。
*
百舎では、同じ日の夕方、黒崎が来た。航は、引継ぎの報告と、百舎が借りた金についての資料を、別々に机へ置いた。
十二拠点の保守は引き受け先へ移り、問い合わせもそちらで受けている。航がそう伝えると、黒崎は未整理の書類を確かめた。「環」を使う場所は同じで、対応する会社が変わったのだった。
「二割を、買い取るところまでは行けませんでした」
航が言うと、黒崎は創業時の紙を閉じた。
「その条件は、会社が続いているときの出口だ。二百万の出資を、今から貸付だったことにはしない。見込みが外れた分は、私の投資の損でもある」
黒崎は、もう一方の資料へ手を置いた。

「五百万を貸した話は、こちらで続ける。部屋の鍵を返しても、書類まで終わったことにはならん」
航は頷いた。会社の借入をすべて自分の個人の借金に置き換えるのでも、看板と一緒に消すのでもない。整理の方法と残る責任は、専門家を交えた次の席で確かめる。航はそのための資料を作る役目から、退かなかった。
黒崎は新しい会社を始めろとも、しばらく休めとも言わなかった。
帰り際、修司が聞いた。
「黒崎さんなら、八月、どうしてましたか」
黒崎は入口で止まった。
「今知っていることを、知らなかったんならな」
鞄の持ち手を握り直した。
「受けたかもしれん。儲かると思って勧めた。君らが大きくなれば、私の二割にも値がつくからな」
黒崎は航の机の資料を見た。
「九月に、言わずに直せと言ったのも私だ。そのことまで消せとは言わん」
航は、その答えに救われかけた。

黒崎も同じなら、自分だけの失敗ではない。
しかし黒崎は、航の代わりに署名したわけではなかった。航の指を動かして、報告の二行を消したのでもなかった。金で調査を止める提案を、今は間違いだったと取り消しているわけでもない。二人が同じ席にいたことと、同じ行為をしたことは違った。
航は、覚えています、とだけ言った。