看板のない朝11 / 17

第十章十一月三十日

澪の最後の日は、忙しくなるはずだった。

そのつもりで全員が予定を空けていたので、かえって、午後になると渡すものがなくなった。

阿部は引き継いだ手順書を自分で開き、次の拠点に入れる設定と、確認する操作を最初から試した。小池は別の机で、利用者へ説明する順番を見直していた。澪は阿部の隣で黙って見ていた。最後の画面まで進むと、阿部が、ここでいいんですよね、と聞いた。

引継いだ設定を最後まで確かめ、澪へ確認する阿部。
自分で分かる仕事が、一つ増えた。

「そうです」

澪は答えた。

「ほんとに、これで終わり?」

「私からは」

阿部は椅子にもたれた。

澪の仕事がなくなる瞬間を、航は遠くから見た。阿部の仕事が増えただけではない。阿部が、自分で分かる仕事が一つ増えたのだった。

退職の挨拶で、澪は途中から泣いた。

島へ行くことを決めている人も、泣くのだと航は思った。泣いているから引き留めてよいのではないことも、今は分かった。

誰かが用意した小さな菓子を分けた。修司が包装を開けるのに失敗し、二つ床へ落とした。澪は泣いたまま笑った。

写真は三度撮った。最初は岡野が間に合わず、二度目は理恵が目を閉じていた。

「撮られ慣れてないんです」

「さっきも撮りましたよ」

澪が言うと、理恵も笑った。

澪の最後の日、航・修司・澪・理恵・岡野・小池・阿部の七人が送別写真を撮り直す。
七人で、もう一度。

机を片付けてから、澪は航のところへ来た。

「向こうで、何か手伝えることがあったら」

航は首を振ろうとした。

先に、彼女が続けた。

「言ってください。できるかどうか、返事をします」

澪は、何でも引き受けるとは言わなかった。

航は頷いた。

「ありがとう。必要なら、ちゃんと頼む」

「はい」

「澪」

呼んでから、言葉を選んだ。

島でうまくやれ。ここで教わったことを忘れるな。いつか会社を立て直したら見に来てくれ。

どれも口まで来た。

「船、何時?」

「明日は、九時です」

「じゃあ、今日は帰ろう」

航は彼女の椅子を、机の中へ押した。

澪は階段の下で振り返り、お辞儀をした。下の印刷所の主人にも挨拶した。主人は名前をよく知らなかったが、白い紙をいつも大事に持っている子、と覚えていた。

「海へ持ってくなら、湿気に気をつけな」

澪は、はい、と答えた。

彼女の姿が見えなくなってから、修司が階段へ腰を下ろした。

「間に合ったな」

「何が」

「出発」

航も腰を下ろした。

澪の退職を見送ったあと、航と修司が印刷所の階段へ並んで腰を下ろす。下の出入口は空いている。
出発には、間に合った。

会社の苦境は変わらなかった。明日からは航、修司、理恵、岡野、小池、阿部の六人になる。小池が現場で説明し、阿部が設定と動作を確かめ、判断に迷う箇所は修司と岡野が引き取る。百舎に残る自分たちが引き受ける場面は増える。岡野の仕事も楽にはならない。

だが、彼女の十二月一日を、百舎の十一月三十一日にしないで済んだ。

修司が立ち上がった。

「俺は、一月の訓練所、断った」

修司は以前から、知人の職業訓練所で実習の手伝いをしていた。年明けから定期的に教える仕事をしないかと誘われていたが、百舎の移行作業が一月へ延び、同じ日程では両方を引き受けられなくなったのだった。

「予定は、まだ持ってる」

修司は手帳を出した。訓練所へ行く日の欄に、後から客先名が入っていた。一方を終えてからもう一方へ行くには、電車の時刻が合わない日があった。

「あっちは何度も、いつから来られるかって聞いてくれた。俺が、一月ならと言った。百舎を辞めて向こうへ行くのも、考えてた」

航は、一月までには終わると答えかけた。十一月までにと言ったあとで、いま一月の話をしている。まだ終えていない拠点の印は、これから変える必要があった。

「次の期まで、待ってもらえないか」

航は尋ねた。

「一回、聞いた。実習は、一月から始まる。教える人がいないまま、生徒には待っててもらえない」

修司の声は低かった。怒っていない声ではなかった。今まで知らなかった相手の予定を、航へ一つずつ渡していた。

航は顔を上げた。

「それは」

「俺が決めた。今の移行を終えるまでやる。ただ、先方が次も待ってくれるかは分からん」

彼はポケットから鍵を出した。

「これを、お前に返してもらえる借りにはしたくない。俺も、十二拠点をやろうって言ったから。ただ、残る期間の給料の話は、理恵さんと確かめる。仲間だから無限に残れるわけじゃない」

航は、ありがとう、と言った。

それだけでは少なかった。

多く言えば、修司が失うものを褒めることになりそうだった。

「給料と最後の日は、今週、理恵さんと確かめる。そこが変わるなら、俺にも先に話す」

航は言った。修司は、その話はしよう、と答えた。自分を残すための話と、自分が次へ行くための話を、同じ感謝で済ませるなという返事だった。

*

訓練所へ断りの電話をしたのは、その二日前だった。

修司は昼休みに会社の外へ出た。担当者は、いつまでなら今の職場で必要なのか尋ねた。一月の終わりまで導入を持つ、そのあとに引継ぎもある、と答えた。

会社の外で、訓練所の一月の仕事を断る修司。
教える人を待たせることは、できない。

「では、今回は別の人にお願いすることになります。実習の準備から一緒に入ってもらいたいので」

修司は、分かりました、と言った。分かる話だった。担当者は仕事のできる相手を失わないよう、春の短い実習ならまた相談できるかもしれないと続けた。定期的な仕事が待っているという約束ではなかった。

電話を切ったあと、修司は手帳の一月へ線を引いた。教える日の前に、どんな部品を用意するか、もう書いていた。自分が早く終えるためではなく、できない人が途中で迷っても戻れるように、順番を考えた跡だった。

頁を破るのはやめた。自分がしたかった仕事まで、なかったことにする必要はなかった。

会社へ戻ると、阿部が設定の確認を待っていた。修司はすぐ答えず、五分だけ待ってくれと言った。流しで湯を沸かし、濃い青の湯呑みを持って座った。自分で残ると決めたのだから、何も惜しんではいけない。そう考えかけ、違うと思った。

会社へ戻り、五分だけ湯呑みを持って座る修司。
残る仕事も、惜しい仕事も、本当だった。

五分後、阿部と紙を開いた。残る仕事はしたかった。次の仕事を失ったことも本当だった。その二つを、同じ気持ちに揃えなくてよかった。

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目次

BAD · 看板のない朝

  1. 01序章|折り目のある紙
  2. 02第一章|三つの青
  3. 03第二章|六時の店
  4. 04第三章|同じに見えた九つ
  5. 05第四章|冷蔵庫の裏
  6. 06第五章|渡せる時間
  7. 07第六章|椅子の代金
  8. 08第七章|ここから止める費用
  9. 09第八章|向こうの机
  10. 10第九章|待つ人の順番
  11. 11第十章|十一月三十日
  12. 12第十一章|完成するまでの夜
  13. 13第十二章|六時の写真
  14. 14第十三章|百舎御中
  15. 15第十四章|取りに来る人
  16. 16第十五章|壁の四角
  17. 17終章|看板のない朝
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