第十章十一月三十日
澪の最後の日は、忙しくなるはずだった。
そのつもりで全員が予定を空けていたので、かえって、午後になると渡すものがなくなった。
阿部は引き継いだ手順書を自分で開き、次の拠点に入れる設定と、確認する操作を最初から試した。小池は別の机で、利用者へ説明する順番を見直していた。澪は阿部の隣で黙って見ていた。最後の画面まで進むと、阿部が、ここでいいんですよね、と聞いた。

「そうです」
澪は答えた。
「ほんとに、これで終わり?」
「私からは」
阿部は椅子にもたれた。
澪の仕事がなくなる瞬間を、航は遠くから見た。阿部の仕事が増えただけではない。阿部が、自分で分かる仕事が一つ増えたのだった。
退職の挨拶で、澪は途中から泣いた。
島へ行くことを決めている人も、泣くのだと航は思った。泣いているから引き留めてよいのではないことも、今は分かった。
誰かが用意した小さな菓子を分けた。修司が包装を開けるのに失敗し、二つ床へ落とした。澪は泣いたまま笑った。
写真は三度撮った。最初は岡野が間に合わず、二度目は理恵が目を閉じていた。
「撮られ慣れてないんです」
「さっきも撮りましたよ」
澪が言うと、理恵も笑った。

机を片付けてから、澪は航のところへ来た。
「向こうで、何か手伝えることがあったら」
航は首を振ろうとした。
先に、彼女が続けた。
「言ってください。できるかどうか、返事をします」
澪は、何でも引き受けるとは言わなかった。
航は頷いた。
「ありがとう。必要なら、ちゃんと頼む」
「はい」
「澪」
呼んでから、言葉を選んだ。
島でうまくやれ。ここで教わったことを忘れるな。いつか会社を立て直したら見に来てくれ。
どれも口まで来た。
「船、何時?」
「明日は、九時です」
「じゃあ、今日は帰ろう」
航は彼女の椅子を、机の中へ押した。
澪は階段の下で振り返り、お辞儀をした。下の印刷所の主人にも挨拶した。主人は名前をよく知らなかったが、白い紙をいつも大事に持っている子、と覚えていた。
「海へ持ってくなら、湿気に気をつけな」
澪は、はい、と答えた。
彼女の姿が見えなくなってから、修司が階段へ腰を下ろした。
「間に合ったな」
「何が」
「出発」
航も腰を下ろした。

会社の苦境は変わらなかった。明日からは航、修司、理恵、岡野、小池、阿部の六人になる。小池が現場で説明し、阿部が設定と動作を確かめ、判断に迷う箇所は修司と岡野が引き取る。百舎に残る自分たちが引き受ける場面は増える。岡野の仕事も楽にはならない。
だが、彼女の十二月一日を、百舎の十一月三十一日にしないで済んだ。
修司が立ち上がった。
「俺は、一月の訓練所、断った」
修司は以前から、知人の職業訓練所で実習の手伝いをしていた。年明けから定期的に教える仕事をしないかと誘われていたが、百舎の移行作業が一月へ延び、同じ日程では両方を引き受けられなくなったのだった。
「予定は、まだ持ってる」
修司は手帳を出した。訓練所へ行く日の欄に、後から客先名が入っていた。一方を終えてからもう一方へ行くには、電車の時刻が合わない日があった。
「あっちは何度も、いつから来られるかって聞いてくれた。俺が、一月ならと言った。百舎を辞めて向こうへ行くのも、考えてた」
航は、一月までには終わると答えかけた。十一月までにと言ったあとで、いま一月の話をしている。まだ終えていない拠点の印は、これから変える必要があった。
「次の期まで、待ってもらえないか」
航は尋ねた。
「一回、聞いた。実習は、一月から始まる。教える人がいないまま、生徒には待っててもらえない」
修司の声は低かった。怒っていない声ではなかった。今まで知らなかった相手の予定を、航へ一つずつ渡していた。
航は顔を上げた。
「それは」
「俺が決めた。今の移行を終えるまでやる。ただ、先方が次も待ってくれるかは分からん」
彼はポケットから鍵を出した。
「これを、お前に返してもらえる借りにはしたくない。俺も、十二拠点をやろうって言ったから。ただ、残る期間の給料の話は、理恵さんと確かめる。仲間だから無限に残れるわけじゃない」
航は、ありがとう、と言った。
それだけでは少なかった。
多く言えば、修司が失うものを褒めることになりそうだった。
「給料と最後の日は、今週、理恵さんと確かめる。そこが変わるなら、俺にも先に話す」
航は言った。修司は、その話はしよう、と答えた。自分を残すための話と、自分が次へ行くための話を、同じ感謝で済ませるなという返事だった。
*
訓練所へ断りの電話をしたのは、その二日前だった。
修司は昼休みに会社の外へ出た。担当者は、いつまでなら今の職場で必要なのか尋ねた。一月の終わりまで導入を持つ、そのあとに引継ぎもある、と答えた。

「では、今回は別の人にお願いすることになります。実習の準備から一緒に入ってもらいたいので」
修司は、分かりました、と言った。分かる話だった。担当者は仕事のできる相手を失わないよう、春の短い実習ならまた相談できるかもしれないと続けた。定期的な仕事が待っているという約束ではなかった。
電話を切ったあと、修司は手帳の一月へ線を引いた。教える日の前に、どんな部品を用意するか、もう書いていた。自分が早く終えるためではなく、できない人が途中で迷っても戻れるように、順番を考えた跡だった。
頁を破るのはやめた。自分がしたかった仕事まで、なかったことにする必要はなかった。
会社へ戻ると、阿部が設定の確認を待っていた。修司はすぐ答えず、五分だけ待ってくれと言った。流しで湯を沸かし、濃い青の湯呑みを持って座った。自分で残ると決めたのだから、何も惜しんではいけない。そう考えかけ、違うと思った。

五分後、阿部と紙を開いた。残る仕事はしたかった。次の仕事を失ったことも本当だった。その二つを、同じ気持ちに揃えなくてよかった。