第八章向こうの机
十一月のあの金曜より前、真帆は自分の勤める工房で本の修復を続けながら、古文書の扱いを学ぶ講習へ通い始めていた。講習は月に二度、県外の町で開かれた。会社の会議には出ないので、百舎の様子は航が家で話す範囲でしか知らなかった。
初めて行った日は、航が駅まで送るはずだった。前の晩から仕事が延び、気づくと彼女の電車は出ていた。先に出るね、という連絡だけが残っていた。
二度目の日は、航が先に目を覚ました。
「送るよ」
真帆は首を振った。
「向こうでみんなと会うから、一本早いの。もう出る」
玄関で靴を履いた。手伝うには間に合わなかったので、航はドアだけ開けた。
晩秋、真帆は講習先の工房に机を借りることにした。月の半分をそちらで過ごす。古文書の修復を一件、担当させてもらえるという。
決める前に、真帆は自分の収入と、机の利用料、県外へ通う交通費を並べた。今の工房の仕事を減らす日も、先に相談した。長く持つ本は、誰がどの工程まで触れたかを残して渡す。彼女が町を移る日も、その順から決まった。

講習先で見せてもらった本は、古い糊が残った頁と、あとで綴じ直された頁が混じっていた。全部を一度に開かず、ほどけるところを調べてから戻す。手の速さより、その途中を見たい仕事だった。

工房の人から、一件を任せたいと言われたとき、真帆はすぐに返事をせず、宿泊と机をどこまで確保できるか尋ねた。安く借りられる日だけで工程を決めれば、乾くのを待つ途中で帰ることになる。自分の金で続けられる範囲を確かめ、翌日にお願いしますと答えた。
航へ話したいのは、任せてもらえた喜びと、古い糊の話だった。会社が大変なときに、自分の机の話をしてよいかは少し迷った。だからといって、全部終わるまで取っておけば、最初に嬉しかった時刻はなくなる。
それを聞いた晩、航は百舎を閉じるかもしれないと話した。
先に言えばよかった。
彼女が何かを決める前に知らせたかったという意味ではない。彼女の嬉しい知らせを、自分の話でふさいだのが分かったからだった。
真帆は長い間、口を開かなかった。机を借りるために準備してきた貯金の話は、まだ途中だった。
「いつから」
「確かな話になったのは、今週」
「大変なのは知ってた。でも、そういうことになってたんだ」
航は頷いた。
「私の工房の費用を、会社の予定に入れてないよね」
「入れてない。保証も、君には頼んでない」
「それは確かめたかった」
彼女は責める声では言わなかった。自分で決めた仕事へ使うための金だった。航には、言ってくれれば少し貸せるのに、と続けてほしい気持ちがあった。続かなかった。
「借りる机の分と、こっちで働かない日の分を、何か月か残してあるの。そこがなくなると、引き受けた本を途中で返すことになる」
真帆は言った。航は、分かる、と答えた。自分へ貸さない理由があれば、断り方として受け取らずに済むと思った。彼女が話しているのは、貸すかどうかの相談ではなく、自分が続ける仕事だった。
真帆は、水を飲みに台所へ立った。自分の分だけ持ってきて、途中で気づき、航のコップも取った。航は、ありがとう、と言った。
水を飲んだら、何か言わなければならなくなった。
「しばらく、こっちにいてほしい」
彼女はコップを置いた。
航は続けた。何かをしてほしいわけではない。ただ、帰ってきたときにいてほしい。今は一人になると、会社のことを考えるのをやめられない。
真帆はすぐには答えなかった。
「行くよ。向こうへは」
そう言ってから、彼女は暦を手元へ寄せた。
「今週の木曜なら、いる。話を聞ける。でも、毎日ここにいるとは約束できない」

航は、分かった、と言った。
一度言ったあと、また言った。二度目は、もう少し小さな声になった。
彼女が自分を置いていくように思えた。
その考えが間違っていても、寂しさまでは間違いにならなかった。だからといって、真帆の切符を取り上げてよいことにもならない。
木曜日、航は約束した時間より四十分遅く帰った。
会社を出る前、約束の時刻には間に合わないと分かった。急いで帰る代わりに、明日の資料も確かめた。家へ持ち帰って話の途中に開くより、ここで済ませたほうがよい。そう考え、真帆へ、少し遅れると送った。
その文を見た真帆は、切りかけた紙を箱へ戻さず、作業を続けた。夫が帰るまで何もしないでいると、また待っているだけの時間になる。十五分で終わる予定だった工程を、次の頁まで進めた。

真帆は、修復に使う紙を切っていた。航が謝ると、あと十五分で片付ける、と言った。
航は横へ座った。
指先の糊を乾かし、重石を置き、切り取った細い紙を別の箱へ戻す。終わるまで黙って待った。ずいぶん長く感じた。
「会社の椅子が、頭から離れなくて」
話し始めると、つまらないことしか出てこなかった。机を買ったこと。会議へ持っていく紙を印刷しすぎたこと。先月、全員へ缶コーヒーを買ったこと。
真帆は、どれも否定しなかった。
途中で航は、こういう無駄がなければ、と言った。
「今、その金額を確かめてるの?」
真帆が聞いた。
違う、と航は思った。
一つずつ間違いを集めれば、元の自分に戻してやり直せるような気がしていた。あの椅子を買う前の自分。三拠点の代金が入った日の自分。
「戻りたい」
ようやく、それだけ言えた。
真帆は紙箱の蓋を閉じた。
二人で長い間、何も話さなかった。
その夜、航は初めて、百舎のことを話しながら泣いた。顔を覆わずに泣いたので、鼻水が顎へ落ちた。真帆は箱から紙を取ろうとして、違う箱だった、と言った。
航は泣きながら、そっちは高い、と言った。
真帆も少し笑い、台所から布巾を持ってきた。

翌朝、彼女は予定どおり向こうの町へ行った。
工房では、糊を薄くした試しの紙が待っていた。前のものと曲げた感触を比べ、今日使う方を選んだ。航の泣いた顔が何度か浮かんだ。それでも指が糊に触れている間は、修復する紙の厚さを考えた。
昼、航へ、昨日話せてよかった、と書きかけた。書けば昨日が全部よい夜になる気がして、消した。話したかったのは本当だった。四十分待つことが平気だったのではない。
今夜も同じ時刻には帰らない。先方の本を乾かす時間がある。真帆はその予定を送り、自分の仕事へ戻った。
航の携帯電話に、着いた、という短い連絡と、窓に向いた作業机の写真が届いた。
航はすぐに返せなかった。
昼休みにもう一度見て、光が入るんだね、と返した。