看板のない朝16 / 17

第十五章壁の四角

三月最後の水曜日、修司は百舎の看板を外すための脚立を持ってきた。現場の仕事と保守の引継ぎは終え、今日は借りていた部屋を片付け、鍵を返す日だった。残った支払いの相談や書類の整理は、ここを出たあとも続く。

電気工事に使うものではなく、家で高い棚へ届くための小さい脚立だった。自分は脚立なしでも届くと言い張っていたが、看板の上のねじには届かなかった。

「脚立込みで、一メートル八十か」

航が言うと、修司は、今それか、と笑った。

ねじの一本が固かった。

航が下から押さえ、修司が上で回した。看板は薄い板なのに、壁から離れかけると急に重く感じた。

「そっち、持った?」

「持った」

「ほんとに?」

「持ってるって」

最後のねじが抜けた。

二人で板を下ろした。

壁に、塗装されていなかった四角が残った。看板が隠していた場所だけ、少し違う色だった。

印刷所の階段口で、航と修司が外した薄い看板を下ろし、壁には色の違う四角が残っている。
看板を外した跡が残る。

航はそこを長く見た。

会社の名前がなくなれば、自分が見えなくなると思っていた。

実際には、取った場所が見えた。

修司が看板の裏を拭いた。埃が掌へついた。

「すごい仕事だったな」

航は頷きかけた。

小池のまだ決まっていない仕事。樋口の古い車。阿部の早い電車。理恵が最後まで何度も上げた眼鏡。

それらの上に、よい思い出を置くことにならないかと思った。

修司は板を立てかけ、掌の埃を払った。

「十二拠点のことだよ」

「……そうだな」

航は答えた。

「すごかった」

言うと、胸が痛んだ。

誇らしいことを話して、こんなに痛むことがあるのだと知った。

二人は上へ戻った。

部屋には、引き取りを待つ机が一つと、掃除道具が残っていた。創業の日と似ていると思いかけたが、違った。これから何でもできる空き方ではなかった。

創業したばかりの百舎で、航、修司、真帆の三人が中古の机を囲み、濃さの違う青い湯呑みを手にしている。机の端には小さな領収書がある。
中古の机と、三つの青い湯呑み。百舎が始まった夜。

修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。航の薄い青も、同じ束の新聞紙へ置いた。

「それ、俺の鞄には入らない」

修司が言った。

「分かってる」

航は自分の分を包んだ。

修司の職業訓練所の一月の席は、別の人で決まっていた。春からの短い実習には声をかけてもらったが、それだけでは足りない。知人の工場で、保守の仕事を増やすという。

「何曜日に行くの」

航が尋ねると、修司は一冊の手帳を出した。短い実習の期間と、工場へ入る日が別の色で書かれていた。

「一月の話のときは、訓練所の仕事で一週間の組み方を決められた。今は、こっちの都合が合う日と、あっちで人が要る日を合わせる」

短い実習と工場の仕事を組み合わせた手帳を、修司が航へ見せる。
空いている日は、まだ埋まっていない収入の日。

空いている日はあった。仕事が自由に選べる余裕ではなく、まだ埋まっていない収入の日だった。航は自分の会社へまた呼べると考えることもできなかった。会社を返す日だった。

「先週、訓練所で準備を見た。俺が考えてたものと、違う順だった」

修司は続けた。別の人が、既に一月から教えている。生徒の迷うところも、その人が聞いていた。

「次から、元の順に戻そうとは言わないよ。今の順を、俺も覚える」

訓練所の席が戻ったのではなかった。自分が始められたはずの時期を、別の人が生きた場所へ、今度は短く入る。それでも、その仕事はしたかった。

航は、あのとき一月までと言わせて悪かった、と言った。

「お前だけで、俺の返事を決めたわけじゃない。でも、延びた理由には、お前の三週間もある」

修司は手帳をしまった。

「俺が残ると決めたから、なくなった話にはしないでくれ。俺が教えるのを好きなのも、今これだけじゃ足りないのも、そのままにしといてくれ」

航は頷いた。これからの工場の仕事を褒めれば、前の仕事を逃した分までよくなったという話へ持っていけた。そういう返事はしなかった。

「また訓練所へ行ければ、それでうまく教えられるって話でもないからな」

修司は工具箱を閉じた。

航は、その工具箱の取っ手を一度持った。重かった。

階段を下りるのを手伝った。

仕事納めの夕方、狭い階段の踊り場で航が箱を抱え直し、先へ下りる修司の通り道を空けている。
箱を抱え直して、先へ行く道を空ける。

印刷所の主人へ鍵を返すと、主人は紙に受領の日付を書いた。最後に、うまいこと言えんけど、と言いかけ、そのまま黙った。

印刷所の入口で、航が返した鍵の横に、主人が受領の日付を書き込む。奥には灯りの消えた二階へ続く階段がある。
鍵を返す日にも、残る用事があった。

「長く借りて、ありがとうございました」

航は頭を下げた。

「うん」

主人は答えた。二階の灯りを指さし、消したかと聞いた。

航は一度だけ、階段の上を見た。消してきたと答えた。夏の展示で見た紙の家は、どれも明るかった。自分の部屋の灯りを残すために、いくつもの家の予定を動かしてしまった。今ここを暗くしたからといって、向こうの家がすぐ明るくなるわけではなかった。

修司は車に工具を積み、航は駅へ向かうことにした。

「木曜、樋口さんと話したあと、連絡する」

航が言った。

「分かった。夕方は仕事だから、遅くなる」

「うん」

修司が運転席へ乗った。

航は見送った。

携帯電話には、会社の名前がまだ登録されていた。消す必要のある場所と、記録として残す場所があった。それも、あとで確かめなければならなかった。

帰りの電車で、薄い青の湯呑みが鞄の中で鳴った。

航は手を入れ、新聞紙の隙間を押さえた。

そのころ、小池は応募先からの連絡を読んでいた。面談へは進めるが、勤務開始日も、採用も決まっていなかった。次の朝に着る服を用意し、交通費を鞄へ入れた。会社の最後の日に、一人ずつ次の行き先が揃うことはなかった。

阿部は翌朝の電車の時刻を、玄関へ置いた。子どもが眠る前に、明日は先に出ると話した。迎えは行くよ、と続けた。百舎へ通っていた日と同じ約束を守るために、家を出る時刻だけが早くなった。

理恵は次の職場へ持っていく物を揃え、百舎の記録を外の担当者へ渡す日を別の紙で確かめた。残る相談に来られない時間も伝えてあった。会社が終わる日を、全員の時間がまた自由に使える日にはしなかった。

航の鞄で湯呑みはもう鳴らなかった。新聞紙を押さえる手を離し、明日の勤務先の場所を開いた。

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目次

BAD · 看板のない朝

  1. 01序章|折り目のある紙
  2. 02第一章|三つの青
  3. 03第二章|六時の店
  4. 04第三章|同じに見えた九つ
  5. 05第四章|冷蔵庫の裏
  6. 06第五章|渡せる時間
  7. 07第六章|椅子の代金
  8. 08第七章|ここから止める費用
  9. 09第八章|向こうの机
  10. 10第九章|待つ人の順番
  11. 11第十章|十一月三十日
  12. 12第十一章|完成するまでの夜
  13. 13第十二章|六時の写真
  14. 14第十三章|百舎御中
  15. 15第十四章|取りに来る人
  16. 16第十五章|壁の四角
  17. 17終章|看板のない朝
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