第一章三つの青
百舎という株式会社は、印刷所の二階にあった。印刷をするのは階下で、二階では客先の入力画面、配送表、仕事の手順を作っていた。現場へ導入し、使い方を説明し、動かしたあとも直す。航は営業と顧客との調整を、創業社員の倉田修司は実装と現場の導入を担当した。
名前を決めたのは四年前だった。階下の主人が、百まで仕事をしたら、あとは数えなくていいんじゃないか、と言い、修司が笑った。その笑い方を聞いて、航はその名を登記の書類に書いた。
まだ二人が同じ会社に勤めていたころ、修司は駅のベンチで寝ていた。終電にはまだ早く、仕事の電話だけが何度も鳴った。航はそれを見て、起こして電車に乗せるだけでは、何も変わらないのだと思った。

二人で会社を始めた。修司を早く帰せる場所を、航が作るつもりだった。誰も椅子で眠らなくてよく、作った人が作ったものの先を見られる場所。採用の面接では言わなかったが、頭の中では、理想郷という少し恥ずかしい名前がついていた。
代表になる航が株式の八割を持ち、黒崎征一という年長の取引先が、個人で二百万円を出して二割を持った。黒崎は物流関係の営業と導入支援を行う会社の社長だった。二人が独立する前から、修司の作るものと航の客への説明を知っていた。
創業の日、黒崎は出資の書類を机へ置き、延長コードをつないだ。壁の差込口まで、あと三十センチ足りなかったのだ。
「腕はある。あとは、売れるときに売ることだ」
採る人、受ける仕事は航が決める。新しく株を出すときと会社を売るときは、二人で合意する。黒崎の二割は、いつか航が買い取れる約束も書かれていた。二百万円に利益に応じた額を加え、上限は四百万円。出口のない約束にはしたくない、と航が言い、黒崎はその条項を消さなかった。
修司はその紙に署名しなかった。仕事を始める仲間ではあっても、株主ではなかった。航はその違いを説明した。そのころは、説明すれば自分でも忘れずにいられると思っていた。
創業の日、修司は百円の湯呑みを三つ買ってきた。濃い青、薄い青、その中間。いちばん濃いのを自分のものにして、領収書には、お祝いだから、と書いた。
三つ目を使った真帆は、航の妻だった。百舎の社員でも役員でもなく、町の別の工房で本の修復を仕事にしていた。その日は自分の仕事を終え、開業を祝いに来た。まだ修復を覚え始めた彼女の指には、糊が白く残っていた。黒崎が次の商談へ出たあと、三人で水道水を飲み、焼きそばを分けた。航の皿にだけ、肉が一片もなかった。

「社長は最後に取るからだ」
修司に言われ、航は箸で野菜を探った。
黒崎の延長コードは、四年目の今も机の下にあった。最初の客も、食品卸の前の仕事も、この人から紹介された。航は何度も礼を言い、何度か条件に反対した。反対しても、株主名簿の二割はそこにあった。
食品卸からの未入金が分かった四月、黒崎はまた同じ階段を上がってきた。
机に置いたのは、地方の配送拠点をつなぐ仕事の資料だった。発注するのは、事業を止める食品卸とは別の会社である。同じ会社の拠点でも、荷物を受け取り、行き先ごとに分け、次の便へ渡すための一覧表が場所ごとに違っていた。
計画の名は「環」。一つ目の拠点で入力した行き先と箱の数を、次の拠点では自分たちの表へ打ち直している。変更は電話で受け、印刷した紙へ赤字を入れる。その紙と画面を夕方に突き合わせ、翌日の配送表を作る。同じ荷物の情報を写し直すたび、間違いを確かめる仕事も増えていた。
百舎は、各拠点が荷物の情報を引き継いで使える画面を作り、その情報から現場で必要な配送表を出せるようにする。現地で使い方を聞き、画面や紙を直し、操作を説明する。荷物の仕分けや配送自体は先方が行う。新しい仕組みで、実際に出す荷物の行き先と数量を確かめられるか、拠点の担当者と確認するところまでが百舎の仕事だった。
それができれば、夜遅くまで翌日の紙を作っている人を帰せる。
修司は、その会社の拠点を全部一度に受けるのは無理だ、と言った。
最初は三拠点に区切られた。黒崎は紹介と条件の調整をし、使う側の要望と納品の確認は発注元が出す。百舎が何を作り、どこまで引き受けるかを、航たちが答える。黒崎も顧客の会議へ出た。
途中で仕事を増やさないこと、始めるときにも代金の一部を受け取ること。完成までの費用と入金の時期を見比べ、条件を詰めた。正規の着手金だけでは、足りない月が残った。
会議のあと、黒崎は航だけを呼び止めた。
「調査工程の報告を、先に出せないか」
三拠点の現地調査と確認が済めば、その工程の代金を請求できる。まだ訪ねていない場所があることを、黒崎も知っていた。
「帳票は来てる。確認完了として出せば、今月の支払いに回せる。残りは、金が入ってから確かめればいい」
「終わってない調査を、終わったことにするんですか」
「そうだ。今、君が欲しいのは正しい順番か、社員の給料か」
黒崎は静かに言った。航が言葉を言い換えなくても、提案を引っ込めなかった。
報告を出せば、先方はその調査結果をもとに、使う人や切り替えの日を決め始める。あとから確かめて間違っていれば、誰かが決め直す。航は、机に置かれた食品卸の手順表を見た。四つ折りにした紙を、澪がまだ捨てずにいた。
「完了とは書けません」
黒崎はしばらく航を見た。それから、別の紙を出した。
「なら、借りるか」

初回は三百万円。貸すのは黒崎個人で、借りるのは百舎。創業時の出資とは別の契約だった。年六パーセントの利息を払い、最初の一年は元金を据え置き、そのあと三年で分けて返す。追加を含む融資枠は六百万円までだが、頼めば自動で出る金ではない。残る仕事と返済の見込みを、そのつど見る。
「正直な報告に、貸してもらえるんですか」
「君らの仕事が金になると思ってるから、二百万も出した。貸した金も、株の価値も増やしたい。君がいつまでその順番を守れるかにも、興味がある」
航は家へ持ち帰って読んだ。真帆の名前を書く欄はなく、妻の貯金も保証も約束に入っていなかった。自分の判断を、彼女へ黙って背負わせる契約にはしない。そのことを理恵と確かめた。
ひと月の利息は一万五千円だった。元金の返済は一年後から始まる。理恵がそれを支払いの表へ入れると、来月の空欄には金が置けた。その次の年には、以前なかった支払いが残った。

翌朝、航は署名する前に、完了報告の見本をもう一度開いた。こちらなら借りずに済む。調査の残りを自分が早く終わらせれば、誰にも分からないかもしれない。その考えを、昨夜から何度もした。

修司の確認表には、まだ訪ねていない夜の担当者の名前があった。その人は、自分が話していない内容まで調べたことにされる。出荷の前に表を持ち、ここはもう確認してあると考えるだろう。航には、その人を給与の表の外へ置く理由がなかった。
完了報告を閉じた。借入の紙へ名を書いても、給料を必ず守れる会社になるわけではない。正しい順で進めるための金を、自分たちが後で返す。いま選べるのは、そこまでだった。
「これで進めます」
航は理恵の前で言い、署名した。ペン先を離すと、名の最後だけ少し太くなっていた。

食品卸の代金を待つ側から、毎月黒崎へ利息を払う側にもなった。三百万円が口座へ入っても、黒崎の株式二割が減るわけではない。理恵は出資と借入を別々に記録した。
待ってもらう必要のある支払先には、航が相談に行った。理恵も同行し、航が曖昧に答えると、横から日付を言い直した。
契約の翌週、まだ口座に残っていた金で給与を払った。この一回で会社を救えたわけではない。それでも、次の給与や家賃をどう払うかについて、進める仕事と入金の予定ができていた。
その日の退勤後、画面と利用者向けの手順を設計する社員の澪が、片付いた会議机を借りてもよいかと聞いた。航が頷くと、彼女は自分の鞄から、紙を重ねて作った立体地図を出した。紙も道具も私費で買い、休日に作ってきた個人の作品だった。会社の受注には入っていない。
指で坂をたどれる地図だった。
真帆が、修復の仕事で知り合った資料館の人を紹介してくれることになっているという。客から頼まれた画面とは別に、澪が休みの日に作り続けているものだった。
航は、会社を残せてよかったと思った。
その夕方、真帆に電話をかけ、海への旅行を延期してほしいと言った。
彼女には、修復した航海日誌を資料館へ返す仕事があった。自分の分の予約は残すと言った。
「一人で大丈夫?」
「日誌と二人」
真帆は少し笑った。彼女は、古いものを預かるときだけ、抱える箱の持ち方が変わる。
航も笑い、秋には、と言いかけた。
「今は決めないでいいよ」
真帆に言われ、口を閉じた。
家へ帰ると、台所には、先週買った旅行用の小さい醤油があった。宿で釣った魚を食べられるらしい、と真帆が買ったものだった。

どこにも行かない醤油を、航は棚の奥へ入れた。