看板のない朝13 / 17

第十二章六時の写真

二月、完成の翌週、水原は発注元の会議室で、百舎の仕事を褒めた。

約束した範囲は動いている。現場間の確認が速くなった。日々の作業で迷う箇所は残るが、引き受け先へ説明できる形になっている。

褒めることと、これまでの協議で決めた負担を超えて、さらに払える金はないことを、彼は同じ席で言った。

完成した仕事を褒める水原と、残る費用を聞く航。
役に立った仕事と、払えない費用。

航は礼を言った。

契約代金の残額を受け取る予定は決まった。しかし、完成までに増えた人件費、外へ頼んだ仕事、延びた期間の家賃や移動費を埋める額ではなかった。早く払ってもらった金も、もう支払いに使われていた。保守は引き受け先へ渡すため、完成後の仕事を続けて不足を取り戻す見通しもない。仕事を完成させたことと、かかった費用を払えることは、同じにはならなかった。

百舎へ戻ると、理恵は費用をまとめた表の写しを作り、八月の見積もりより増えた分を一行ずつ外して比べた。実際の支払い記録を消すのではなく、どこで見込みが崩れたかを航と確かめるためだった。

「八月の見積もりどおりなら、残ります。でも、これは、起きたことを抜いた表です」

航は頷いた。

「九月に止めていたら」

言いかけると、理恵は別の紙を出した。当時の残高と、まだ契約を止めたり変更したりできた支出を残してある。今より傷は小さかったかもしれない。会社が必ず残れたとまでは、この紙から言えない。

「それは、分けて考えます。知らずに見積もったことと、知ってから待ったことは」

航は二枚を並べた。

二月の百舎で、航と理恵が二枚の費用表を並べる。実際に起きた支出の記録は別に残っている。
知らずに見積もったことと、知ってから待ったこと。

表の写しの上なら、なくせた。

予定を超えてかかった費用を外すと、数字は八月に考えていた額へ近づく。増えたのは、一月へ延びた分だけではない。秋から、調査や作り直しに使う時間が見積もりを超えていた。航は九月からの表をもう一度たどった。阿部が初めて一人で設定を確かめた日も、澪が最後に帰った日も、修司が断りの電話をかけた日も、その中にあった。表の写しから費用を外せても、そのあいだにした仕事まで、しなかったことにはできない。

理恵は、実際にかかった費用の表へ戻した。支払いを遅らせてよい理由には、どちらの表も使わなかった。

会社を閉じることを、皆へ正式に伝えたのは、その翌日だった。

朝、航は全員へ渡す説明を机へ並べた。事業を続けられない。残る保守の引継ぎと片付けを終えて事務所を返す。雇用が終わる日、最後までの給与と必要な書類は、一人ずつ確かめる。

まだ相談を続けています、とだけ書けば、今日も先へ延ばせた。小池の次の職場が決まってから伝えれば、相手の不安を少し減らせるかもしれない。それは同時に、探すための時間を、また自分が止めることだった。

航は閉じるという文を残し、日付を入れた。開き直した表に、続けられる収入はなかった。賄賂を断った日だけを、この日付の理由にしてはならなかった。未調査の条件を受け、分かったことを知らせず、払えると伝えてから留めた時間が、この紙まで続いていた。

皆が座ると、航は説明を読み始めた。会社が成功した話からは始めなかった。自分が決めたことと、これから一緒に確かめてほしいことを分けて話した。

事業終了の日付を入れた説明を、社員へ読む航。
次が決まるまで、知らせずにはおかない。

誰も驚かなかった。

それで受け入れられたのだと、航は思いかけた。阿部は子どもの予定を書く手帳を、小池は面談の日が入った手帳を開いていた。驚かずに準備してきたことと、失う生活を平気で手放せることは違った。

小池は、最後の勤務日を確認した。阿部は次の仕事の面接に使える日を聞いた。岡野は、引き受け先から声がかかっていることを話した。

航は、よかった、と言った。

岡野は頷かなかった。

「行くかは、まだ決めてません。今度は、やりたいことを最初にもう少し聞きます」

理恵は、自分の仕事が残る日を示した。閉じた翌日に帳面をしまって終わりにはできない。外の担当者へ渡すものと、自分が働く時間を分ける必要があった。

「私も、次の仕事を始めます。水曜の午後は来られません」

次の仕事と、来られない後始末の時間を伝える理恵。
残る人にも、その人の終業時刻がある。

航は手帳へ書いた。

終わらせるために残ってくれる人にも、その人の終業時刻があった。

金曜の夕方、吉沢から写真が届いた。

食卓に小さな茶碗が二つあった。片方は子どものものらしかった。夕飯を一緒に食べられた、おかげさまで、という文がついていた。

航は画面を消した。

何もかも遅い、と一瞬思った。

食べられましたという一通が、会社の家賃になればいい。うまくいきましたという声が、小池の来月の席になればいい。

そう思った自分を、すぐに恥じることもできなかった。

しばらくして、写真をもう一度開いた。

茶碗の奥に、半分に切ったコロッケがあった。子どもは好きな方を先に食べたらしく、衣だけになった端が残っていた。

この人は、航を苦しめるために食卓を送ってきたのではない。

そうでないことが、ありがたく、腹立たしく、悲しかった。

航は、うれしいです、と打ちかけた。

消した。

写真をありがとうございます。皆にも見せます。

それだけを送った。

修司が戻ってくると、航は写真を見せた。

修司は長く見ていた。

「食ってるな」

「うん」

二人は、それ以上の意味をつけなかった。

夕方の事務所で、二つの茶碗とコロッケが写った携帯の写真を、航と修司が並んで見ている
届いた食卓を、二人で見る。
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目次

BAD · 看板のない朝

  1. 01序章|折り目のある紙
  2. 02第一章|三つの青
  3. 03第二章|六時の店
  4. 04第三章|同じに見えた九つ
  5. 05第四章|冷蔵庫の裏
  6. 06第五章|渡せる時間
  7. 07第六章|椅子の代金
  8. 08第七章|ここから止める費用
  9. 09第八章|向こうの机
  10. 10第九章|待つ人の順番
  11. 11第十章|十一月三十日
  12. 12第十一章|完成するまでの夜
  13. 13第十二章|六時の写真
  14. 14第十三章|百舎御中
  15. 15第十四章|取りに来る人
  16. 16第十五章|壁の四角
  17. 17終章|看板のない朝
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