終章看板のない朝
翌朝、航はいつもの時刻に目を覚ました。
妻の真帆は、月の半分を過ごす県外の工房にいた。修復を任された古文書の乾く時刻に合わせ、前日から泊まっていた。百舎の片付けには来なかった。家を出る前に航の帰る時刻を確かめ、夕飯の残りを冷蔵庫へ入れておいてくれた。
卓上の暦には、次に戻る日が書いてある。消していない予定だった。だからといって、その日まで眠っていればよいわけでもなかった。
航は顔を洗い、シャツに袖を通した。
以前の取引先が、保管していた伝票の照合を数日だけ頼んでくれた。会社の代表として受ける仕事ではなかった。担当者の指示を聞き、一日分ずつ働く。
長く続くかは決まっていない。
初日の持ち物に、昼食、とあった。
冷蔵庫を開けると、卵が一つあった。鍋でゆでた。殻をむくと白身が少し一緒にはがれ、でこぼこになった。
航はそれを、小さな容器へ入れた。冷凍してあったご飯も温め、別の容器へ移した。棚を開けると、去年の海への旅行に買った小さい醤油があった。封を確かめ、今日の卵へ少し使った。海へ行った代わりにはならなかった。

湯呑みの新聞紙を取った。
薄い青だった。
欠けていないのを確かめ、流しで洗った。湯を注ぐと、底にたまっていた水が動いた。
携帯電話を開いた。
百舎を閉じると伝えたあと、届いたまま読めなかった連絡が三つあった。一つずつ開いた。返事が必要なものへは、今分かる範囲を書いた。
樋口への連絡は午後だった。
鞄へ、百舎の未払いと借入の協議に使う書類、それから新しい仕事で使う筆記具を入れた。五百万円をどう扱うかも、樋口へいつ何を伝えられるかも、まだ終わっていなかった。書類を忘れないよう確かめると、もう一度確かめたくなった。三度目はやめた。
真帆から、起きた、と連絡が来た。
航は、今日から、と返した。
知ってる、と返事が来た。
少しして、弁当持った? と続いた。
持った、と送ってから、まだ台所に置いてあるのを思い出した。
容器を鞄へ入れた。
玄関で靴を履き、鍵を持った。会社の鍵がなくなった束は軽かった。手の中で量るように動かし、それをやめた。
駅までは、いつもと同じ道だった。
改札を抜けたあと、いつもの乗り場へ足が向いた。
階段の手前で止まった。
行く先を手帳で確かめ、反対側へ歩いた。

誰も呼び止めなかった。
電車を待つ間、昼の休憩に電話をかけられる場所があるか、考えた。午後には、返せていない金の話をしなければならない。午前中は、知らない人に仕事を教わる。
会社がなくなった朝に、会社の続きではない用事があった。
航は手帳を閉じた。
電車が来た。
乗る前に、鞄の中の卵がつぶれないよう、書類を立て直した。
