第十五章壁の四角
三月最後の水曜日、修司は百舎の看板を外すための脚立を持ってきた。現場の仕事と保守の引継ぎは終え、今日は借りていた部屋を片付け、鍵を返す日だった。残った支払いの相談や書類の整理は、ここを出たあとも続く。
電気工事に使うものではなく、家で高い棚へ届くための小さい脚立だった。自分は脚立なしでも届くと言い張っていたが、看板の上のねじには届かなかった。
「脚立込みで、一メートル八十か」
航が言うと、修司は、今それか、と笑った。
ねじの一本が固かった。
航が下から押さえ、修司が上で回した。看板は薄い板なのに、壁から離れかけると急に重く感じた。
「そっち、持った?」
「持った」
「ほんとに?」
「持ってるって」
最後のねじが抜けた。
二人で板を下ろした。
壁に、塗装されていなかった四角が残った。看板が隠していた場所だけ、少し違う色だった。

航はそこを長く見た。
会社の名前がなくなれば、自分が見えなくなると思っていた。
実際には、取った場所が見えた。
修司が看板の裏を拭いた。埃が掌へついた。
「すごい仕事だったな」
航は頷きかけた。
小池のまだ決まっていない仕事。樋口の古い車。阿部の早い電車。理恵が最後まで何度も上げた眼鏡。
それらの上に、よい思い出を置くことにならないかと思った。
修司は板を立てかけ、掌の埃を払った。
「十二拠点のことだよ」
「……そうだな」
航は答えた。
「すごかった」
言うと、胸が痛んだ。
誇らしいことを話して、こんなに痛むことがあるのだと知った。
二人は上へ戻った。
部屋には、引き取りを待つ机が一つと、掃除道具が残っていた。創業の日と似ていると思いかけたが、違った。これから何でもできる空き方ではなかった。

修司は濃い青の湯呑みを新聞紙で包んだ。航の薄い青も、同じ束の新聞紙へ置いた。
「それ、俺の鞄には入らない」
修司が言った。
「分かってる」
航は自分の分を包んだ。
修司の職業訓練所の一月の席は、別の人で決まっていた。春からの短い実習には声をかけてもらったが、それだけでは足りない。知人の工場で、保守の仕事を増やすという。
「何曜日に行くの」
航が尋ねると、修司は一冊の手帳を出した。短い実習の期間と、工場へ入る日が別の色で書かれていた。
「一月の話のときは、訓練所の仕事で一週間の組み方を決められた。今は、こっちの都合が合う日と、あっちで人が要る日を合わせる」

空いている日はあった。仕事が自由に選べる余裕ではなく、まだ埋まっていない収入の日だった。航は自分の会社へまた呼べると考えることもできなかった。会社を返す日だった。
「先週、訓練所で準備を見た。俺が考えてたものと、違う順だった」
修司は続けた。別の人が、既に一月から教えている。生徒の迷うところも、その人が聞いていた。
「次から、元の順に戻そうとは言わないよ。今の順を、俺も覚える」
訓練所の席が戻ったのではなかった。自分が始められたはずの時期を、別の人が生きた場所へ、今度は短く入る。それでも、その仕事はしたかった。
航は、あのとき一月までと言わせて悪かった、と言った。
「お前だけで、俺の返事を決めたわけじゃない。でも、延びた理由には、お前の三週間もある」
修司は手帳をしまった。
「俺が残ると決めたから、なくなった話にはしないでくれ。俺が教えるのを好きなのも、今これだけじゃ足りないのも、そのままにしといてくれ」
航は頷いた。これからの工場の仕事を褒めれば、前の仕事を逃した分までよくなったという話へ持っていけた。そういう返事はしなかった。
「また訓練所へ行ければ、それでうまく教えられるって話でもないからな」
修司は工具箱を閉じた。
航は、その工具箱の取っ手を一度持った。重かった。
階段を下りるのを手伝った。

印刷所の主人へ鍵を返すと、主人は紙に受領の日付を書いた。最後に、うまいこと言えんけど、と言いかけ、そのまま黙った。

「長く借りて、ありがとうございました」
航は頭を下げた。
「うん」
主人は答えた。二階の灯りを指さし、消したかと聞いた。
航は一度だけ、階段の上を見た。消してきたと答えた。夏の展示で見た紙の家は、どれも明るかった。自分の部屋の灯りを残すために、いくつもの家の予定を動かしてしまった。今ここを暗くしたからといって、向こうの家がすぐ明るくなるわけではなかった。
修司は車に工具を積み、航は駅へ向かうことにした。
「木曜、樋口さんと話したあと、連絡する」
航が言った。
「分かった。夕方は仕事だから、遅くなる」
「うん」
修司が運転席へ乗った。
航は見送った。
携帯電話には、会社の名前がまだ登録されていた。消す必要のある場所と、記録として残す場所があった。それも、あとで確かめなければならなかった。
帰りの電車で、薄い青の湯呑みが鞄の中で鳴った。
航は手を入れ、新聞紙の隙間を押さえた。
そのころ、小池は応募先からの連絡を読んでいた。面談へは進めるが、勤務開始日も、採用も決まっていなかった。次の朝に着る服を用意し、交通費を鞄へ入れた。会社の最後の日に、一人ずつ次の行き先が揃うことはなかった。
阿部は翌朝の電車の時刻を、玄関へ置いた。子どもが眠る前に、明日は先に出ると話した。迎えは行くよ、と続けた。百舎へ通っていた日と同じ約束を守るために、家を出る時刻だけが早くなった。
理恵は次の職場へ持っていく物を揃え、百舎の記録を外の担当者へ渡す日を別の紙で確かめた。残る相談に来られない時間も伝えてあった。会社が終わる日を、全員の時間がまた自由に使える日にはしなかった。
航の鞄で湯呑みはもう鳴らなかった。新聞紙を押さえる手を離し、明日の勤務先の場所を開いた。