第十三章百舎御中
二月が終わるころ、百舎の机には、持ち主の名前を書いた紙が増えた。
売れるものは売る。その代金の扱いも相談していたので、思い出があるからと社員へ好きに配ることはできなかった。会社の物と、最初から個人の物だった工具を、一つずつ分けた。澪が地図を広げた机には、引き取りの日付を書いた紙を貼った。あの作品は澪の物で、この机は会社の物だった。最初から別だった二つを、航は指で確かめるように見た。
修司の濃い青の湯呑みは、机の上に残った。航の薄い青も残っていた。真帆の使った中間の青は、会社で働かない彼女が数年前に家へ持ち帰り、台所で使っている。三つを会社の備品にはしていなかった。
引出しの底から、修司が自分で払った百円の湯呑み三つの領収書が出てきた。印字は薄れ、余白に手で書いた、お祝いだから、という字が残っている。航は、未払いの額を書いた紙へ紛れないよう、小さな封筒に入れて修司へ返した。

小池は、次の勤め先がまだ決まっていなかった。
二月のある朝、小池は面談へ行くため、会社へ出る日より早く家を出た。知っている駅を通り過ぎ、知らない建物の入口で、誰の名前を呼べばよいか確かめた。百舎では、いつもの机へ座るまでに考えなかったことだった。

受付で渡された紙に、退職の理由を書いた。事業終了。短い欄にはそれだけで入った。面談では、九月から何をしていたか、もう少し聞かれた。
会社の事情を説明し始めると、相手は分かりましたと頷き、次の質問へ進んだ。小池は資料の袋へ手を伸ばしかけた。自分が説明の順番を変えた紙を持ってきたが、まだ何を変えたか話していなかった。
帰りの電車で、説明の最初の文を自分の手帳へ書いた。配送の現場で、初めて使う人に操作を説明しました。そのあとは、どこまで話せばよいのだろう。百舎の名前を先に出すと、その会社がなくなる理由を聞かれる。出さなければ、実際に働いた場所がなくなる。
面談の結果を待つあいだにも、来月の家賃と電気は払う。小池は、何か月なら今の条件で探せるか計算した。次の説明会に使う服を買うつもりで見ていた一覧を閉じた。面談には、いま持っている服で行けた。

航が紹介できる相手を伝えると、彼女は履歴書を送った。その会社からは断られた。
「社長が悪いわけじゃないです」
小池は言い、続けて、違うな、と首を振った。
「断られたのは、です。仕事を探さなきゃいけないのは、ここがなくなるからです」
航は頷いた。
「そうだね」
彼女は履歴書を鞄へ入れた。
「百舎でやったこと、話してもいいですか」
航は顔を上げた。
「もちろん」
「会社がなくなることも聞かれるんです。それで、説明が長くなって。私が何をしたかまで行く前に、次の質問になるので」
航は、自分が会社を紹介するときの話を思い出した。創業、仲間、四月の危機、立て直した仕事。どれも自分の順番だった。
小池は自分の順番で話す練習をしたかった。
彼女が作った説明書を机へ並べた。最初の頁と、最後に直した頁。どこを変え、相手がどう使ったか。航が百舎の事情を付け足しかけると、小池は、そこは今なくて大丈夫です、と言った。

航は口を閉じた。
練習のあと、小池は紙を揃え、もう一度、最初の文から話した。客が同じ質問を二度したので、説明の順を変えた。そのあと一人で確かめてもらえた。今度は会社が閉じる話へ戻らず、した仕事の話を終えられた。
「それで、採ってもらえるかは分からないですけど」
小池は言った。
「分からない。でも、今日の説明は、あなたが何をしたか分かった」
航は答えた。守れると約束することは、もうできなかった。
その夜、小池は別の応募先へ資料を送った。一通を送れば、次の日の仕事が決まるわけではない。返事を待つ欄を手帳へ作り、翌日の百舎の勤務も、その横へ残した。新しい仕事へ行く準備と、まだ終わっていない引継ぎが、一冊に入っていた。
翌週、阿部が次の職場を決めた。通勤は長くなった。子どもの迎えに間に合うよう、出勤と退勤を早めてもらったという。
面接では、何時からなら来られるかと聞かれた。阿部は、迎えの時刻より先に退勤できる時間を答えた。相手はその分、朝を早くできるか尋ねた。仕事の内容はよかった。通勤もできない距離ではない。毎朝一本早い電車に乗ることになった。
家で時刻表を広げると、朝、子どもと一緒に出る時間には合わなかった。誰が送る日かを、家族と分け直した。帰りは、駅の階段を使ってすぐ乗り換えれば、迎えに間に合う。一本遅れたときは、先に電話して頼む相手を決めておく。

「今の会社には、もう行かないの」
子どもに聞かれ、阿部は、もう少し行く、そのあと別のところへ行くと答えた。分かるまで同じことを聞かれた。子どもが寝てから、定期代と一日の長さを計算した。仕事が決まった安心と、今までの朝が終わる寂しさは、別にあった。
「全部同じには、できなかったです」
阿部は新しい時刻表を見せた。
「よかったねって、家でも言われました。仕事は、決まったので」
阿部は時刻の印を指した。
「でも、子どもが起きる前に出る日が増えます。間に合うように選んだんですけど、同じ暮らしが見つかったわけじゃないです」
航は、分かる、と言いかけ、どの時刻が迎えの日か尋ねた。阿部は二つの駅を指した。会社の表の上では、次の職が決まった一人になっていた。目の前の紙では、毎朝と毎夕に、一つずつ余裕がなくなっていた。
理恵は、それを拡大して印刷した。折るところを先に決めてから、大きさを合わせた。
航は、その手順をどこかで見たと思った。
阿部は紙をポケットへ入れ、一度取り出して、時刻が表へ出ることを確かめた。これなら見られます、と言った。理恵は頷いた。見やすくする手伝いはできた。長くなった通勤を、その紙で短くはできなかった。

澪からは、島の地図の試作が届いた。会社が終わると知らせた返事と一緒だった。
手紙の最後に、開館の準備があり、そちらへ片付けに行くことはできません、とあった。港から遠い部屋には、近所で借りた自転車を置けたとも書いてあった。
手伝ってほしいと頼んだわけではなかった。
それでも彼女は、その行を自分のために書く必要があったのだろう。続く一行には、使っていた引出しに私物が残っていたら、送料を負担するので送ってください、とあった。
紙の地図には、冬の海の音を聞ける展示の場所が印されていた。同封の説明には、その場所で島の波音を再生するとあった。録った日は十二月二十七日だった。
百舎では、年内に終わらない仕事を数えた日だった。
その同じ日に、波へ向かってマイクを押さえている人がいた。
航は手紙を共有の棚へ置いた。小池は地図を見て、いつか行ってみたいと言った。理恵は船が揺れるかを気にした。
百舎御中、と書いた封筒だけを、航は自分の机へ残した。
*
その手紙を書いた日も、澪は朝、借りた自転車へ材料箱を固定していた。最初に見た部屋なら歩けた距離を、海からの風を受けながら通う。道を覚え、天気の悪い日は一便早いバスを選ぶ。新しい暮らしは、その都度、自分で作っていた。

資料館で子どもが地図へ触ると、澪は一緒に道を確かめた。その時間は好きだった。港に近い部屋を失ったから、この仕事まで悪い選択だったことにはならなかった。
夕方、家へ戻ると、材料をしまう棚の幅が足りなかった。箱を一段ずつ降ろし、明日使う分を出した。航に返事をしてほしかった金曜が、こんな夕方に、まだ残ることがあった。
会社が終わると聞いたからといって、あの部屋も終わった話にはならない。澪は手紙で自分の予定を先に書き、最後に、ここで引き続き作っています、と添えた。助けたい気持ちがなくなったのではない。自分の仕事を止めて行くことまで、優しさの証明にしなくてよかった。