第十二章六時の写真
二月、完成の翌週、水原は発注元の会議室で、百舎の仕事を褒めた。
約束した範囲は動いている。現場間の確認が速くなった。日々の作業で迷う箇所は残るが、引き受け先へ説明できる形になっている。
褒めることと、これまでの協議で決めた負担を超えて、さらに払える金はないことを、彼は同じ席で言った。

航は礼を言った。
契約代金の残額を受け取る予定は決まった。しかし、完成までに増えた人件費、外へ頼んだ仕事、延びた期間の家賃や移動費を埋める額ではなかった。早く払ってもらった金も、もう支払いに使われていた。保守は引き受け先へ渡すため、完成後の仕事を続けて不足を取り戻す見通しもない。仕事を完成させたことと、かかった費用を払えることは、同じにはならなかった。
百舎へ戻ると、理恵は費用をまとめた表の写しを作り、八月の見積もりより増えた分を一行ずつ外して比べた。実際の支払い記録を消すのではなく、どこで見込みが崩れたかを航と確かめるためだった。
「八月の見積もりどおりなら、残ります。でも、これは、起きたことを抜いた表です」
航は頷いた。
「九月に止めていたら」
言いかけると、理恵は別の紙を出した。当時の残高と、まだ契約を止めたり変更したりできた支出を残してある。今より傷は小さかったかもしれない。会社が必ず残れたとまでは、この紙から言えない。
「それは、分けて考えます。知らずに見積もったことと、知ってから待ったことは」
航は二枚を並べた。

表の写しの上なら、なくせた。
予定を超えてかかった費用を外すと、数字は八月に考えていた額へ近づく。増えたのは、一月へ延びた分だけではない。秋から、調査や作り直しに使う時間が見積もりを超えていた。航は九月からの表をもう一度たどった。阿部が初めて一人で設定を確かめた日も、澪が最後に帰った日も、修司が断りの電話をかけた日も、その中にあった。表の写しから費用を外せても、そのあいだにした仕事まで、しなかったことにはできない。
理恵は、実際にかかった費用の表へ戻した。支払いを遅らせてよい理由には、どちらの表も使わなかった。
会社を閉じることを、皆へ正式に伝えたのは、その翌日だった。
朝、航は全員へ渡す説明を机へ並べた。事業を続けられない。残る保守の引継ぎと片付けを終えて事務所を返す。雇用が終わる日、最後までの給与と必要な書類は、一人ずつ確かめる。
まだ相談を続けています、とだけ書けば、今日も先へ延ばせた。小池の次の職場が決まってから伝えれば、相手の不安を少し減らせるかもしれない。それは同時に、探すための時間を、また自分が止めることだった。
航は閉じるという文を残し、日付を入れた。開き直した表に、続けられる収入はなかった。賄賂を断った日だけを、この日付の理由にしてはならなかった。未調査の条件を受け、分かったことを知らせず、払えると伝えてから留めた時間が、この紙まで続いていた。
皆が座ると、航は説明を読み始めた。会社が成功した話からは始めなかった。自分が決めたことと、これから一緒に確かめてほしいことを分けて話した。

誰も驚かなかった。
それで受け入れられたのだと、航は思いかけた。阿部は子どもの予定を書く手帳を、小池は面談の日が入った手帳を開いていた。驚かずに準備してきたことと、失う生活を平気で手放せることは違った。
小池は、最後の勤務日を確認した。阿部は次の仕事の面接に使える日を聞いた。岡野は、引き受け先から声がかかっていることを話した。
航は、よかった、と言った。
岡野は頷かなかった。
「行くかは、まだ決めてません。今度は、やりたいことを最初にもう少し聞きます」
理恵は、自分の仕事が残る日を示した。閉じた翌日に帳面をしまって終わりにはできない。外の担当者へ渡すものと、自分が働く時間を分ける必要があった。
「私も、次の仕事を始めます。水曜の午後は来られません」

航は手帳へ書いた。
終わらせるために残ってくれる人にも、その人の終業時刻があった。
金曜の夕方、吉沢から写真が届いた。
食卓に小さな茶碗が二つあった。片方は子どものものらしかった。夕飯を一緒に食べられた、おかげさまで、という文がついていた。
航は画面を消した。
何もかも遅い、と一瞬思った。
食べられましたという一通が、会社の家賃になればいい。うまくいきましたという声が、小池の来月の席になればいい。
そう思った自分を、すぐに恥じることもできなかった。
しばらくして、写真をもう一度開いた。
茶碗の奥に、半分に切ったコロッケがあった。子どもは好きな方を先に食べたらしく、衣だけになった端が残っていた。
この人は、航を苦しめるために食卓を送ってきたのではない。
そうでないことが、ありがたく、腹立たしく、悲しかった。
航は、うれしいです、と打ちかけた。
消した。
写真をありがとうございます。皆にも見せます。
それだけを送った。
修司が戻ってくると、航は写真を見せた。
修司は長く見ていた。
「食ってるな」
「うん」
二人は、それ以上の意味をつけなかった。
