看板のない朝10 / 17

第九章待つ人の順番

会社を閉じるかもしれないと伝えた次の週、黒崎が、昼に外で会おうと言ってきた。会社の近くの食堂だった。航は壁側に座り、黒崎は二人分の定食を頼んだ。

発注元では、なぜ切り替えが延び、追加の費用が要ったのかを調べていた。水原が集めた百舎からの報告も、その対象だった。

「金を渡せば、九月の報告の件を不問にする人間がいる」

黒崎は湯呑みをずらし、航を見た。

「先方の調査に口を出せる立場だ。保守を君のところへ残すよう働きかけてもらう。君が会社として引き受けるなら、話をする」

航は、味噌汁の蓋へ手をかけたまま止まった。

定食の席で、賄賂と責任転嫁の提案を聞いて止まる航。
買い戻せるのは、傷のない会社ではなかった。

「賄賂ですか」

「そうだ。払って終わりとは思うな。次に向こうから頼まれることもある」

黒崎は、都合のいいことだけを並べて売るつもりもないようだった。航は、来春も小池の机があり、岡野が共通部分を作り、理恵がいつもの眼鏡を上げる部屋を思い浮かべた。払えば、その部屋を買い戻せるかもしれない。

「九月の説明は」

「現場の責任者が問題を抱え、代表へ上げるのが遅れた、とまとめる。修司君にも飲んでもらうことになる。彼に残る仕事を用意すればいい」

修司は一週間待つよう頼まれ、そのあとも報告を出せと言っていた。航が削った二行は、彼が書いたものだった。

箸袋に油の染みがついた。運ばれた皿の端が触れたのだと分かるまで、航はそこを見ていた。

賄賂を断れば保守が戻らない、という話は、もう分かっていた。受け取れない未来の売上だけでなく、既に払えていない請求もある。自分が断ることで、今度こそ会社を閉じるのだと感じた。

九月に消した二行を出したあと、水原は保守を別の会社へ任せると決めていた。資金が足りなくなった日も、それより前からあった。今、黒崎が置いたのは、傷のない会社へ戻る道ではない。修司の名でその傷を覆って、同じ机を使い続ける道だった。

航は、修司へこの条件を頼む言葉を考えた。残る仕事を渡す。生活を守るためだと話す。彼が昔ベンチで眠っていたことまで持ち出せば、断りにくくなるだろう。

相手を断りにくくする言葉を知っている自分が、怖かった。九月に、自分もその言葉で一週間をもらった。今度は、その先の責任まで渡そうとしていた。

「それをやれば、彼は、あの会社で起こったことを自分の言葉では話せなくなる」

「会社を残すためなら、頼めることはあるだろう」

「残すのは、僕の席です」

声に出すと、理想の職場よりずっと小さいものだった。自分の席なら捨てられる、と簡単に思えたわけではない。失ったあとに何をするか、まだ答えはなかった。

「払いません。報告を止めたのは僕です」

昼の食堂で、航が壁側の席から黒崎へ顔を上げる。二人分の定食の間に、油の染みた箸袋がある。
自分の席を残すための金を、払わない。

黒崎は黙って蓋を取った。定食から湯気が出た。

「四月にも、似たことを言ったな」

「四月は断りました。九月は、あなたの言うとおりに待ちました。僕がそう決めた。そこまで出します」

黒崎の箸が止まった。航は自分の分の伝票を頼み、食べ終えてから払った。

午後、修司に提案の内容も含めて話した。修司は、代わりに罪を引き受けると申し出なかった。

「断ったからって、俺が待った三週間が戻るわけじゃない」

「分かってる」

「分かってるかは、これから見てる」

二人で発注元の社内調査の担当者へ送る正式な説明には、報告の原文と送信した文を添え、航が留めた日付を書いた。水原へ話した内容を、調査でも変えなかった。引継ぎをどう終えるかの協議は続いた。保守を百舎へ戻すという話にはならなかった。

送る前、修司は日付を一つずつ見た。最初の報告を作った日、航が削った文を送った日、全体へ知らせた日。航は、代表が判断して留保した、と自分の名の上に書いた。

正式な説明の原文と日付を確かめる修司と、自分の名を書く航。
止めた代表の名を、残す。

その一行をなくせば、修司にも判断の責任がある説明へ戻せた。送信した時刻も、発注元に届いた記録も、いまから人の名へ書き換える理由にはならなかった。

航は添付を確かめ、送った。

正確な資料を送った航の横で、修司は次の現場の準備へ戻る。
礼を受け取るための訂正ではない。

修司はありがとうとは言わなかった。机へ自分の写しを戻し、明日の現場の準備を始めた。航はその無言を受け取った。正確に出すことは、礼をもらうための新しい親切ではなかった。

その説明を送った翌日、岡野が航の机へ来た。まだ十一月のうちに、残る仕事の日程を固める必要があった。

共通部分を作り直したい、と言った。

拠点ごとに足してきた処理を整理し、曜日や荷物の数え方が違っても、同じ部分を使って動かせるようにしたい。そうすれば、一か所を直すたびに別の拠点を確かめ直す手間を減らせる。元の計画でやりたかった仕事だった。ここまで直したものも、新しい共通部分へまとめて残せる。

航は図を見た。魅力のある提案だった。

「どのくらいかかる」

岡野は答えた。

その期間を挟むと、今残っている移行の準備が止まる。引き受け先にも、新しい形を覚えてもらう必要がある。

「今は、できない」

航は言った。

図を戻す前に、残る給与と移行の日付を見せた。ここへ開発の週を足せば、合意した説明の日が動く。その分の費用と、待たせる人が増える。七か所を見ないまま受けたときのように、自分たちなら埋められるとだけ言うことはできなかった。

岡野は日付の意味を分かったうえで、図を押さえていた。分からないから反論しているのではない。その日付までに、自分が作りたかったものの場所がなくなった。

岡野は図を動かさなかった。

「最初からこれを作る時間があれば、こんなに直す必要はなかったんです」

「そうかもしれない」

「そうかもしれない、で終わるんですか」

航は答えられなかった。

岡野は、自分が入ったときの話をした。全部が見えるところで、大きな仕組みを作りたかった。現場ごとの差も、分かってから作れば面白い。毎晩同じところを直し、次の朝に別の場所から呼ばれるだけで、冬になるとは思っていなかった。

「三拠点のとき、僕も言いました。共通にすればいけるって。でも、こんな終わり方に賛成したわけじゃない」

航は、分かっている、と言いそうになった。

図に描かれた線は、きれいだった。岡野は休日にも考えてきたのだろう。線の端へ、まだ答えの出ていない箇所が小さく書かれていた。

「その案を、この日程には入れられない。次の職場や仕事で、自分が何を考えて作ったかを説明できるように、外へ出していい範囲を先方と確かめる」

岡野は目を伏せた。

「……それは、お願いします」

彼は資料を持って戻った。午後はほとんど口を開かなかった。

その夜、岡野は自宅で試作の画面を開いた。拠点名を仮の名前に置き換えた、誰にも使われていない画面だった。三つ目の箱数を変えると、別の欄へ同じ数が渡る。そこまでは動いていた。

自宅で未完成の試作を開き、翌日の確認表にも戻る岡野。
必要な直しと、作りたかったもの。

九月の予定には、この続きを会社で作る週があった。その週に実際にしていたのは、現場の紙をもう一度受け取り、拠点ごとに別の直しを足す仕事だった。誰かが必要とした直しだった。意味がなかったわけではない。だから、全部を無駄だったと言って捨てることもできなかった。

岡野は翌日の移行で確かめる項目を開いた。こちらは明日の朝、人が使う。試作のほうへ戻りたいと思いながら、確認の順を一つ足した。

もっと早く強く言えばよかったのか、と考えた。共通にできると言ったのは自分でもある。だが、その言葉が、未調査の場所まで同じだと約束することになってはいなかった。

航へ、実績として説明できる範囲の確認は、いつ返事をもらえますか、と送った。言いたいことはほかにもあった。まず、自分がここでした仕事を、次の場所で小さく説明し直さずに済むようにしたかった。

翌朝、航は先方へ問い合わせた日と、返事を確認する日を伝えた。図を完成できる返事ではなかった。岡野は日付を手帳へ入れた。それから、昨夜直した確認表を机へ出した。

夕方、小池が相談に来た。翌日の客への説明を一人でやりたいという。航が代わりに説明することが増え、自分が覚えたかどうか確かめられない。

航は、分かった、と答えた。

翌日の説明では、小池が一か所、画面の操作を間違えた。

客は気づき、手が止まった。航は横から言い直そうとして、口を閉じた。小池が自分で戻し、今のところをもう一度見てください、と言った。

説明中の操作の誤りを、自分で戻して説明し直す小池。
任せることも、相談して決める。

終わってから、彼女は航を責めた。

「分かってたなら、言ってくださってよかったです」

航は驚いた。

任せることは黙ることだ、と、また勝手に決めていた。

二人で駅まで歩き、どこは小池が直し、どこは横から言ってほしいかを話した。風が強く、彼女は説明書を閉じても、鞄へ入れる前に頁をめくられてしまった。開いた紙を何度も押さえ直した。

「次には、うまくできます」

小池は言った。

次、と航は思った。

百舎で用意できる次が、少なくなっていた。

駅の売店でクリップを一つ買い、小池へ渡した。彼女はすぐに紙を留めた。役に立ったというだけの顔だった。

風の強い駅前で、小池が航から受け取ったクリップで説明書を留めている。
今日もできる、そのくらいのこと。

そのくらいのことは、今日もできた。

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目次

BAD · 看板のない朝

  1. 01序章|折り目のある紙
  2. 02第一章|三つの青
  3. 03第二章|六時の店
  4. 04第三章|同じに見えた九つ
  5. 05第四章|冷蔵庫の裏
  6. 06第五章|渡せる時間
  7. 07第六章|椅子の代金
  8. 08第七章|ここから止める費用
  9. 09第八章|向こうの机
  10. 10第九章|待つ人の順番
  11. 11第十章|十一月三十日
  12. 12第十一章|完成するまでの夜
  13. 13第十二章|六時の写真
  14. 14第十三章|百舎御中
  15. 15第十四章|取りに来る人
  16. 16第十五章|壁の四角
  17. 17終章|看板のない朝
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