第九章待つ人の順番
会社を閉じるかもしれないと伝えた次の週、黒崎が、昼に外で会おうと言ってきた。会社の近くの食堂だった。航は壁側に座り、黒崎は二人分の定食を頼んだ。
発注元では、なぜ切り替えが延び、追加の費用が要ったのかを調べていた。水原が集めた百舎からの報告も、その対象だった。
「金を渡せば、九月の報告の件を不問にする人間がいる」
黒崎は湯呑みをずらし、航を見た。
「先方の調査に口を出せる立場だ。保守を君のところへ残すよう働きかけてもらう。君が会社として引き受けるなら、話をする」
航は、味噌汁の蓋へ手をかけたまま止まった。

「賄賂ですか」
「そうだ。払って終わりとは思うな。次に向こうから頼まれることもある」
黒崎は、都合のいいことだけを並べて売るつもりもないようだった。航は、来春も小池の机があり、岡野が共通部分を作り、理恵がいつもの眼鏡を上げる部屋を思い浮かべた。払えば、その部屋を買い戻せるかもしれない。
「九月の説明は」
「現場の責任者が問題を抱え、代表へ上げるのが遅れた、とまとめる。修司君にも飲んでもらうことになる。彼に残る仕事を用意すればいい」
修司は一週間待つよう頼まれ、そのあとも報告を出せと言っていた。航が削った二行は、彼が書いたものだった。
箸袋に油の染みがついた。運ばれた皿の端が触れたのだと分かるまで、航はそこを見ていた。
賄賂を断れば保守が戻らない、という話は、もう分かっていた。受け取れない未来の売上だけでなく、既に払えていない請求もある。自分が断ることで、今度こそ会社を閉じるのだと感じた。
九月に消した二行を出したあと、水原は保守を別の会社へ任せると決めていた。資金が足りなくなった日も、それより前からあった。今、黒崎が置いたのは、傷のない会社へ戻る道ではない。修司の名でその傷を覆って、同じ机を使い続ける道だった。
航は、修司へこの条件を頼む言葉を考えた。残る仕事を渡す。生活を守るためだと話す。彼が昔ベンチで眠っていたことまで持ち出せば、断りにくくなるだろう。
相手を断りにくくする言葉を知っている自分が、怖かった。九月に、自分もその言葉で一週間をもらった。今度は、その先の責任まで渡そうとしていた。
「それをやれば、彼は、あの会社で起こったことを自分の言葉では話せなくなる」
「会社を残すためなら、頼めることはあるだろう」
「残すのは、僕の席です」
声に出すと、理想の職場よりずっと小さいものだった。自分の席なら捨てられる、と簡単に思えたわけではない。失ったあとに何をするか、まだ答えはなかった。
「払いません。報告を止めたのは僕です」

黒崎は黙って蓋を取った。定食から湯気が出た。
「四月にも、似たことを言ったな」
「四月は断りました。九月は、あなたの言うとおりに待ちました。僕がそう決めた。そこまで出します」
黒崎の箸が止まった。航は自分の分の伝票を頼み、食べ終えてから払った。
午後、修司に提案の内容も含めて話した。修司は、代わりに罪を引き受けると申し出なかった。
「断ったからって、俺が待った三週間が戻るわけじゃない」
「分かってる」
「分かってるかは、これから見てる」
二人で発注元の社内調査の担当者へ送る正式な説明には、報告の原文と送信した文を添え、航が留めた日付を書いた。水原へ話した内容を、調査でも変えなかった。引継ぎをどう終えるかの協議は続いた。保守を百舎へ戻すという話にはならなかった。
送る前、修司は日付を一つずつ見た。最初の報告を作った日、航が削った文を送った日、全体へ知らせた日。航は、代表が判断して留保した、と自分の名の上に書いた。

その一行をなくせば、修司にも判断の責任がある説明へ戻せた。送信した時刻も、発注元に届いた記録も、いまから人の名へ書き換える理由にはならなかった。
航は添付を確かめ、送った。

修司はありがとうとは言わなかった。机へ自分の写しを戻し、明日の現場の準備を始めた。航はその無言を受け取った。正確に出すことは、礼をもらうための新しい親切ではなかった。
その説明を送った翌日、岡野が航の机へ来た。まだ十一月のうちに、残る仕事の日程を固める必要があった。
共通部分を作り直したい、と言った。
拠点ごとに足してきた処理を整理し、曜日や荷物の数え方が違っても、同じ部分を使って動かせるようにしたい。そうすれば、一か所を直すたびに別の拠点を確かめ直す手間を減らせる。元の計画でやりたかった仕事だった。ここまで直したものも、新しい共通部分へまとめて残せる。
航は図を見た。魅力のある提案だった。
「どのくらいかかる」
岡野は答えた。
その期間を挟むと、今残っている移行の準備が止まる。引き受け先にも、新しい形を覚えてもらう必要がある。
「今は、できない」
航は言った。
図を戻す前に、残る給与と移行の日付を見せた。ここへ開発の週を足せば、合意した説明の日が動く。その分の費用と、待たせる人が増える。七か所を見ないまま受けたときのように、自分たちなら埋められるとだけ言うことはできなかった。
岡野は日付の意味を分かったうえで、図を押さえていた。分からないから反論しているのではない。その日付までに、自分が作りたかったものの場所がなくなった。
岡野は図を動かさなかった。
「最初からこれを作る時間があれば、こんなに直す必要はなかったんです」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、で終わるんですか」
航は答えられなかった。
岡野は、自分が入ったときの話をした。全部が見えるところで、大きな仕組みを作りたかった。現場ごとの差も、分かってから作れば面白い。毎晩同じところを直し、次の朝に別の場所から呼ばれるだけで、冬になるとは思っていなかった。
「三拠点のとき、僕も言いました。共通にすればいけるって。でも、こんな終わり方に賛成したわけじゃない」
航は、分かっている、と言いそうになった。
図に描かれた線は、きれいだった。岡野は休日にも考えてきたのだろう。線の端へ、まだ答えの出ていない箇所が小さく書かれていた。
「その案を、この日程には入れられない。次の職場や仕事で、自分が何を考えて作ったかを説明できるように、外へ出していい範囲を先方と確かめる」
岡野は目を伏せた。
「……それは、お願いします」
彼は資料を持って戻った。午後はほとんど口を開かなかった。
その夜、岡野は自宅で試作の画面を開いた。拠点名を仮の名前に置き換えた、誰にも使われていない画面だった。三つ目の箱数を変えると、別の欄へ同じ数が渡る。そこまでは動いていた。

九月の予定には、この続きを会社で作る週があった。その週に実際にしていたのは、現場の紙をもう一度受け取り、拠点ごとに別の直しを足す仕事だった。誰かが必要とした直しだった。意味がなかったわけではない。だから、全部を無駄だったと言って捨てることもできなかった。
岡野は翌日の移行で確かめる項目を開いた。こちらは明日の朝、人が使う。試作のほうへ戻りたいと思いながら、確認の順を一つ足した。
もっと早く強く言えばよかったのか、と考えた。共通にできると言ったのは自分でもある。だが、その言葉が、未調査の場所まで同じだと約束することになってはいなかった。
航へ、実績として説明できる範囲の確認は、いつ返事をもらえますか、と送った。言いたいことはほかにもあった。まず、自分がここでした仕事を、次の場所で小さく説明し直さずに済むようにしたかった。
翌朝、航は先方へ問い合わせた日と、返事を確認する日を伝えた。図を完成できる返事ではなかった。岡野は日付を手帳へ入れた。それから、昨夜直した確認表を机へ出した。
夕方、小池が相談に来た。翌日の客への説明を一人でやりたいという。航が代わりに説明することが増え、自分が覚えたかどうか確かめられない。
航は、分かった、と答えた。
翌日の説明では、小池が一か所、画面の操作を間違えた。
客は気づき、手が止まった。航は横から言い直そうとして、口を閉じた。小池が自分で戻し、今のところをもう一度見てください、と言った。

終わってから、彼女は航を責めた。
「分かってたなら、言ってくださってよかったです」
航は驚いた。
任せることは黙ることだ、と、また勝手に決めていた。
二人で駅まで歩き、どこは小池が直し、どこは横から言ってほしいかを話した。風が強く、彼女は説明書を閉じても、鞄へ入れる前に頁をめくられてしまった。開いた紙を何度も押さえ直した。
「次には、うまくできます」
小池は言った。
次、と航は思った。
百舎で用意できる次が、少なくなっていた。
駅の売店でクリップを一つ買い、小池へ渡した。彼女はすぐに紙を留めた。役に立ったというだけの顔だった。

そのくらいのことは、今日もできた。