第六章椅子の代金
外の作業を引き受けてくれたのは、樋口という男だった。
以前から百舎の客先で、配線や古い機械の確認を頼んでいた。父親から引き継いだ、小さな会社の代表だった。打ち合わせに来ると、入口で靴の底を二度こする癖があった。
今回は現場の資料集めも頼んだ。知らない機械を勝手につながず、作業員が昼食へ出たところで声をかけ、昼休みを全部使わないよう話を聞く。速くはないが、戻ってきた紙には、あとで困るところが書いてあった。
十月の初め、調査をやり直す日程と、導入後の保守で返す案を出し、百舎は黒崎からさらに二百万円を借りた。利率も、新しく入った金の元金を一年据え置くことも、最初の契約と同じだった。四月分と合わせて五百万円になった。

黒崎は顧客へ隠していた三週間の報告も読んだ。今回は貸すが、この計画で返せなくなれば残る枠は出せない、と言った。航が最初の虚偽を断ったせいで、条件を変えたのではなかった。理恵も同じ資料を見て、二百万円で余裕ができるのではなく、今の予定までしか買えない、と言った。

航は樋口へ電話し、今回の支払日は大丈夫です、と伝えた。その言い方を、理恵には確かめなかった。

樋口は電話で、来月の人の配置を決められるので助かります、と言った。若い社員と古い機械を見る予定を合わせていた。航は、その先の仕事もお願いしたいと話した。断られずに話が進むことに、体が楽になった。
電話を置くと、理恵はまだ支払いの表を確かめていた。大丈夫と言う前に、一緒に見ることはできた。航は相手が安心した声を思い出し、今から条件を言い足すのは、かえって不安にさせると思った。
十月末、追加融資を入れても、樋口が済ませた調査の請求に全額を払う見通しが立たなくなった。調査が増え、予定どおり終わると思っていた拠点の確認も延びていた。
一週間前、理恵は樋口の請求書を航の机へ置き、全額を予定日に払えるという説明はもうできません、と言った。航は、顧客から早めに受け取る相談をしていると答えた。
「返事が来れば払えることと、今、払える見込みを伝えることは、分けてください」
航は樋口へ送る文を作った。予定日に全額をお支払いする見通しが崩れています。顧客と前倒しの入金を相談していますが、まだ確定していません。
正確な二文だった。それを送れば、樋口は次の調査を引き受けるかどうか選び直すだろう。調査の人が減れば、残る確認も遅れる。航はその先を考えた。樋口の会社で今日決める配置もあると言われたのに、自分の現場が遅れる順番だけを追っていた。
水原から返事が来てからなら、悪い知らせと払える日を一緒に伝えられる。そう決め、送信しなかった。

翌日、樋口から予定確認の連絡が来た。資料は週明けに送ります、と航は返した。支払いの二文は下書きへ残した。別の質問には返すことで、連絡を絶っているわけではないと思えた。
*
同じ週、樋口は会社の白板に、若い社員と出る二つの現場を書いた。百舎の分が入れば、先に払った外注費を口座へ戻し、次の作業に必要な部品を買える。若い社員が、前に頼まれた別の現場も行けますかと聞いた。

その現場は、返事の期限が迫っていた。同じ日には両方行けない。樋口は百舎へ確認し、資料は週明けに送ると返ってきた文を読んだ。
「こっちを空けておく。前のほうは、今回は断ろう」
若い社員は、分かりました、と答えた。これから覚える仕事の予定を、自分のノートへ移した。
樋口は別の客へ電話をかけた。せっかく声をかけてもらったが日が重なる、と説明した。次にはお願いしますと言われ、こちらこそと返した。断った仕事が他の会社へ回ったあとで、入るはずの金を見直すことになるとは、そのときは知らなかった。
*
航の下書きは、一週間、送信済みにならなかった。金が確定しないまま日だけが減った。
期日の二日前に、樋口へ百舎に来てもらった。
「大丈夫って、言いましたよね」
樋口は椅子へ座らずに言った。
四月にも待ってもらった。その分は、三拠点の代金で払っている。今回は新しい仕事の代金だった。樋口は十月初めの電話を信じ、若い社員を次の現場へ回すつもりで、別の仕事を断っていた。
航は、次に払いたいと考えている日付を言った。顧客から早めに代金を受け取れれば、という予定で、入金日はまだ決まっていなかった。
樋口は鞄から手帳を出した。
「その日には、入るんですか」
「先方と相談しています」
「相談してるのと、入るのは、違うでしょう。借りられたから大丈夫だと、俺には聞こえました」
航は頷いた。
隣室から椅子を引く音がした。買ったばかりの椅子は、床を傷つけないよう、まだ脚に保護の袋がついていた。
樋口がそちらを見た。
「いい椅子ですね」
その声に皮肉は少ししかなかった。その少しが、航にはこたえた。

樋口の会社では、仕事を頼む先の支払いは済ませていた。営業用の車の買い替えを延ばした。車検で直す箇所が増え、その金を別に出さなければならなくなったという。
「若いのに、予定を変えるって、俺が言わないといけないんです。あいつは、こっちで仕事を覚えるつもりで日を空けた。今から別の現場へ入れるか、俺がまた聞いて回る」
樋口は手帳の二つの予定を指した。
「仕事をした分は請求してます。頼まれたものが分からなくて、先に帰ったわけじゃない。その金を待って、うちでも次の仕事を決めたんです」
航は、分かっています、と答えた。
「何日前から、分かってました?」

樋口は尋ねた。航は一週間前と答えた。
樋口は手帳を押さえた。指が白くなるほどではなかった。動かさないことに、力が入っていた。
「払えないかもしれないって、先週でも言ってくれれば、別の現場に頼めた。今からじゃ、そこも埋まってます」
航は謝った。
「もう少し早ければ」
樋口は同じ言葉をもう一度言い、そこでやめた。
「今日、全額は決まらないんですね」
航は決まらないと答えた。今度は希望する日を、入る日として言わなかった。樋口は、では決まっていないと持ち帰ります、と言った。
「それで、次の拠点は」
樋口が尋ねた。
「資料を送るので、予定どおりお願いできれば」
言った瞬間、自分が何を頼んでいるか分かった。
樋口は手帳を閉じた。
「そこは、受けません」
航は頷いた。
「うちが断れば、困るでしょう。でも、俺も、払う金が分からないまま、人を出せません」
樋口は資料を受け取らなかった。航は無理をお願いして申し訳ありませんと言った。その言葉は、言い終われば自分だけが少し楽になる言葉だった。返る金も、戻る現場もなかった。
樋口が帰ると、理恵が隣室から来た。相談の席へ同席しようとしたが、航が最初は一人で話すと言ったのだった。
「何と言いましたか」
航は、やり取りをそのまま話した。
理恵は、これから調査する拠点の予定から樋口の名前を外した。引き受けてもらえなかった分は、百舎が自分たちで行くか、別の相手に頼むかを決めなければならない。空いた仕事を誰に渡すかは、まだ書かなかった。
航は、会社を守るためにしているのだ、と言いそうになった。
百舎の支払いを先へ延ばせば、樋口の会社では、入るはずだった金を別のところから用意しなければならない。百舎の椅子を残すために、よその会社が必要なものを買えなくなる。
そのことを、樋口に説明させてしまった。四月に虚偽の報告を断った自分も、今月は同じ相手へ、大丈夫という確かめていない言葉を渡した。金が入れば本当になるつもりだった。
その晩、航は隣室の椅子へ座った。背中にうまく沿う、よい椅子だった。

別のものを買えば、樋口へ払えた額が増えた。
しかし、買わなかったことにはできなかった。
机へ戻り、支払日を確約していない相手を、理恵と一緒に一人ずつ確認した。
*
樋口は会社へ戻り、白板の現場名へ線を引いた。若い社員へ、百舎の次の調査は受けないと伝えた。

「今やった分は、入るんですか」
「全額をいつ払えるかは、決まってない」
社員はノートを見た。返事を待つ間にも、自分の給与の日は来る。樋口は給与を待ってくれとは言わなかった。ほかの受注と手元の金を確かめ、何を先に払うかを帳簿で組み直した。
その夜、断った現場へもう一度電話した。担当する会社は既に決まっていた。空いた一日だけでもと聞いたが、全部の機械を続けて見る仕事だった。相手はすまなそうに断った。すまなそうな声でも、仕事は戻らなかった。
車の販売店には、更新をいったん見送ると伝えた。古い車を直して乗る費用を聞き、作業できる日を選んだ。車が使えない間に、誰をどの現場へ送れるか。その予定まで変わった。
樋口は若い社員へ、明日は別の機械を一緒に見よう、と連絡した。大丈夫と続けかけ、消した。百舎へ怒ることと、自分がこの社員へ言えることは、同じではなかった。