第五章渡せる時間
航が全体の報告を留めていた三週間のあいだに、澪から退職の相談があった。秋分の日の前だった。
夏の展示会で出会った住田から、立体地図を含む島の展示を一緒に作らないかと声をかけられていた。十二月から二年の契約で、最初の公開は翌春になる。百舎での最終日は十一月三十日。
航は、隣室の新しい机を見た。まだ傷のない天板だった。ここなら地図を広げられると思って、奥の席を彼女のために空けていた。
「今、この状態で?」
澪は頷いた。
ひどい質問だったと、航にも分かった。それでも出てしまった。
彼女は手帳を開き、引継ぎに使える日を書いた。画面と手順のうち、自分が担当する作業は十一月前半までにまとめる。設定と動作の確認を阿部へ、利用者への説明の段取りを小池へ渡し、残りの期間は一緒に確かめる。技術上の判断が要るものは修司と岡野に残し、顧客にも誰へ尋ねればよいか知らせたい。

「最後まで、というのは」
航はそこまで言って、日程表を見た。
五つ目の試用は止めていた。全体の完成日も動かすべきだと航は知っており、まだ先方には伝えていなかった。最後まで残れと言っても、それが何日までになるか、今の航には約束できない。十二月から澪が島で作る展示の準備まで、こちらの遅れに合わせて待たせることになる。
澪は待っていた。
「一度、日程を組ませてほしい。金曜までに返事をする」
航はそう言い直した。澪は、入居する日と荷物を送る日を決めたいので、引継ぎをいつ終えられるか、その金曜には教えてください、と答えた。退職したい日を、航が許すまで決めないという話ではなかった。十一月の自分の時間を、会社の仕事と引越しに分けるための返事だった。
金曜には、水原への報告を作っていた。澪への返事も、途中まで書いてあった。十一月三十日を最終日にする。引継ぎの確認は、その前に終える。書けば、足りない日を誰が持つかまで決めなければならなかった。
航はその文を読んだ。終わらない分を修司と岡野へ戻すことはできる。自分が顧客への説明を増やしてもいい。澪が島へ行く日を残せば、会社の予定のほうを動かすことになる。
彼女の部屋まで、自分の返事の先にあることは聞いていた。
画面の端へ彼女の名前が出た。送信を押せば、今日の約束は守れた。航は下書きを閉じ、来週でいいかと澪へ聞いた。

「向こうも住む部屋を決めるので」
澪は言った。航は、分かってる、一度だけ待って、と答えた。
彼女は待つことになった。航が分かっていると言ったことを、今度の金曜なら守れるという意味に受け取ろうとした。
土曜、資料館の住田へ、百舎の引継ぎの返事がまだ来ていないと電話した。最初に紹介された部屋は、歩いて通える場所で、展示の材料を運ぶにも都合がよかった。大家は、別の人からも希望が出ているので、入居日を先に決めた人へ貸すと伝えてきた。

澪は窓の写真を何度も開いた。会社へもう一度電話をかければ、航は週明けにはと言うかもしれない。住田へ、もう少しだけと頼めば、今度は島の人を待たせることになる。

「そこは、ほかの方で進めてください」
住田へ言った。電話を切ってから、泣くほどではないと思った。自分で断ったのだから、とも思った。けれど、窓の写真を閉じた指はしばらく動かなかった。
翌週、航は十一月三十日までに引き継ぐと決めた。資料館が紹介できた最初の部屋は、そのあいだに別の人で決まっていた。澪は自分で不動産屋に電話し、港からもう少し遠い部屋を借りた。
歩いて通えると思っていた道を、地図で引き直した。展示の材料を持つ日は、両手がふさがる。天気の悪い日にどう行くか、不動産屋へバスの時刻も聞いた。朝の一便に乗るには、材料箱を持って停留所へ歩く時間も見込み、早く家を出る必要があった。
最初の部屋に置こうとしていた大きな作業台は、運ばないことにした。別の部屋の寸法で材料箱の置き場を決め、引越しの見積もりを取り直した。同じ島で働ける。それでも、最初に準備した暮らしと全部同じにはならなかった。

月曜、澪は航へ、最初の部屋は借りられなくなりました、と伝えた。
「ごめん。別のところは、見つかった?」
航は尋ねた。
「見つけました。探したので」

澪は答えた。その声が普段より平らだったので、航は怒っていないのかと思いかけた。
「言った金曜には、返事をしてほしかったです。無理なら、無理と。その返事が来ないあいだ、私は、あっちへ何も言えなかった」
「全体の予定が変わっていて」
「私の予定も変わりました」
そこで澪は口を閉じた。怒るための言葉をもっと言うこともできた。航に気を遣って終わらせることもできた。彼女は、もう確定した入居日を示した。
「引越しの日は変えられません」
彼女は今度は、日付に線を引いた手帳を机へ置いた。
航は、その日付を自分の予定にも書いた。
「次に変わることがあっても、この日は待ちません。引継ぎで足りないところは、その前に決めてください」
航は頷いた。会社が終わるまでいてくれという頼みを、もう一度考えていた自分に気づいた。彼女が失った部屋を、次の会社への親切で埋めさせようとしていた。
その夜、澪は家で、新しい部屋へ持っていく物の一覧を作った。転職したかった気持ちは消えなかった。会社で学んだ説明も嫌いにならなかった。ただ、航から返事が来るまで自分の予定を空ける欄は、もう作らなかった。

*
その夜、航は会社で、澪の引継ぎの日を表へ入れた。それで優しい人間になれた気は、少しもしなかった。

澪がいなくなったら困る。引き受けた自分たちと、一緒に困ってほしい。そういう望みは、正しい言葉へ直したあとも残った。
修司に話すと、彼は作業表を取り出した。
「説明を全部、澪にさせてたからな」
「彼女がうまいから」
「うん。だからその分、俺たちは覚えなかった」
小池が一つ目の説明を引き受け、阿部が横で設定を確かめることになった。澪は客の前へ出る前に、何度も練習するつもりだったらしい。二人は一度やってから、先に現場へ行きたいと言った。
「何を分かってないか、ここだと分からないので」
帰ってきた三人は、机で説明書を直した。澪の作った頁の順番が変わった。澪は少し迷ってから、自分の名前が入った古い見本へ線を引いた。
十月の初め、島から澪の自宅へ、大きな封筒が届いた。週末に中を見た彼女は、月曜の退勤後、会議机を借りたいと航に頼んだ。勤務中の引継ぎ資料を棚にしまってから、自分の封筒を開いた。
海岸線を木で削った、島の地図の試作品の写真だった。地元の職人が作ったという。指でたどるには道の幅が足りない箇所に、澪は鉛筆で小さな矢印をつけた。写真へ修正箇所を書いて送り、次の試作で手触りを確かめるのだと言った。

航は通り過ぎかけて、足を止めた。
「うまくいってる?」
澪は写真を回した。
「ぜんぜん。道が狭すぎるんです。正しい形なのに」
嬉しそうな声だった。
航は、その声に腹を立てかけた。こんなときによそで嬉しそうにするな、というあまりに幼い言葉を、胸の中で聞いた。
彼女の隣へ座ることは、その日はできなかった。
でも翌週の仕事を増やして、その時間をなくすこともしなかった。
澪が自分の封筒を持って帰ると、資金の相談で残っていた黒崎が、さっきの地図について聞いた。
「会社で売ればいい。資料館の仕事ごと取って、彼女には担当で行ってもらう。給料も払って育てたんだろう」
「休日に、自分で作ったものです」
「なら本人と相談だ。ここが危ないと分かれば、出してくれるかもしれん」
航は澪の机を見た。社長がその相談をすれば、会社の危機を知っている彼女は、断る前に皆の顔を思い出すだろう。金曜まで待ってと言っただけで、彼女は部屋を一つ失っていた。
「会社の売上には、入れません」
黒崎は、もったいない、と言った。
航は空いた机を拭いた。作品は澪と一緒にここを出ていった。待たせた一週間も、同じように返せればよかった。
翌日の夕方、澪は入居の書類を送ったと話した。航は、よかった、と答え、そこで終えた。どんな窓なのかと聞くのも、その返事を遅らせた理由をもう一度説明するのも、自分のためになりそうで怖かった。
彼女が退勤したあと、会議机は空いた。航はその空きを見ながら、今度は会社の作品だとしなかったことを、一週間待たせたことへの埋め合わせに数えないようにした。