看板のない朝03 / 17

第二章六時の店

契約後、百舎は三拠点の帳票を集め、担当者の話を聞いて、試すための画面を作り始めた。正規の着手金と、黒崎から借りた三百万円で、給与と既に作業を終えた取引先への支払いをつないだ。理恵は経理と会社の運営を担当する社員で、発注元が決めた入金日も、取引先から待てると返事のあった日も、同じ表へ書いていた。終わっていない調査の請求書は出さなかった。

六月、最初に現地で試す拠点へ行くと、修司は入口で借りた長靴を片方ずつ別の組から取ってしまった。

履き直しても、右だけ大きかった。受付の人と棚に残った長靴を並べると、修司の左足に合う組の右側がなかった。

「片方だけ、先に現場へ行ったみたいですね」

受付の人が言い、別の一組を持ってきた。修司は礼を言って、両足を入れた。

「仕事の前に、仕事を増やしてしまった」

澪は笑いをこらえながら、彼が脱いだ長靴を元の棚へ戻した。

倉庫の入口で、履き直した修司の横から澪が大きさの違う長靴を棚へ戻している。
借りた長靴を履き直す。

休憩室へ入ると、澪は机に積まれた紙の山を見た。

朝の表、昼に赤字を入れた表、夕方に渡す表。同じ荷物を扱っても、紙を持つ人によって欲しい順番が違った。彼女は画面を変える前に、机から机へ歩く人のあとをついていった。

配送拠点の休憩室で、澪が事務員から配送表の使い方を聞く。赤い書込みと折り目のある紙を机へ並べ、修司は試作画面のそばに立ち、航も作業を見ている。
画面を直す前に、紙が誰の手へ渡るかを聞く。

七月、技術担当として入社した岡野蓮は、その話を面白がった。画面を直す日と現地へ説明に行く日が重なり、修司だけでは両方を進められなくなっていた。航、修司、澪、理恵の四人だった百舎は、五人になった。

前の勤め先では、仕組みのごく一部しか担当できなかった。ここなら最後に何が起きるのかまで見られる、と言った。

七月の三拠点では、旧来の表と新しい仕組みを並べ、一部の作業を試していた。まだ全部を切り替えてはいない。荷物を間違えずに出せるか、先方と百舎の双方が確認する期間だった。

最初の週、岡野は百舎の作業から変えた。拠点から届く試用結果と配送表の見本を、比較しやすい同じ形へ整理する作業だった。AIも使って時間を短くし、機械が取り違えやすい名前だけは、人が原本と確かめる欄に残した。澪が画面の隅へ丸い顔を描いた。修司が百円ちゃんと呼ぶので、岡野は、安い名前をつけないでください、と言った。

でも顔は消さなかった。

ある木曜、理恵はいつもより早く帳面を閉じた。息子の靴を買いに行くと言った。足が急に大きくなり、かかとを踏んで出ていったらしい。

息子の靴を買いに行くため、早く帳面を閉じる理恵。
浮いた時間で、家の用事ができる。

航もその夕方は早く帰った。

真帆とオムレツを作り、裏を焦がした。焦げた方を下にすれば分からないと言ったのは修司ではなく自分だった、と、なぜか言い訳をした。

「分かるよ」

真帆はひと口食べてから言った。

食べ終わるころ、黒崎から電話があった。

航は皿を流しへ運んでから電話に出た。三拠点で試している画面の評判がいい。八月の正式な切り替えが済んだあとの、次の相談を早めたい、という話だった。

七月最後の日曜、澪の立体地図が、本土の海辺の町で開かれた小さな展示会の机に置かれた。休日の個人出展で、航も真帆も客として訪ねた。真帆が自分の修復の仕事を通じて紹介した住田という人が、来場者の話を聞いていた。島の資料館も担当しており、島の地形や暮らしを手で触って知る展示を、翌春から見せる準備をしていた。古い道の話になり、澪は教える側から聞く側になって、一時間以上そこにいた。

港近くの展示室で、年配の来館者が低い台の立体地図を指でたどる。澪が話を聞き、住田が椅子を寄せ、木工職人が鉛筆を探す。
地図を確かめる話が、昔の町の話へ変わる。

会場の隅には、別の作家の小さな個展があった。窓に灯りのともった家が、紙を切り抜いて並べてある。どの家にも屋根があるのに、間の道が一軒ずつ違った。航はその前で足を止めた。全部の窓を、消さずにおける仕事があればいいと思った。

澪は、展示の箱が閉まる時刻まで住田と話した。航が先に帰ろうとすると、真帆は、私はもう少し見ていく、と言った。航は一人で会場を出た。みなが同じ家へ帰る必要はない。その程度のことが、その日は自然だった。

帰り道、航は、澪にも自分の場所ができたのだと思った。

自分の場所、というときの自分が、誰なのか。

そのころは、考えずに済んだ。

八月、試用で見つかった箇所を直し、三拠点の普段の仕事を新しい仕組みへ切り替えた。行き先と箱の数が次の拠点へ渡り、担当者がその情報から配送表を作る。実際の出荷で使えることを先方と確認し、三か所の導入を終えた。

いちばん早く連絡してきたのは、川沿いの拠点の倉庫主任だった。名前は吉沢といった。

「六時なんです」

電話越しに鍵の音がした。

「六時に帰ると、商店街のコロッケ、まだあるんですよ」

六時に倉庫を閉めながら、帰りに買えるコロッケの話をする吉沢。
普通のコロッケが、まだある。

航は笑った。何味ですか、と聞いた。

「普通の。普通のが、ある」

声が少し高かった。

翌日届いた利用記録には、入力し直した回数が減ったと書いてあった。航はそれを読んだ。しかし覚えていたのは、コロッケのほうだった。

三拠点目の代金が入ると、待ってもらっていた支払先へ金を回した。借入の元金三百万円は据置期間のままで残っていたが、理恵は、来月も再来月も給与や家賃を予定どおり払える、と言った。四月に入らなかった代金が戻ったのではなく、「環」の三拠点を終えたことで、当面の支払いをつなげたのだった。

数日後、黒崎が拡大の計画を持ってきた。

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目次

BAD · 看板のない朝

  1. 01序章|折り目のある紙
  2. 02第一章|三つの青
  3. 03第二章|六時の店
  4. 04第三章|同じに見えた九つ
  5. 05第四章|冷蔵庫の裏
  6. 06第五章|渡せる時間
  7. 07第六章|椅子の代金
  8. 08第七章|ここから止める費用
  9. 09第八章|向こうの机
  10. 10第九章|待つ人の順番
  11. 11第十章|十一月三十日
  12. 12第十一章|完成するまでの夜
  13. 13第十二章|六時の写真
  14. 14第十三章|百舎御中
  15. 15第十四章|取りに来る人
  16. 16第十五章|壁の四角
  17. 17終章|看板のない朝
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