終章明日の欄
報告会の夜、社員が帰ったあとも航は会社にいた。
打ち合わせの場所と執務机の灯りは別になっていた。人のいないところから順に消え、最後に航の机の周りだけが残る。新しい設備は必要な場所を正しく照らしていた。
薄い青の湯呑みに、冷めた茶があった。
底の値札を真帆が取ったことを思い出した。古い机も、帳面も残っている。百円の領収書も捨てていない。なくしたものばかりではない、と考え、湯呑みを戻した。
真帆から写真が来ていた。修復した帳面を依頼者が持っている。新しい机の端が少し写っていた。航の知らない手が、薄く継いだ頁の下へ入っていた。
よかったね、と書いた。自分の報告会の写真を添えようとして、やめた。今夜くらい彼女の話だけにしたほうがいい。
返事はすぐには来なかった。
帰ればよかった。自分の食べるものを買い、家へ帰れる。今夜返さなければ困る仕事の連絡はなかった。岡野たちの作った仕組みが現場を支えていた。
航は澪へ、主任が余白を今も使っていると言っていたことを送った。
嬉しいです、と返ってきた。
その下には先日の、営業資料の提出先へ訂正を伝えてほしいという文が残っていた。短い返事は、その依頼を取り下げた文ではなかった。
修司の名前も開いた。用事ならあった。伝えるべき訂正があり、失わせた仕事があり、自分で決めた解雇があった。用事がないから電話できないのではなかった。
航は画面を閉じた。
会社の報告には緑の印が並んでいた。顧客の確認した六拠点の完了。理恵の確かめた利益。支払った給与。ここにある数字は、どれも本当だった。
それなら、今夜は楽になれるはずだった。
拍手の顔も声も思い出せた。胸の奥にあった温かさだけが、同じ形では戻らなかった。来月の受注目標の欄が空いていた。航はそこへ新しい顧客の名を入れた。
書いていると、呼吸が深くなった。
三年後に任せるには、いま止まれない。黒崎の株を買うまで、もう少しだ。そのあとなら、自分で順番を変えられる。
真帆から、ありがとう、今日は早く寝ます、と返事が来た。航は、おやすみ、と返した。来月の下に翌々月の欄があった。そこにも数字を入れた。

* 後日譚
それから二か月後の六月、航は黒崎の二割を買い取った。
前年四月から三月までの帳簿を閉じても、全国の仕事は続いていた。三年計画の次の地域は、まだ現場を調べているところだった。
決算では、会社に残す運転資金と、顧客に約束した仕事の費用を分けた。退職者との争いに備える金も残し、外の専門家へ確認した。そのうえで、実際に積み上がった利益を正式に分配した。
分配を受けた航は、税と生活費を残し、自分の金で四百万円を用意した。会社の着手金には手をつけていない。黒崎の二割は創業時の約束どおり、買い取り額の上限に達していた。
黒崎は条件どおりに応じた。さらに金を求めることも、署名の前に新しい約束を差し出すこともなかった。
書類を交わす席で、航は古い出資の紙と新しい紙を並べた。黒崎の二割はなくなり、株はすべて航のものになった。全国の仕事は続くが、責任者は合意すれば交代できる。黒崎が株主だから従う、という理由はもうなかった。

インクが乾くのを待つあいだ、航は肩の力が抜けるのを感じた。
「自由になりました」
航は言った。
「そうだな」
黒崎はペンに蓋をした。
「ただ、私に払った四百は、私の株の代金だ」
航は分かっていますと答えた。須田の手当でも、修司の名誉でも、阿部が借りた部屋の家賃でも、小池が会議で話せたはずの時間でもなかった。
会社へ戻ると、新しく独立した取引先の若い代表が待っていた。百舎から仕事を受けていたが、別の客の入金が遅れ、来月の給与に金が足りないという。
航は座るよう勧めた。本人が飲みやすいよう、熱い茶に少し水を足した。資料はよくできていた。機械に任せるところと人が確かめるところも分かれている。次の仕事までつなげば、この人は返せる。
航は通常の貸付でつなぐ案を書いた。それから、百舎へ出す確認報告を前倒しする話をした。
その報告は百舎だけで閉じるものではなかった。環の発注元も、調査を終えたという内容を受け取り、次の工程へ進む。航はその順番を知っていた。
「まだ、二つの現場を見ていません」

若い代表は答えた。
航は未確認の欄を見た。何が分からないかを、相手は正確に書いていた。あの春の修司の紙と同じだった。
「来月には、確かめるんだろう」
自分の声が、思っていたより落ち着いて聞こえた。
「先に完了で出せば、工程分を払える。君は借金をしなくて済む」
若い代表は、紙を手に取らなかった。
「見ていないところは、残っているって書いたほうがよくないですか」
「その場合は、調査が終わってから工程の代金を払う。間の給与は、こっちの貸付でつなげる」
航は正しい順も、その費用も説明できた。相手の仕事を見れば返せる。貸すだけでこの相談を終えられた。
「ただ、借りた分は、仕事が終わっても返していくことになる。そこは考えたほうがいい」
春の自分なら、借金を残さないと言われて手を止めた。今は人の手が止まる位置を知っていて、その前に紙を置けた。
「完了って出したら、現場では、もう調べたと思いませんか」
若い代表は聞いた。
航は未確認の欄へ視線を戻した。南の夜便を見ていなかったことは、今でも覚えていた。須田が出口まで追ってきて、自分の名前を指したことも、覚えていた。

「次の正式稼働までには、本当に確かめる。試用中に現場へ説明するのも、君たちの仕事だ。そこで間を埋められるかを、考えてほしい」
若い代表は唇を結んだ。
「嘘を出すことには、なりますよね」
航は茶の位置を相手へ寄せた。問いを責められたとは感じなかった。最初は誰でもそこが怖い。だから、分かるまで話してやりたいと思った。
「今日の時点では、完了していない。だから、君が何を引き受けるかを分かったうえで決めてくれ」
その先を、航は続けた。引き受けないほうを勧める言葉は、自分から出てこなかった。
「社員には、来月の家賃がある。家族へ渡す金もある。仕事は終わる見込みが立っていて、払う金もその工程から出る。それをつなぐために、代表が先に責任を持つ。結果をちゃんと届ければ、彼らは今月も安心して働ける」
若い代表は自社の給与の欄を見た。航は急がせなかった。茶が飲める温度になっていることを確かめた。
「もし、確認が追いつかなかったら」
「追いつくように人と日を組む。ここまで作れる君なら、その順を決められる。資料のこの分け方は、よくできているよ」
航は本心で褒めた。相手の技術を評価し、会社を残してやりたいと思っていた。そのために教えている方法が、誰かの説明を聞く前に完了と書く方法でもあることは、もう褒める気持ちを止めなかった。
若い代表は通常融資の紙を持ち上げた。
「こちらの条件も、書いてもらえますか」
航は頷き、返済の日を記した。相手が二つの道を検討できるよう、どちらの紙も読める向きに置いた。現場の人が何を信じるかという問いには、それ以上戻らなかった。
相手は二枚を見比べた。航は選ぶまで待った。断られても貸すつもりだった。それが、自分は追い込んでいないという証拠に思えた。

机の横には、雇用を終わらせた三人から返ってきた鍵があった。整理するよう言われていたが、まだ引出しへ入れていなかった。猫のシールの端が、少し浮いていた。
若い代表が顔を上げた。
「もう少し、考えてもいいですか」
「もちろん」
航は薄い青の湯呑みを置いた。最初の一回は、自分も長く考えた。その長さを、やめるための時間ではなく、経営者になるために必要な時間として覚え直していた。
相手が考えているあいだ、航は確認報告の見本を開いた。未確認の二つの現場の名を入れ、状態の欄へ完了と書いた。決めるのは若い代表でも、勧めるほうは、もう自分で決めていた。
茶を勧め、薄い青の湯呑みへ手を戻した。
修司と一緒に作った部屋で、航は若い代表の返事を、親切な気持ちで待っていた。