すべての灯り08 / 16

第七章新しい椅子

仕事始め、百舎に集まったのは航、理恵、岡野、小池、阿部の五人だった。澪は十一月末に退職し、修司の雇用は十二月で終わっていた。

全国へ広げる三年計画の第一期は、三月末までに新たな六拠点を使えるようにする。十二拠点の保守は続く。新しい六つも、準備のできたところから試用し、発注元が確認して正式に切り替える。

岡野は仕事に賛成した。夜間窓口を百舎だけで持たないこと、共通部分を作る人を途中で全員現地へ回さないこと、試験の日を削らないことを条件にした。

航は三つとも黒崎と発注元へ伝えた。現地へ入る日は少し遅くなったが、契約はなくならなかった。夜間の一次受付は専門の会社へ任せられることになった。

「言っても、仕事はなくならないんですね」

阿部が日程表を見て言った。

「必要なことなら、言ったほうがいい」

航は答えた。前の契約でも、それができた場面はあった。今回は実際に、皆が休める条件を取れた。岡野は夜の当番表を消し、まとまった開発の時間を入れた。

一月の着手金が入ると、理恵は、これから六拠点のために使う金を分けた。未払いの費用や、修司へ払うことが決まっている分も残した。

「入ったものが全部、余ったものではありません」

航は頷いた。彼女はその言葉を言うたび、前よりゆっくり帳簿を見せるようになっていた。

開発と現地導入のために二人を採り、在籍する社員の給与も上げた。阿部には、問い合わせの転記から、実際の設定を確かめる仕事へ進んでもらうと話した。

最初は岡野と一緒に見る。似ている設定のどこが違い、どの違いが荷物の行き先に関わるか、一つずつ覚える。半年後には、一つの拠点の確認を持てるようにする。

「途中で分からなくなったら、戻って聞いてください」

航が言うと、阿部は手帳に半年と書いた。

航が阿部へ半年で設定確認を持てるようにと説明し、阿部が手帳に半年と書く。普通の会社の机、目標へ期待する本人。代表の教えたい善意と社員の意欲は本物。
もう少し、自分でできるようになりたかった。

賃貸の更新を機に、阿部は駅へ歩いて行ける部屋へ移る契約をした。前の部屋より家賃は上がるが、バスを待たずに済む。遅く帰った日も、もう一本乗るか、歩くかを考えなくてよかった。昇給分と交通費を並べて決めた。

窓を開けると壁だけでなく木が一本見え、宅配ボックスもあった。

「その木、何の木?」

小池に聞かれ、阿部は、葉が出たら調べる、と答えた。携帯電話の写真を少し大きくして、窓の下の枝を見せた。

「帰ってから、何か勉強する場所が欲しくて。机、窓のそばに置こうと思ってます」

航も写真を見た。新しい生活を選べるだけの給与を払えている。会社を広げてよかったと思った。

新しい社員は予算の範囲で椅子を選べた。背の高い人の椅子が思ったより大きく、後ろの机にぶつかった。全員で配置を変えた。航も端を持ち上げ、少しずつ横へずらした。

百舎の隣室で、航と新しい社員たちが机を少しずらし、大きな事務椅子を引ける場所を作っている。
自分で選んだ椅子を置くために。

床に机の脚の跡が残っていた。修司が座っていた場所へ新しい人が来た。椅子を引く音は、もう違っていた。

小池は新しい六拠点向けの説明会を任された。他社の経験が長い新入社員より先に話すのが怖いと言った。航は予行演習へ二時間つきあい、紙を配る順番を変え、客の位置へ椅子を置いた。

小池が途中で言葉を失うと、航は最初からやり直させなかった。直前に相手が何を聞いたかを一緒に確かめ、その質問から続けた。

「全部覚えているところを見せなくていい。その人が、次に何をできるようになるかで話そう」

本番のあと、小池は使わなかった資料を抱えて帰ってきた。

「前より、人の顔が見えました」

航は受けてよかったと思った。彼女が言い直すところも、聞く人が頷くところも、自分はまだ手伝える。小池は翌日の説明に使う紙を減らした。残した一枚には、質問の出たところに鉛筆の印があった。

一月最後の週、岡野が問い合わせ整理の新しい結果を出した。AIが分類する範囲が広がり、阿部が繰り返していた転記が大きく減っていた。そのぶん、設定の現物確認へ時間を回せる。

航は人件費の表を開いた。

黒崎は今度、誰の名も言わなかった。利益率が改善しているとだけ伝えてきた。航はその数字に阿部の給与を重ねた。新人を現地へ出し、問い合わせは小池、設定の例外は岡野へ戻す。忙しくはなるが、回せない量ではなかった。

岡野は、阿部に教え始めた設定の仕事がこれから役に立つと言った。

「半年置けば、そこを一人で持てます。次の地域を始めるときに、僕が全部見なくて済みます」

阿部を残す案の収支も黒字だった。夜間窓口の費用も、新しい二人の給与も含まれていた。春のように、支払日までに足りない金を作る話ではない。

航は二つの案を印刷した。阿部を設定確認へ移すほうには、本人と話した半年の育成日程が載っている。席をなくすほうには、手元に残る金がさらに増えると書かれていた。

「その半年分で、できることもある」

「育て終わった阿部さんで、できることもあります」

岡野は言った。口調は穏やかだった。事実を一つ、表へ戻すような声だった。

航は阿部の新しい部屋を思い出した。葉が出たら調べると言っていた木。これから覚える仕事があるから、通いやすい場所を選んだ人間だった。

いま席を消せば、何を信じて借りたのかと問われる。給与を上げたことまで、相手には違う意味になる。

午後、小池と阿部が新しい社員に、前の拠点の例外を説明していた。阿部は自分が修司に教わった順で、画面を開く前に紙を見るよう言った。最初の一回に間違えたことを話すと、新しい社員が笑い、同じところへ印をつけた。

まだ必要な人間だ、と航は思った。

だから残す、と岡野へ伝えれば終わる話だった。契約を失うわけでも、会社を閉じるわけでもない。黒崎へ相談する必要もなかった。

航は自分の机へ戻り、増える利益の欄を見た。

決算で会社に残す金を残し、正式に分配を受ける。その先に、自分の金で黒崎の株を買う日がある。買い取りを早めれば、自分の判断だけで順番を変えられる。人の暮らしを守る仕事を、もっと自由にできる。

阿部を残した場合、その日が少し遠くなる。

航は育成の案をもう一度開いた。取り消し線も、欠陥を示す赤字もなかった。採用時に約束した仕事が、そのまま続く案だった。

夕方、理恵へ送る決裁の文を作った。阿部の役割を廃止し、二月末で雇用を終える。岡野の測定表を添えかけ、転記の減少と役割全体の廃止は同じではないと言われたことを思い出して外した。

自分の名前だけを決裁者の欄へ入れた。

まだ送らなければよかった。紙を閉じ、明日、阿部と半年の予定を確かめられた。

航は送信を押した。廊下では阿部が、説明はこれで分かりますか、と新しい社員に聞いていた。

翌日、阿部へ、二月末で雇用を終えると伝えた。本人から退職を求めたのではない。給与を上げ、新しい役割を覚えてもらうと言ったあとだった。

阿部は通知を机へ置いた。読み終わっても、席を立たなかった。

「設定の仕事は、やらないんですか」

「仕事はある。岡野君と、新しく入った人に振り分ける」

「僕が、できないからですか」

「そういう評価ではない。全体の配置を考えた」

阿部は頷きかけ、止めた。

「だったら、僕もやれますよね。遅いところは、教えてもらって。半年って、この間」

最後の言葉が小さくなった。航は育成にかかる費用と、仕事の減った部分を説明した。阿部は紙へ目を落として聞いていたが、転記という言葉が出ると顔を上げた。

「それだけをやってたんじゃないです。昨日も、二人に説明しました」

「分かってる。助かったと思ってる」

「助かったら、もういいんですか」

航は返事に詰まった。阿部の指が、通知の同じ角を何度も押していた。

「部屋、借りたんです。給料の話と、これからの仕事の話があったから。ずっと絶対に大丈夫なんて、思ってないです。でも、来月なくなるなら」

息を吸ったが、続きが出なかった。

理恵は、書類の説明はあとでもできると言った。阿部は首を振り、鞄から住所変更の紙を出した。

阿部が新居の住所変更の紙を押さえ、理恵と航の前に出す。会社に近い部屋を選んだ期待が雇用終了の送付先へ変わる。普通の面談机、誰も笑っていない。
選んだ新居が、通知の送付先になった。

「これ、今も要りますか」

「書類を送るので必要です」

理恵が答えた。阿部は新しい住所を指で押さえた。会社へ通うために選んだ部屋が、会社から雇用終了の書類を受け取る場所になった。

一月末、解雇を告げられた阿部が新しい住所の紙を渡し、航と理恵が受け取っている。
引っ越したばかりの住所は、書類の送付先になった。

航は紙を受け取った。今なら決定を戻せた。採らなかった案も、阿部の席も残っている。

航が阿部の雇用を残す案と削減の案を並べて、削減側を自分で選ぶ。利益の列と育成の予定、ペンを持つ航。理恵が資料を確かめる。抽象画面で実数値は書かない。
残す案を知ったうえで、外すと決めた。

彼は、最後まで給与は払う、と言った。

阿部は、それは分かりました、と答えた。安心した声ではなかった。

その夜、阿部は引っ越し業者に、日を変えた場合の費用を尋ねた。新しい部屋の契約を解けば、前の部屋の更新もやり直す必要があった。既に払った金と、もう一度払う金を書き出し、予定どおり移ることにした。

窓際に置くつもりだった机は、いまある小さなもので済ませることにした。設定の勉強用に買おうと調べていた画面も、一覧から消した。まず家賃を何か月払えるかを数えた。

母親へ、引っ越しは予定どおりだと電話した。会社に近くなるから安心した、と言われ、阿部はしばらく返事ができなかった。

阿部が新しい小さな部屋で母へ電話をする。窓際の小さな机に家賃の計算と面談の予定。短い黒髪と丸眼鏡、話が止まる。母は画面外、無理な同居設定を足さない。
近くなった会社へ、通えなくなった。

「仕事は、探すことになった」

「何か、あったの」

「会社の配置が変わって」

航の説明と同じ言葉を使った。それしか、まだ人に伝えられる形になっていなかった。少し置いてから、辞めたいと言ったわけではない、と付け加えた。母親は分かったと言い、無理なら戻っておいでと言った。

戻りたいかどうかを考える前に、仕事を続けたいと思った。百舎で教わったことを、もう少し自分でできるようになりたかった。部屋を借りたことが間違いだったと、今すぐ決めたくもなかった。

翌週、応募先との最初の面談で、五か月ほどで離れる理由を聞かれた。阿部は会社の判断による雇用終了だと答え、転記のほかに設定確認や新人への説明もしていたと話した。

「設定は、単独で担当した拠点がありますか」

そこは、まだなかった。半年かけて覚える途中だった。

面談の相手は、では補助の経験ですね、とメモを取った。間違いではない。それでも阿部には、自分が昨日までしていたことが、さらに小さくなったように聞こえた。

阿部が応募先の面談で、設定確認の経験を自分の言葉で説明する。担当者がメモを取る。控えめな面談室、阿部が紙を開き直して具体的な仕事を伝える。
昨日までの仕事を、もう一度説明する。

勉強するつもりですと言いかけ、何をできるかを先に答え直した。現場の紙と設定を照合できること。未確認の項目を残し、人に聞けること。その二つなら、実際にやっていた。

二月初めまでに引継ぎをし、その後は給与を払ったまま出勤を求めないことになった。

阿部は最後の数日、応募の連絡が来ると廊下へ出た。戻ってから、次の人へどこまで説明したかを確かめた。会社の仕事を適当に終わらせたら、次の面談で話せることまでなくなる。その思いもあった。

航は廊下から戻った彼に、良いところが見つかるといい、と言った。

阿部は航を見た。

「ここで続けるつもりだったんです」

航は、今回の変更は会社全体のためだと答えた。阿部の部屋の費用まで決めたわけではない。その言葉は口にしなかったが、そう考えると、胸の痛む場所が少し狭くなった。

最後に出勤した日、阿部は猫のステッカーの余りを小池へ渡した。小池は受け取ったあと、引継ぎの終わった机を見た。

「まだ、聞きたいことあるのに」

「紙に書いてあります。分からなかったら、岡野さんに」

阿部はそう言ってから、教わったこと全部を紙にできたわけではないと思った。けれど、会社を離れたあとも無料で答える約束はしなかった。

会社の鍵を航へ返した。二月の給与を受け取るために、鍵を持っている必要はなかった。

帰ったあと、理恵は給与表から翌月分の阿部の行を外した。航の決裁した配置で、予定利益は増えていた。問い合わせは分類され、電話には小池が出た。誰も仕事を投げ出していなかった。

航は新しい椅子を見た。阿部がまだ、自分の体に合う高さを覚えていない椅子だった。次に使う人が、座面を一段下げた。

その晩、阿部は新しい部屋の小さな机で、面談の予定を二つ書いた。窓の外の木には、まだ葉がなかった。何の木か調べるために開きかけた画面を閉じ、次の募集の勤務時間を読んだ。

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目次

HELL · すべての灯り

  1. 01序章|お祝いだから
  2. 02第一章|動いている画面
  3. 03第二章|七分早い午後
  4. 04第三章|外へ続く道
  5. 05第四章|二つの青
  6. 06第五章|誰も困っていない
  7. 07第六章|三年後の席
  8. 08第七章|新しい椅子
  9. 09第八章|写真の外側
  10. 10第九章|机の高さ
  11. 11第十章|君に任せたい
  12. 12第十一章|一時間の用事
  13. 13第十二章|花を送る
  14. 14第十三章|会議の終わり
  15. 15第十四章|完全勝利
  16. 16終章|明日の欄
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