第十一章一時間の用事
三月の最初の水曜日、修司から連絡が来た。
久しぶりに会えないか、という文ではなかった。航が発注元へ出した体制変更の説明について、訂正を求める文だった。日付と該当箇所があり、四月の完了報告を承認したのは誰か、と書かれていた。
航は最初の二行を読んだところで、携帯電話を伏せた。
全国の第一期は、もう切り替えに入る。いま、その話を持ってくるのかと思った。解雇を知らせる前には、修司の顔を思い浮かべて何度も表を開き直した。今日は通知を閉じ、先に試験の日付を確かめた。
三月末までに六拠点を終える。その予定は変えたくなかった。
昼になって電話をかけた。修司は土曜の昼なら一時間あると言った。会えば、書いた文より柔らかく話せるだろう。航は店を決め、自分の予定へ入れた。
*
修司がその説明を見たのは、二日前の月曜だった。
「環」の発注元にいた担当者が、近くの工場の保守を紹介してくれることになっていた。工場へ行く前に、受け持てる範囲を話す約束だった。
修司は古い仕事の画面を、顧客の情報が見えない形で説明できるようにしていた。壊れたあとで呼ばれるだけでなく、同じ不具合を繰り返さないために何を見るか。訓練所の二日と重ならない日に、現場へ行ける。その予定も書いた。
担当者は資料を受け取ったが、なかなか最初の頁を開かなかった。

「先に、これを聞いておきたいんです」
出されたのは、百舎の体制変更の説明だった。旧担当者の確認不足を、担当交代と共通処理の整備で解消した、と書いてあった。
「南の返品の件は、倉田さんが確認していなかったということですか」
修司は文を読み、もう一度読んだ。
「未確認と書いて、報告しています。完了だとは言っていません」
「百舎さんの説明と、違うんですね」
「違います」
相手は困った顔をした。修司が声を強めたからではなかった。これから別の工場へ、自分が良いと思う人を紹介する。その人の元の会社が、確認不足を担当交代で解消したと言っている。
修司は四月の表と、事故のあとに提出を求めた報告について説明した。担当者は知らなかった。彼が受け取っていたのは、代表名で出された百舎の文書だった。
「こちらで、どちらが正しいかを判断するのは難しいです。いったん紹介は見送らせてください」
修司は反論の最初の一語で止まった。
この人に、自分を信じろと頼んでも足りない。自分に仕事を任せるために、百舎の代表の説明を否定してほしいと頼むことになる。
「訂正を求めます。確認してもらえたら、そのときはもう一度、話を聞いてもらえますか」
担当者は頷いた。仕事が決まったのではなかった。再び話す余地があるというだけだった。
持ってきた説明資料は、半分も開かないまま鞄へ戻した。
帰りの電車で、修司は家計の表を見た。訓練所の収入を先に入れる癖がついていた。週二日の仕事は続いている。生徒が作ったものが動くと嬉しい。もう一日増やせないかと尋ねたが、いまは担当する実習がなかった。
足りない分は、退職に伴う支払いと蓄えから出していた。家賃を払う日は変わらない。食費を減らしても、足りない月が足りる月にはならなかった。
工場の保守が取れれば、減っていく残高だけを毎月確かめずに済む。まだ契約してもいない金を、確定した収入として入れたことはない。それでも、次の月の欄へ試しに足した数字は覚えていた。
その数字を消した。
別の仕事への応募も続けた。創業から導入を持っていたなら、なぜ今その会社を離れたのかと聞かれる。人を教える実習に移ったことだけを話せば、説明は簡単だった。けれど、自分が望んで席を譲ったとは言えなかった。
雇用を終えると通知された。理由には異議がある。
そう答えるたび、相手は少し身を引いた。揉めている人間を引き受けるかどうかも、相手には判断の一つだった。
自分が働いた四年間を説明しに行き、その四年間が終わった事情を長く話す。どこまで話せば、仕事ができる人間に見えるのか、修司にはまだ分からなかった。
家へ戻ると、訂正を求める文を作った。
最初に、こんなことをするのか、と書いた。自分の文を読み、削除した。怒りが間違っていたからではない。航が気持ちの問題として受け取り、悪かったとだけ返したら、紹介する人の手元の説明は一字も変わらない。
提出の日付、誤っている箇所、求める訂正を順に書いた。
修司が欲しかったのは、航がつらそうにする顔ではなかった。確認不足を理由に交代させられた人間として、次の現場へ紹介される状態を変えてほしかった。
翌日読み直し、水曜の朝に送った。
*
土曜、駅前の喫茶店へ行くと、修司は先に来ていた。工具箱はなく、薄い鞄と、いつもと違う上着だった。航は元気かと聞いた。
「朝が早い」
修司は答えた。職業訓練所の実習前に部品をそろえる。足りないと、生徒が自分のやり方が間違っていると思う。だから最初に確かめる。
始まったあとは、手を出さず待つ。一つの接続に十分かかる日もある。
「俺がやれば、すぐ終わるんだけどな」
「向いてると思うよ」
航は言った。修司はそれには答えなかった。
コーヒーへ砂糖を入れた。百舎では入れていなかったことに、航は気づいた。

修司は鞄から紙を出した。全国契約の体制変更説明だった。旧担当者の確認不足という文に、線が引かれていた。
「この先方から、近くの工場の保守を紹介してもらう話があった。いったん見送ると言われた」
「それは、うちの説明だけが理由なのか」
口にしてから、相手の顔を見た。疑う言葉が、確かめる言葉より先に出ていた。
修司は紙を押さえた。
「この文は何かと聞かれた。確認してなかった人を紹介していいのか、判断できないと言われた。だから、まずこれを直してほしい」
「そこまで、言われたのか」
「今、話しただろ」
修司は言い直さなかった。航は水を飲んだ。
相手が話しているのは、去年の気持ちではなかった。今月、受けられるはずだった仕事が止まっている。十二月分までの給与や、退職に伴う金を払ったことでは、その文は消えなかった。
「訓練所のほかには」
「探してる。週二日じゃ足りないから。そこで働けてるから大丈夫、って話にはしないでくれ」
航は頷いた。そう言うつもりだった自分に、気づいた。
「悪かった。お前のせいだと全部言うつもりじゃ」
「全部じゃないなら、何を俺のせいにした」
修司の声が上がった。近くの席で、スプーンが止まった。彼はそちらを見て、顔を紙へ戻した。
「俺は、足りないところを残した。誰かが見てないって分かるように。それを埋めたことにしたのは、俺じゃない」
最後の言葉が、少しかすれた。修司は喉を鳴らし、コーヒーを飲もうとしてやめた。
店の奥で皿が重なった。
修司は、四月に未確認と書いた表の写しも出した。角に二度折った線があった。現場で鞄へ入れやすい大きさにした紙だった。

「調査は終わってないと言った。事故のあとも、こちらの不備だと出そうと言った。お前が完了で出し、お前が報告を変えた」
「分かってる」
「だったら、それを書いてくれ」
修司は紙を航の側へ向けた。
未確認という青い字の横に、航が見た日付があった。忘れた話ではない。見てから完了で送った。六月には修司の報告を使わず、運用上の混乱という別の報告を自分で作った。
何を書くべきか、航はすぐに分かった。訂正文の一行が、頭に浮かんだ。
「代表が未確認を承知で完了報告を承認した。旧担当者は未確認を指摘し、事故後も訂正を求めた」
そう書いて提出先へ送る。一枚の説明についていえば、できることはそれだけだった。
そのあとで発注元へ呼ばれ、なぜ虚偽の報告をしたかを答える。秋に調査が止まった理由まで聞かれるかもしれない。走り始めた六拠点を、止めずに説明できる保証はなかった。
航は携帯電話へ手を伸ばした。提出先の担当者の名前は入っている。この場で、体制変更の説明に誤りがあり、訂正を送ると知らせられた。
修司がその手を見た。
航は携帯電話を机に置かず、ポケットへ戻した。
「第一期が終われば、落ち着いて話せる。今は六拠点が」
「俺の仕事は、今、決まらないんだよ」
修司は背もたれへ体を預けず、前へ身を寄せた。

「今月の予定を空けて、工場のことを調べて、話をしに行った。その席でこれを出された。お前の仕事が終わるまで、俺の仕事も家賃も待つと思ってるのか」
航は目を伏せた。
「ここで全部認めたら、今いる社員にまで影響する」
「俺のせいにしたままなら、俺に影響する」
そこで会話が止まった。修司は紙を引き戻さなかった。
航は全国の契約なら、修司へ外注できる仕事があると言いかけた。受けてくれれば損を埋められる。説明の訂正を急がずに済む。そこまで考え、修司に見られているのに気づいた。
「百舎の仕事を渡すから、待てって話にはしないでくれ」
「そういうつもりじゃない」
実際に、その話をしかけていた。
修司は提出先へ訂正を出し、その写しを自分にも送ってほしいと言った。解雇に納得したことも、説明を認めたこともない。これからの対応は、相談している人とも考えるという。
「ここで話して済むなら、それがいいだろう」
航は言った。
修司は口を開き、いったん閉じた。
「何が済むんだ」
声はもう大きくなかった。
「俺がお前に怒ってる話だけ、済むのか。俺がここで、もういいよって言えば、紹介する人の手元には確認不足の説明が残る。分かるだろ。それを直してほしくて、来たんだよ」
修司は一時間しかないと言っていた。航はそのあいだに、昔の仲間と会った話へ戻せると思っていた。仕事の文書を直すという用事のほうを、横へ置こうとしていた。
航は水のグラスを離した。
「今、提出先へ訂正文は出さない。第一期を止める危険は、取れない」
言ったあと、修司が紙を見下ろした。そこで、やはり出す、と言い直せた。自分の承認した報告が誤りで、目の前の人間に責任はない。それを知らせるほうが先だと、口にできた。
航は続けた。
「会社を続けるための判断だ。お前も、全体の事情は分かっているはずだ」
修司は顔を上げた。
「俺が困ってることは、その全体に入らないんだな」
航は答えなかった。
修司は二枚を揃えた。紙の端がうまく合わず、二度直した。
「待つことには同意しない。今日の答えも、文でくれ」
一時間が近づいていた。修司は訓練所へ行くと言って立った。航が支払おうとすると、自分の分を置いた。
改札まで一緒に歩いた。以前なら現場への道で話したのと同じ距離だった。猫のステッカーは工具箱に貼ったままか、航は聞きたかった。それを聞けば、仕事の外にも残ったものがあると確かめられる。
聞く前に、修司が立ち止まった。
「送ったら、届いたとだけ返してくれ。返事を待ってるのか、読んでないのかまで、俺が考えなくていいように」
航は分かったと答えた。
修司は改札を通った。一度も振り向かなかった。
*
午後の実習で、修司は生徒の手が止まるのを待った。
接続の位置は合っていた。確かめる順番だけ、途中を飛ばしている。間違っていると先に言わず、どこまで見たか尋ねた。生徒は一つずつ指を置き、飛ばしたところへ戻った。
夕方、その装置は動いた。修司は隣で見ていた。生徒が小さく両手を上げ、すぐ下ろした。

「今のところ、自分で直せたな」
修司が言うと、もう一度やってよいかと聞かれた。もちろんと答え、片づけの時間を少し後ろへずらした。
ここで役に立てることはあった。航に向いていると言われたからではなく、自分がしたい仕事だった。
家へ戻り、靴を脱いでから、鞄を持ったまま玄関に座った。
昼の会話を思い出すと、今ごろ声が震えた。もっと短く、もっと落ち着いて話せば、航は聞いただろうか。いや、書く内容は分かっていた。自分の確認不足という一文を直せばいいのだと、あの顔は分かっていた。
説明の仕方を変えればよかったという考えまで、引き受けそうになった。
「違うだろ」
一人で言った。声にしたら、少し涙が出た。
百舎へ戻してほしいと頼んだのではない。新しい仕事を探せるよう、していないことをしたと言うのをやめてほしい。そのために、四年間一緒に働いた相手へ、日付を揃え、証拠を持って、一時間の用事として会いに行った。
修司は顔を手で拭いた。泣いたあとも、保守の紹介は保留のままだった。

鞄を机へ置き、相談している相手へ今日の回答を伝えた。自分の記憶だけにしないため、航の言葉をまだ覚えているうちに書いた。紹介を保留した担当者にも、訂正を求めていることと、まだ出してもらえていないことを短く知らせた。
それから実習の記録をつけた。今日動いた装置と、次に生徒が自分で確かめるところを書いた。
濃い青の湯呑みへ茶を注ぐ。新聞紙の包みを解いて以来、家で使っていた。自分が選んだ色だった。捨てたいとは思わなかった。
翌週の空いた日に、もう一つ面談の予定を入れた。
*
喫茶店を出た土曜、航は会社へ向かった。階段で、謝った、と心の中で確かめた。
会うこと自体を断らなかった。訓練所の話も聞いた。外注できる仕事を考えた。そう数えると、冷酷なだけの対応ではなかったと言えた。
修司が求めた一つだけは、断った。
机へ戻ると岡野の試験結果が届いていた。すべての問題に担当と日付がついている。航は承認を返した。こちらには今日返す意味があり、返せば仕事が進んだ。
修司へ書く返事の欄も開いた。
本日は時間をありがとう。
その文の下へ、現時点では訂正を出さない、と入れた。自分が喫茶店で言ったことだった。文書にすれば、拒んだ人間の名と日付が残る。

航は下の一行を消した。
改めて連絡する、と書くと、まだ考えている人間の返事になる。修司は返答を文で求め、待つことに同意しないと言った。読んだかどうかまで考えさせないでくれとも言った。
航は受け取りました、とだけ送り、会社の予定へ戻った。
試験表では最後の二つが、確認待ちから完了へ変わっていた。航はその担当者へ礼を返した。返事を受けた社員から、来週もお願いします、と届いた。
修司の文書を訂正する日付だけは、空いたままにした。
